第44話 皇子

 幼い少女と少年の立ち位置が入れ替わる。

 その瞬間、恐怖と覚悟がごちゃ混ぜになった幼い少女の顔からストンと表情が抜け落ちた。


 ――ピチョン……


 瑠璃色の瞳からポロポロと流れ落ちる涙の雫が重力に逆らうように空中でピタリと動きを止める。

 身体の周囲に幾つもの小さな水滴が浮遊し月の光を受けてきらりと光るその光景は、ひっ迫した状況であることを忘れてしまうほどに、一瞬にして幻想的な世界をその場に生み出した。


「なっ…!?」


 振り下ろされた剣の前に確保すべき対象が身を乗り出してきたが、男は静止が間に合わずそのまま幼い少女の体を斬り付けてしまう。

 想定外の事態に焦燥感を覚えたのも束の間、その水を切ったかのような手応えのなさに男は酷く動揺した。

 一瞬小さな背中に刻まれた斬られたような線が小さく波打ち、まるで何事もなかったかのようにすっと傷痕の痕跡が消失して傷ひとつない綺麗な肌が現れる。血痕もなく、切られた服のみが剣が振り下ろされたことが夢ではないことを証明していた。


 ローブの男は異常事態を察知し、すぐさま後ろに飛び退る。

 一瞬にして雰囲気がガラリと変わったその小さな後姿を男は警戒したように睨みつけるが、その反面男の瞳は何かを期待するかのような執着にも似た異様な輝きに満ちていた。


「……。」


 感情の抜け落ちたその顔は、まるで斬られた事実などなかったかのようにその場に静かに佇む。

 沈黙と緊張感が漂う中、閉じられていた目が再びゆっくりと開かれ、瑠璃色の瞳が淡い光を放ち暗い夜に浮かび上がった。


 その瑠璃色の瞳と目が合った刃は、思わずゴクリと息をのむ。まるで見定められているかのようにじっと覗き込んでくる瞳は、自分の奥底まで暴こうとしているかのようだ。

 目の前にいるこの少女は、本当に先程の少女と同じ人物なのだろうか?あまりにも様変わりしてしまった表情、雰囲気、態度に刃は酷く混乱してしまう。


「…なるほど。」


 しばらく刃を凝視していた少女はぽつりと呟くと興味を失ったかのようにスイっと視線を逸らし、今度は足元に倒れている人買いの男に視線を定めた。

 その視線から解放された刃はぷはぁっと息を吐き、そこで初めて自分が見つめられている間息を止めていたことに気づく。


「何なんだよ…。」


 刃のその呟きに答えることなく、少女は足元の人買いの男の怪我の具合を見ていた。

 命に別状は無さそうだが、今後歩く上で日常生活に支障をきたすかもしれないぐらいの怪我だった。

 少女が人差し指でひとつの水滴を軽くつつきスイっと指を下に滑らせると、一滴の神の涙が人買いの怪我にポチャンと落ちた。


「あ…。」


 刃が驚いてその光景を見ていると、神の涙に触れた深い傷が小さく泡立ちみるみるうちに塞がっていく。気づいた時にはもう、どこにも傷痕すら残っていなかった。


「…さて。」


 そうしてようやく、少女は自分を斬りつけた相手に視線を向けた。


「悪いけど、今の僕はとても機嫌が悪いんだ。だから正直に答えておくれ。


 ―――僕の主を傷つけたのは、君かい?」


「ーー!?」


 一段低くなったその言葉と共にゾクッ!と背筋が凍るような強烈な殺気を叩き込まれ、そののしかかるような重圧にローブの男は息苦しさを覚えた。


「き、傷つけるつもりは、なかった。我々はただ…」

「言い訳は結構だよ。」


 少女はすっと腕を上げ空を指差した。


「どんな意図があったにせよ、君たちが僕の主に危害を加えたのは紛うことなき事実だ。ましてややつらの手を借りるなど、許されることではない。」


 少女の指さす方向へ小さないくつかの水球が重力に逆らうかのように天へと向かっていく。


 ―――パリンッ!


