第一章(1) 動き出した運命
人には皆それが見えないのだと、気付いたのは4歳の時だったか。漠然とこれは見てはいけないものなのだと理解をして、それからは「見ない」方法を探る日々だった。しかし、見まいとすればするほど「見る」感覚は研ぎ澄まされていくようで、時の流れの中でその能力に抗うも空しく、結局「見れなく」なることはなかった。
普通は見えないもの、見てはいけないものが「見えてしまう」というのは存外苦しいことで、そのせいでオリアナは自然と、人と触れ合うのが怖くなってしまっていた。
ただ、こちらが心を閉じれば見ずに済む、ということも様々な経験を経て解った。
それからはかなり楽になった。
今では、平常時も心を閉じて過ごせるようになってきたおかげで見る回数も減った。まあ、うっかり気を抜いて見てしまうこともたまにはあるが。
「あの夫婦、うまく仲直りできたかな」
一晩ですっかり雨雲は遠ざかっていったようだ。嵐の過ぎ去った星空を見上げて、オリアナはなんとなくポツリと呟く。
見も知らぬ夫婦の心配をするほどには、まだこの能力に絶望はしていない。能力のおかげで得たものもあるのだから。
「さあ、今日は大口の仕事だし、そろそろ準備しよっかな」
高台から見下ろす夜明け間近のフィレンツェの街並みは、雨あがりのせいか瑞々しい。明け方の5時前。通常より少し早起きだ。この街に住んでまだ半年と少しだが、この景色が好きだなあと思えるくらいは気に入っていた。店兼自宅の前を走るレンガ造りの大通りにはまだ人はいない。
腰まで伸ばした亜麻色の髪をざっくりとひとつに束ねながら階段を降りると、花用冷蔵庫の一部のLEDがぼんやりと店内を明るくしていた。ひととおり店内の花たちを見て回る。
うん、どの子も元気そうだ。
今日は一日がかりの大仕事が入っている。隣街にある大豪邸で特別大きなパーティーがあるとのことで、近隣の花屋全てに声がかかったらしく、もちろんオリアナの店も例外ではなかった。
ただただ平穏無事に、今日という日が終わりますように。
未来を見る能力なんて無いが、なぜだかなんとなく嫌な予感がする。せっかく嵐は過ぎ去ったのに。
そんなもやもやをかき消すようにフッと一息吐き出してから、全身をばねにして重いシャッターをこじ開けた。
*
「さすが…」
思わず感嘆が漏れた。
約束の時間の10分前に件の豪邸に到着したオリアナは、招き入れられた大広間の装飾を見上げていた。
既に何人もの関係者がパーティーの準備をしているようだった。
壁には風景画がいくつも飾られている(有名なものから無名のもの、水彩画から油絵までそれはそれは幅広く)。
大広間の入り口から半分は丸テーブルが並ぶ。立食パーティーと聞いているから、おそらくここに世界の食通も唸るほどの美味しい料理が運ばれるのだろう。もちろんオリアナは客ではないので想像するしか出来ないが。
会場の前半分には椅子と譜面台が煩雑に置いてあった。まだ整頓されていない。その奥に黒く艶光りしたグランドピアノが向かい合った状態で2台。
そしてなんといっても壮観なのが、入り口から入って正面の、壁一面にどかりと設置されたパイプオルガン。ただでさえ高い天井をもっと高く見せているようだ。これほどの大きさのものなら、悠に100万ユーロ(※約1億円)は超えるだろう。
「大富豪は規模が違うな…」
なんせここは、世界的にも有名な音楽一家ヴェルディ家の本宅だ。この大広間だけでなく、ここに来るまでの玄関ホールや廊下でさえも意味が解らないくらい広く、キラキラしていた。総額…なんて予想したって何の意味もないので、とりあえず働こう。
オリアナの担当は大広間の入り口付近を「これでもかというほど派手に」するというものだ。「これでもかというほど派手に」と依頼してきたのはシルヴィアというメイド長だった。
とにかく派手な花と、隙間を埋める小ぶりの花を大量に持ってきている。本業の見せ所だ。せっかく一番目に入る場所を宛がわれたのだから、いっそ宣伝になるくらいのものを作ってみせる。
オリアナは意気込んで作業に取り掛かることにした。
「……ア!………ヴィア!!」
びくりっ。遠くから叫ぶ声に、唐突にオリアナは現実世界に引き戻された。呼ばれたかと、思わず声のした方に目をやる。
どれくらい時間が経ったろうか。集中していたせいで時間感覚が狂っている。
グランドピアノのあたりに恰幅のいい初老の男性が立っていた。そこに向かってメイド服の女性が走り寄っていくのが見える。
なんだ、メイド長が呼ばれたのか。無駄な緊張がほどける。
初老の男性は、身なりからしておそらくこの屋敷の主人だと思われた。クラウディオ・ヴェルディ、世界に名を馳せたチェロ奏者だ。ここからだと遠すぎて何を話しているかは聞こえないが、クラウディオはずいぶんご立腹のようだった。
大きなお屋敷のメイドとなると、苦労も絶えないんだろうなぁ。
他人事のようにぼぅっと様子を眺めていたオリアナだったが、突如妙な感覚に襲われた。
視線を感じる。
どこ、どこからだ。
全身の感覚器官と神経を研ぎ澄ませた。
身体は動かさず、目だけで探す。誰。
「…こ・こ・だ・よ」
総動員していた神経を全て麻痺させるような甘い声が、左後ろから聞こえた。
「~~!!」
うっかり、心臓が止まるかと思った。
いやに聞き覚えのある声。そう、たった昨日、少しだけ会話を交わしたあの…。
「……また、ですね」
慎重に、振り返らずに答えた。
振り返らなくたって解る。長身で、さらさらの金髪に透き通ったブルーの瞳の…昨日会ったばかりの名も知らないイケメン。
「言った通りだったでしょ。まさか昨日の今日とは思わなかったけどね」
その言葉を聞き終えてから、ゆっくりと後ろを振り返る。
昨日よりも少しラフな出で立ちだったが、やはり思った通りの美しい男性がそこにいた。
オリアナも背は低くない方だが、そのオリアナでさえも大きく見上げる長身。
「や、お仕事ご苦労様」
にこり、と華が舞うような笑みを向けられ、オリアナは思わず後ずさった。
何を考えているかわからない系の美形は苦手だ。
「…あなたは、ヴェルディ家の方ですか?」
この男が何者か、オリアナは全くもって存じ上げない。正直、依頼人といえども人物の顔までは前もって調査したりなんかしない、本業関係ならなおさら。
「んー、この家の客だってことだけは確かかな」
なんとも曖昧な返事をされ、どうしてか辟易したような表情をしてしまった。
「ああ、そんな睨まないで」
睨まれたのに嬉しそうなのは何故だろう。
とりあえず本業に依頼してきた一家ではなさそうだ。今回のパーティで、オリアナと同じように何かを委託された業者か何かだろうか。それにしても一家の一員でないなら、オリアナと接触すると予言出来ていたのはどういうことだろう?
