第1章 帰りたい 1
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夏休みの始まる8月。それは
今受けているこの世界史の授業が終われば、念願の長期休暇が与一を待っている。
与一は窓から入るグラウンドからの照り返しを今朝校門前で配っていた予備校の扇子で遮って、選択科目としては人気の無い世界史の授業を右から左へと聞き流していた。
蝉の鳴き声が聞こえる教室の窓からは、昼までの短縮授業を終えた生徒がまばらに下校していくのが見える。
「──ええ、こうやってアルプスを越えたハンニバルはローマへと迫ったわけだな。これが第二次ポエニ戦争で有名なポイントだ。あと、年代もしっかり覚えとけよ。休み明けにテストがあるからな。それじゃ今学期はここまでで」
クラスの係が起立と礼の号令を掛けると、教師が教室を出て行ったのを見て皆が一斉に帰り支度を始めた。
与一はカバンに一式を詰め込むと、友達とは早々に別れて、急いで帰路につく。高校2年生の与一は、大学受験を来年に控え、今年は絶対に満喫するという強い決意を持って教室を出た。
(とりあえず家帰ったら昨夜録画したアニメ見て、マップ進めときたい......)
教室から階段で下りて1階に出ると、グラウンドに野球部やサッカー部の部員が炎天下にも関わらず活動しているのが見えた。その奥の屋根のある建物からは弓道部の掛け声が響いてくる。
(弓道か......もうしばらく触ってないな、弓......)
与一は中学まで親の猛烈な薦めで弓道を習っていた。名前は祖父がつけたものだが、大河ドラマで一目見た俳優が格好良かったという母の願望の現れでもある。しかし、元々好きでもなかったのに加え、興味がアニメやマンガに移り、いつの間にか道場には通わなくなった。もともと人付き合いが得意でもないので、尚更高校で弓道を部活でやることには全く関心がなかった。
与一はスマホを取り出し、耳にイヤホンを掛けると、ゲームを起動してロードを待ちながら校舎を出た。
ひとたび冷房の効いた校舎を出ると、頭上高く昇る太陽とアスファルトからの照り返しが襲う。
都会暮らしでこの暑さを毎年のように経験しているとは言え、年々高くなる気温は、引きこもりがちなオタクには致命的である。実際今日も何人かの同級生は夏バテやら仮病やらで学校を休んでいた。
「レベルが高かったらこの暑さも平気なんだろうけど、リアルは甘くないよなホント」
ゲームをこなしながらバス停まで歩き、そこから冷房の効きすぎたバスに乗って地下鉄に乗りかえる。地下鉄は"CO2削減"というスローガンのもと冷房が切ってあり、なんとも言えないぬるい風が吹く。
いつもの帰路に、いつものスマホゲーム。
変わった事は何もなかった。
『──呼びかけに応じる者はおるか』
地下鉄の改札を出たとき、突然どこからか声が聞こえてきた。イヤホンをしている耳を通り越して直接頭に響いて聞こえている。
『余の助けに応えてくれる者は居らぬか』
やけに声の綺麗な、中学生くらいの少年の声で、何かに怯えているかのように少し上ずっていた。
(なにこれ、えっ?)
イヤホンを外してみるが、問いかける声は止まらない。
『余の声が聴こえる者、誰でも良い。助けに......助けてくれ......!』
(うっそだろ、マンガ読みすぎたか? 中二病は拗らせてないつもりなんだが......)
与一は後ろから改札を抜けてくるサラリーマンに押されて横に退いた。
与一の頭にはよくある異世界転生ものライトノベルのシナリオが過った。
(この場合、俺は何かしらの事故や事件に遭って、死んじまうタイプのやつか? それとも召還されるタイプのあれか??)
与一は冗談半分に笑いながら地下鉄の改札の横で辺りを見回して、それとなく、しかししっかりと全身の神経を集中させて身構えてみた。
だが、声が途絶えてから1分が経過し、5分が経過してもなにも起こらなかった。
(そりゃそうでしょうね??! 何も起こらんでしょうよ!?)
妙な安堵と少しの羞恥が、昼間の改札に流れる人波に独り佇む与一を笑った。高2にもなって現実と妄想の区別が付かないなど。確かに一時期与一にはそのような時期があったことは否めない。
(これって所謂、怪奇現象ってやつだよな......うん)
与一は
相変わらずの熱気は駅前の人混みのせいか、少し暑苦しく感じる。滲んだ汗を吸い込んだ制服の半袖シャツが、冷えて熱せられてを繰り返して気持ちが悪いのを堪えつつ、また駅から家までの地上を歩く。
スマホゲームの続きをしながら与一は先程のおかしな現象を反芻していた。
(そもそも、助けて、って何だよ? 一介のいちオタクに求めるものか? 言われても俺にはどうしようもないし......)
宇宙人など、そういう類いの話はあまり信じない方の与一だが、今回ばかりは少し疑ってみたくもなった。
(純粋に俺の頭が暑さでイカれただけかもしれないけど......)
だが、先刻の声は確かに聞こえたし、そのセリフも覚えている。白昼夢にしては出来すぎていた。
しかし与一はここである大きな事を失念していた。何かの前触れというものは、事が本腰に入る前には必ずあるもので、そしてその本腰には、意図せず突如入るものでもあるということを。フラグは与一が意図せずとも立っていたのだ。
日を避けるため商店街のアーケードの下を通っていた与一は、ゲーム画面の中央に電波の切断されたことを知らせる画面が表示されて立ち止まった。
(速度制限......? 今月入ってすぐなのに)
確認すると電波の通信強度を示すアンテナのゲージにはバツ印がついていて、一切の電波がないことを示していた。
(暑さでバグったか......?)
与一は画面をスライドして再度Wi-Fiを繋ぎ直すが、やはり電波のマークの横のバツ印は消えない。
(最悪。セーブしてなかったのに......)
これはダメなやつだ、と与一はボス部屋の手前でマップをセーブしなかったことを少し後悔した。ため息混じりにゲーム画面を閉じてイヤホンを外す。
しかし次の瞬間、与一は先程まで感じていた汗の染み込んで気持ちの悪かったシャツが、にわかに冷えていくのを感じた。風が吹いたでもないのに、急に変わった温度は、商店街の店のエアコンが放つ冷気のそれとは異なっていた。
思わず身震いをしてスマホの画面から顔を上げると、与一は唖然とした。
「......え?」
周りには商店街の店の喧騒も、道を行く人の流れもない。
与一は霧の濃く立ち込めた針葉樹の森の中に佇んでいた。
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