 薄いガラスが割れたかのような音が空から響き渡り、キラキラと光の破片が降り注ぐ。

 冷たい風がさぁっと吹いて、どこからか鉄のような臭いを運んでくる。


「これ、は…?」


「邪魔な結界は消した。だけど、ぐちゃぐちゃにされたものを直すには苦労しそうだ。本当に人の土地で勝手なことばかりにしてくれたものだね。おかげで探すにも手間取ってしまったよ。」


 空に向けられた手が今度はローブの男に向けられる。

 そのことに危機感を覚えた男は急いでその場から逃走を図ろうとした。


「逃がさないよ。」


「うぐっ…!」


 一滴の水球が高速で打ち出され逃げようとしたローブの男の太腿を貫く。


「まだ子供だけど、この程度なら僕にもできる。」


 太腿を撃ち抜かれたローブの男は逃げ出すことも叶わず、痛みに顔を歪めながら地面に膝をついた。だが、瞳はギラギラと輝き、その口元は隠しきれない愉悦が浮かんでいた。


「ふ、ふふ。」


「何がおかしい…?」


 怪訝な表情を浮かべた少女をローブの男は膝をついたまま見据えた。

 少女の感情の消えた瞳からは未だにポロポロと涙が静かに流れ続け、周囲には地面に落ちることなく宙に浮かび上がる涙の雫が少女を守るように浮遊していた。

 月の光に照らされたその光景は幻想的で、思わず崇拝したくなるほどに神々しい。


「素晴らしい…。これが、神の力なのか。」

「そうだとも。そしてこれがお前を罰する力だ。」


 少女は再び手を軽く上に掲げる。


「…死ね。」


「お待ちください。」


 自らの主を傷つけた不遜な輩を始末するため手を振り下ろそうとした時、どこからか涼やかな声がそれを静止した。


「…何故邪魔をする?」


 少女が声のした方に視線を向けると、闇夜の中から一人の美しい女が姿を現した。闇に溶けそうなほどの黒い髪、一度見れば忘れないほどの整った顔をしているというのに気を抜けば姿を見失ってしまいそうな影のような女。


「皇子殿下に拝謁いたします。私は、皇太女殿下にお仕えいたしております、澪と申します。非常事態の為、このようなご挨拶になりましたことお詫び申し上げます。」


 女は着物が汚れることも構わず、地面に膝をついて礼を尽くす。


「君のことは知っているとも。僕の正体も分かっているみたいだけど…」


 少女はギロリと女を睨みつけ、空気が歪むほどの殺気を叩き込む。


「側についていながら主を守ることもできないばかりか、賊を庇うなどと。例え主の従者であろうと容赦はしない。」


 女は息苦しいほどの殺気を向けられても動揺ひとつ見せることなく、頭を下げたまま静かに言葉を続けた。


「罰はいかようにも甘んじてお受けいたします。ですが、その者を殺めるのはどうかお考え直しいただけないでしょうか?今、貴方様がご降臨なされているのは、皇太女殿下の御身にございます。」

「それは…」

「いと尊きお方の手を下賤な者の血で穢すわけには参りません。どうかその者の処分は我々にお任せいただけますよう伏してお願い申し上げます。」

「……。」


 少女は頭を下げたままの女を暫くの間黙ったまま見つめていたが、唐突にふっと重苦しい威圧感が消失し殺気が収められる。

 そして少女は「はあ…。」と小さく息をついた。


「そうだね。確かにこの器は主のものだ。頭に血が上っていて、そのことを失念していたよ。いつの日か、主がその手を血に染める日が来たとしても、それは主自身の意思によるものでなければならない。」