「ひとまず、また会えてうれしいよ、オリアナちゃん」
男はそう言うと、オリアナの左手に手を伸ばした。
「…っや、」
反射で左手を引く。
「…め、てください、急に触るのは」
一瞬きょとんとした後、そういう反応が来ると判っていたかのように余裕の笑みを浮かべた男は、空振った右手をぶらぶらさせて言う。
「親愛の口づけを、と思ったんだけど」
「イタリア男はそういう所が苦手です」
「へぇ、まるで自分が異国民みたいなことを言うんだね」
「……」
何を見透かしているのか、その口元がにやついていることがオリアナの神経を逆なでる。
「子どもの頃から、苦手だったので」
「ふぅん、そう」
未だその笑みを崩さない男に、だんだんと腹が立ってきた。
「それより、そんなだらしない恰好でうろついてていいんですか?あなた、曲がりなりにもお屋敷のお客様なんでしょう」
オリアナは作業を続行すべく、花のオブジェに向き直る。相手にするだけ時間の無駄だ。
中心に据えた深紅のデイジーを手に取って、位置を調整する。13時までに作業を終わらせる約束だ、腕時計を確認すると、既に10時を回っていた。あと3時間も無い。
「私は作業で忙しいので、これで」
男の方を向くでもなく、そう突っぱねた。
「…」
後ろは静かだ。会話を諦めて去ってくれたのだろうか、そうだったら有難い。
…と、思ったのもつかの間。
「『あなた』じゃなくて、『ノア』だからね」
耳元で囁かれた。びくりと肩が揺れて、持っていたデイジーを取り落とす。
「あらら」
後ろから、その長い腕でデイジーを拾い上げ、
「はい」
肩越しにオリアナのジャケットの胸ポケットにそれを差す。
そして、
「名前、覚えておいて」
これでもかと吐息をたっぷり含ませた声で、耳に触れる距離からそう言い放った。
なんとも甘い声に、鳥肌が立って言葉が出ない。
なぜだか感じる屈辱感。オリアナは自分の胸元のデイジーを見ることができないまま無言を貫いた。
「―じゃ、また会…」
そのとき。
――突然の音楽が、艶めく声を掻き消した。
驚いてオリアナは広間の正面に目を遣る。音に台詞を飲み込まれた男もそちらに視線をずらした。
特大のパイプオルガンの椅子に、男性が座っている。たった今大音量で流れ出したのは讃美歌のようだった。
荘厳な音色、音に共鳴するように、パイプがキラキラと輝いていた。
「明日の為の試奏かな」
辛うじて聞き取れる大きさで彼が言う。
なるほど、ということはあそこに座ってオルガンを奏でているのは、当主クラウディオの甥エミリオだろう。
明日の招待を受けていないにも関わらず、こうしてプロの音楽が聴けるのはラッキーだったな、とオリアナが呑気に考えていると、急に、ある一音だけ音がこもりだした。
素人耳のオリアナでさえ解る異常だ、エミリオはすぐに引くのをやめて、大声で何かを叫ぶ。周りにいた作業着の何人かが、オルガンの左横にあったドアから壁の中に入っていく。
こういった壁に設置してあるパイプオルガンのパイプは、もちろんパイプなので中は空洞なのだが、基本的に壁の表側からは空洞を覗けない仕組みになっている。おそらくそのドアから、オルガンの裏側へ、パイプ整備用の階段が続いているのだろう。
しばらく様子を見ていると、ややあってドアの方から数人の騒ぐ声が聞こえてきた。
何か、あったのか。
ここ数年、オリアナの嫌な予感は外れたことがなかった。
冷たくなった拳をぐ、と握りしめた時、ドアから作業員が一人転がり出てきて、こちらにまで聞こえるような大声で、
「ひ、人が…死んでます!」
叫んだ。
ドクンと心臓が鳴った。また当たってしまった、嫌な予感が。
「オリアナ」
横でノアの堅い声がオリアナを呼んだ。
「たった今から、君は俺のパートナーだ」
そう言うや否や、長い脚でドアに向かって駆けだした。
「…えっ!?」
一瞬反応が遅れた、なに?パートナー?
「君も早く!」
走りながらノアがオリアナを手招きしている。
わけもわからないまま、とりあえず反射的にオリアナも駆けだした。
「ちょ、あなた何者なの…っ!?」
ここまで曖昧だった彼の正体が、ようやく判明した。
「探偵だよ!」
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