第30話 ブレーキはなくなった

 母親が勉強を強制するようになったとはいえ、家族の関係は大きくは変わらなかった。

 樹は必死に勉強し、当然成績は上がった。褒めてもらおうと母親に見せたこともあった。


「学年一位? そう、ならその調子で頑張りなさい。私だってあなたの塾の費用を稼いでいるのよ。くれぐれも成績を落とさないようにね」


 褒める気などまるで感じられなくなってしまい、今までに見てきた優しい母親はもうそこにはいなかった。

 当初は勉強しろと小言がうるさい程度だった。

 だが、意識不明のまま父親は亡くなった。

 死亡保険など入っていなかったため、貰えたのは派遣先の企業の弔慰金。けれども、葬式代と墓代ですっかり消え失せてしまった。


「何で私がこんな目ばっかり……」


 母親はこれを受けてさらに壊れてしまったのだろう。密かに樹が母親の様子を見に向かうと、母親が口にしていた言葉だ。


「私は何も悪くないもの。そうよ、全部あの男が悪いんだわ。それに、あの派遣先も、派遣企業も市も県も国も悪い」


 その後は、常に頭を抱えながら怒声で人、物、政府、挙句の果てには自然現象までに文句を垂れ続けるようにもなった。

 樹の教育費でお金がなくなりそうになると母親も仕事を掛け持ちするようになり、金を捻出。しかし、職場からはあまり快く思われなかったのか頻繁に職を変えた。

 朝早くから夜遅く。一日も休める日がなく来る日も来る日も勉強漬けだった。次第に、母親の樹への風当たりはどんどん強くなっていき家で漫画は完全に描けなくなってしまった。

 だからこそ、学校の休み時間や放課後が唯一趣味に没頭できる時間だったのだ。


「ねえ、何してんの?」


 放課後、樹は勉強のために居残りをする。というのは建前であり、その間に樹は漫画を描こうと模索したのだ。

 机の上に教科書や参考書と一緒に置いてある漫画用紙。樹は鉛筆を握ったままあれこれと耽っているなり後ろから声が聞こえた。

 煌だった。

 樹と煌は小学生からの付き合いだった。中学校に進学しても、同じクラスであったため交友関係は続いている。

 樹は煌の声が聞こえるとすぐに漫画用紙を机の中へとしまった。恥ずかしいと思ったのだ、それに家では描けないのだから言わないほうがいいとも思っていた。

 けれども、樹は言いたいという衝動に駆られる。家では漫画に対する風当たりは厳しく、碌に自由がない。せめて学校だけでも自分は大好きな漫画に囲まれていると実感したかった。


「ん? どうしたの?」


 煌はすぐに樹の机を覗き込むが、そこには興味をそそられる様なものは何もない。ただ、見るだけで憂鬱になる教科書と参考書が置いてあるだけだ。


「なんでもないよ。ところで今日一緒に帰らない? いろいろ話したいし。ああそうそう、今週週刊ウィークリーに載ってる初連載の漫画見た? 主人公が異世界に転生するっていう──」


 週刊ウィークリー。煌のみならず樹も大好きな漫画雑誌だ。けれども、当分樹は読めていなかった。

 笑顔で感想を語る煌に、樹はただ相槌を打つことしかできない。

 そんなよくわからない表情で相槌を打たれた煌は困惑した。


「もしかしてまだ買ってないの? なら読む? 家にあるよ」


 魅惑的な提案だった。

 本来であれば、この時間は勉強の時間。しかし、抑圧され続けた樹の漫画への欲望は抑えられなかった。


「うん、そうするよ」


 今日だけ。そう、今日だけ。

 罪悪感から逃れるために呪文のように延々と心の中で呟きながら煌の家へと向かった。


「でね、とにかくその異世界漫画がつまんないんだよ。高校生が異世界に転生するんだけど、魔法で拳銃とか自動車造り出すんだよね。製造業舐めてるのかな?」


 煌は笑顔で新連載の漫画を辛辣な口調で語る。ネタバレではあるのだが、怒る気にはなれない。ネタバレであったとしても、漫画に飢えていた煌にとっては幸せだったのだ。


「でね、特に何もしてないのに女の子がどんどん主人公のもとに言い寄ってね、全く共感しないんだよ。──あ、そろそろ着くよ」


 煌の家は、異常な生活を送る樹から見て普通の家だった。決してお金持ちというわけではない。マンションの一室にあり、家自体は樹の家よりも狭く感じられた。

 部屋の中へとお邪魔すると、そこにあったのは本棚一面を閉める漫画雑誌。全部読み尽くしたいが時間が足りない。遅くなれば母親に違和感を抱かれ学校終了後すぐに帰ってくるように言われかねない。

 樹が選んだのは一冊だけ。週刊ウィークリーだ。長年見てなかった長期連載の登場人物たち。そして、初めて見る漫画たち。巻頭カラーはなく、連載している漫画は全部モノクロだ。しかし、どれも樹の目には色鮮やかに見えた。


「え? なんで泣いてるの!?」


 気がつけば、樹は涙を流していた。嗚咽もでず、ただ漫画の世界に浸っていただけ。自分では気が付かなかった。いつしか、激しく咽び泣いてしまう。

 煌はすっかりパニックになり親に連絡しようかとも提案される。しかし、それだけはと咽び泣く中全力で拒否し続けた。

 そして碌に漫画も読めない中、帰った方がいいと言われ大人しく同意する。他人に迷惑はかけられない。

 万が一のことを考え、煌が送ってくれることとなった。

 漫画を読めないのは残念だったが、まだ煌が連れてってくれる。そう思っていた。

 けれども煌はその直後、トラックに轢かれて死亡した。

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