「出過ぎた真似をいたしました。」


 感情の読めない顔で淡々と話す澪に、少女は冷めた視線を向けた。


「…今回は僕の負けだ。大人しくこの賊は任せるとするよ。どうせ情報を吐かせるために連れて行くのだろう?」

「はい。御英断に感謝申し上げます。」

「それと、主の体を任せてもいいかな?そろそろ時間切れのようだから。」

「御意。」


 少女はその言葉を最後に、フッと意識を失ったようにぐらりと体がよろめき前向きに倒れる。

 呆然として一連の出来事を見ていた刃はハッとして慌てて倒れた少女を抱き止めようと踏み出すが


「…え?」


 それよりも早く、先程まで少し離れたところにいたはずの澪がいつの間にか目の前に移動しており、少女の小さな体を抱き抱えていた。


「え?あれ?なんで?」


 一瞬で移動したように見えたことに混乱して視線を行ったり来たりさせている刃を他所に、澪はローブの男を射殺すような鋭く冷たい視線で睨みつける。


「貴方の仲間は全員始末するか捕えました。大人しく投降なさい。」

「…嫌だと言ったら?」

「従ったほうが身のためですよ。なにせ…」


 暗がりからひっそりと黒装束の姿をした者たちが姿を現し、ローブの男を包囲した。


「これでも私も含め大勢の者たちが、貴方を八つ裂きにしてやりたいほどに激怒しておりますので。」

「は、はは。恐ろしいな。」


 ローブの男は、神の重厚な威圧感とはまた違う、澪の発する身を刺すほどの冷たい殺気に乾いた笑いを浮かべた。


「しかし、我々にも命をかけてでも達成せねばならない目的がある。ここで捕まるわけにはいかないのだ!」

「なにを…!」


 ローブの男は懐から何か古い羊皮紙を取り出し、ビリリ!と勢いよく破り捨てた。


「直ぐに殺しなさい!」


 異変を察知した澪は周りの黒装束の者たちに指示を出し、命令を受けた黒装束の者たちはすぐさま賊の首を刈り取るために一斉に飛びかかる。

 しかし、羊皮紙を破り捨てた瞬間溢れた眩いほどの光がローブの男を包みこみその攻撃から身を守った。


「これは…?」


 ローブの男の足元には光が幾何学模様を描き出しクルクルと回転している。よく見ると見たこともない文字が刻まれており、この国の技術ではないものだろうということが予測された。


「では、また合間見えよう。」

「くっ…!」


 眩い光が晴れた時、そこにローブの男の姿は既になく、静寂に満ちた暗闇のみが広がっていた。


「まだ近くにいるかもしれません。探しなさい。」


 その言葉に黒装束の者たちが音もなく姿を消す。


「す、すげぇ。」


 一糸乱れぬ超人的な動きに刃は瞳を輝かせた。しかし、すぐに思い出したようにハッとして正気に戻ると、少女を抱き抱えている澪に走り寄った。


「おい!そいつを離せ!」


 厳しい顔をして睨みつけてくる刃に、澪は冷たい視線のまま顔を向けた。

 その鋭い視線に「うっ…」と狼狽えつつも、視線を逸らさず一歩も引こうとしない刃の姿に澪は目を細めた。


「離せとは。私はこのお方の従者です。」

「じゅ、従者?」

「はい。そう言う貴方は何者ですか?」

「お、俺は刃!そいつの仲間だ!」


 刃の言葉に「仲間…?」と怪訝そうな顔をする澪に刃は慌てて言い募る。


「本当だ!こいつもそう言ってたんだからな!」

「…それは真ですか?」

「嘘じゃねえ!それに刃って名前もこいつがつけてくれたんだ!」


「凄えだろ!」と胸を張って得意げな刃に、澪は初めて表情を変えた。


「なんと。まさか殿下は本当に貴方に名前を授けられたのですか…?」

「だから嘘じゃねえって!…ん?でんか?」


「でんかってそいつの名前か?そういや、名前聞いてなかったな。」と呑気な様子で話している刃を、澪は信じられない思いで見ていたがやがて小さくため息をついた。


「本当に困ったお方ですね。」


 澪は頭が痛い思いで胸に抱えている自分の主に視線を落とした。困ったような顔をしているが、少女に向けるその視線は同一人物とは思えないほどに優しくて温かい。


「澪殿、殿下はご無事か!?」


 そこに少女の救出のため隊の指揮を執っていた左親衛府左大将、鷹松右京が慌てたように走ってくる。その手に握られた刀はまだ乾いていない鮮血に染められていた。


「ええ、ご安心を。殿下は無事保護致しました。」


 右京は焦燥感に駆られた様子で澪の腕の中で安らかに寝息を立てている少女の姿を確認し、ようやく深い安堵の息をついた。


「はぁ…。この歳になって寿命が縮むかと思ったぞ。本当にご無事でなりよりだ。」

「ええ。ですが、賊を一匹逃してしまったかもしれません。」

「ほう。澪殿がか?それはまた珍しいこともあるものだ。」


 目を見開いて意外そうな顔をした右京はちらりと、呆けた顔をしてこちらを見ている刃に顔を向けた。


「して、その童は何者だ?」


 澪が困った顔をして口を開こうとした時、ずいっと刃が右京の前に出た。


「俺は刃!そいつの仲間だ!」

「…ほう。仲間とな?」


 右京は白い顎髭をさすりながら、確認するようにちらりと澪に視線を向けると、澪は困った顔で小さく首を傾げた。

 そのやり取りを見て信じてもらえないもどかしさから、再び刃は声を荒げる。


「だから嘘なんかじゃないって言ってるだろ!俺が守ってやるって約束したんだ。こいつだけの剣になるって!」

「ーーほう。」


 その時右京の目が細められ、その瞬間好々爺とした穏やかな雰囲気が一変する。


「…小僧。その言葉の意味を、重さを、お前さんは理解しておるのか?」


「…え?」



 刃は投げかけられた言葉の意味を理解しようとして、



 ―――そして、世界が暗転した。


 





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