#9『ロスト・コスモノート』

 イタリア、トリノ上空―



 アレク・バチスタはヘッドセットを机の上に置くと、深いため息をはいた。それは、とてもゆっくりとしたもので、弟のジョヴァンニ・バチスタには、肺に溜まった毒素を排出する作業のように見えた。

 椅子に腰を掛けたまま、一向に動こうとしない兄を見てジョヴァンニは仕方なく立ち上がると、無線機のスイッチを切って回った。

 巨大な壁のような無線機は彼がスイッチを切り上げていくと同時に、胎動を止めた。

 ホワイトノイズがパッタリと止むと部屋に恐ろしいほどの沈黙が訪れた。

 

ジョヴァンニは窓を開き、部屋の籠った空気を外へ出した。

 窓からは10月の少し肌寒い空気が流れ込み、鼻頭を掠めていく。外にはトリノの夜景が広がっているが、ジョヴァンニは一瞥もくれずジッと、ただ夜空を見上げた。

 果てしない暗黒の空に爛漫の星。

 それを見ても彼の心は晴れない。どころか、むしろ重たくずっしりと心が沈んでいくようだ。


「もう・・・・・・・・・やめよう」


 ぽつりと兄が言う声でジョヴァンニは再び視線を部屋の中に戻した。

 兄は自分に言い聞かせるように何度かそう呟くと、黙って部屋を出て行った。薄暗い屋根裏部屋に埃が舞って、嫌なかび臭さだけが鼻を突いてみせた。




 始まりはなんでもないことだった。

 多くの人がそうであるようにイタリア、トリノ郊外の小さな街で生まれ育った彼らにとっては、その小さな街が世界の全てであった。

 顔なじみの店で働き、顔なじみの店で夕食を買う。決してそれ以上の広がりを見せない街に繰り返される毎日。

 自分が死ぬ、その瞬間までこの無限ともいえる日常の中で暮らしていく。そう思うと2人は強烈な孤独を覚え、人生の行く末を垣間見、恐ろしくなった。





 だから、アマチュア無線だけが2人の孤独を癒してくれる唯一の手段であった。

 スピーカーから聞こえるどこかの誰かの声は二人が独りぼっちではないということを強く訴えかけてくれたのである。




 1957年10月4日の夜だった。

 いつものように周波数をいじっていたアレクが一つの回線を掘り当てた。それは最初、規則的な電子音からなるテレメトリのようで、2人もラジオ局の電波状況チェックかなにかだと思っていた。


しかし、途端に男性の声が混じったことで状況は一変した。


 それは明らかに宇宙船、つまりロケットと交信している声であった。声は低く野太い男性のもので、聞き取りやすいロシア語だった。


 オペレーターらしき男の声は「全て順調。予定通り進行中」と繰り返す。

一晩中続いたその通信は、兄弟に新たな興奮と興味を沸き立たせた。

 この数年、アメリカとソ連による苛烈な宇宙開発競争が行われていることは二人も知っている。

大戦に勝利し、栄光と繁栄の国となったアメリカを追従するかのように、ソ連はその足を宇宙へ、宇宙へと伸ばしていた。もちろん、それは極秘裏に。


 世界が開けた瞬間であった。

 

 その日から、ぼろ屋の屋根裏に作られた2人の通信基地は、孤独を癒やす薬ではなく、世界最先端の極秘計画を盗み聞きする知的好奇心の回路となり、兄弟は宇宙船の電波傍受に躍起になった。


 アレクは電波が受信できる理由を探し、自らに起こった幸運を発見した。丁度、ソ連の打ち上げ基地から発射されたロケットの軌道上に彼らの住む街が位置していたのだ。


 何かに憑りつかれたような熱中っぷりはガガーリンの危機を発見し、時に軌道を逸れかけた有人宇宙船のSOS信号を捉えた。


 それ自体に何か意味があった訳ではない。事実、ソ連によるロケット打ち上げの数々は極秘事項として、報道にも載らず、2人が傍受した通信、計6件の内、公式発表されたのはガガーリンの有人飛行ただ1件のみだった。


 しかし、兄弟はそれでよかった。会ったこともない宇宙飛行士の声は自分たちを別世界に連れて行き、少年時代の興奮と冒険心を呼び戻す。

 ノイズ混じりの異国の言葉と、兄弟は遥かなる世界を旅をしていたのだ。





『ッ・・・・・・すぅーーーッ・・・・・・・・・ふぅーーッ、はぁーーーーッ・・・・・・・・・ッ・・・・・・・・・』

 荒い呼吸と苦しそうなうめき声。


 それは8度目の傍受だった。

 すぐ頭によぎったのは窒息の二文字だ。ジョヴァンニは兄、アレクが震える手で何度も回線を切ろうとしては、やめるのを見た。

 

 聞きたくない、だが聞いてしまう。恐ろしさと好奇心の混ざった感覚にジョヴァンニは胸が苦しくなる。

 男の声は数十分の間断続的に続き、次第に弱まるとノイズに変わった。


 明確な死がそこにあった。


 研ぎ澄まされた耳はいやらしいほど生々しく、一人の人間がどこかで命を終えてしまったことを伝えていた。

 兄弟に突き付けられた宇宙開発の現実。それを飲み込むにはまだ2人とも若すぎた。


 兄が立ち去ったあと、ジョヴァンニもしばらく部屋に居座った。

 この飛行士の死を知っている人間はどれぐらい居るのだろうか。自分たちは知っていていいのだろうか。

 もう一度、闇夜に目をやると彼は唇を噛み、電源コードを引きちぎった。

 そしてそれ以来、二人が屋根裏部屋に上がることはなくなった。






 どこかで鳴り響くビープ音でジョヴァンニは目を覚ました。夢かと一瞬頭を振るってみたが、音は消えない。

 それは幾分、籠もっているが確かに聞こえている。


 音を追って天井へ目線を上げると同時に部屋のドアが開き、兄が飛び込んできた。


「おまえっ、無線いじったのか!?」


 ジョヴァンニは大きく頭を振る。あの夜から一度たりとも屋根裏には上がっていないのだ。


「に、兄さんじゃないの・・・・・・?」


 兄もまさかと言うように首を振った。


 じゃあ誰が― 取るものも取りあえず2人屋根裏へ駆け上がると恐る恐るドアを開く。

 そこには誰も居ない。ただ、電源が入った無線機がうなりを上げて奇妙な電子音を繰り返しているだけだった。


 兄は怯えながらもどこか安堵した様子で呟く。

「故障か・・・・・・・・・?」


 そんなはずはない。電源コードは引き抜いたのだ、ジョヴァンニは机の上にだらんと垂らされた電熱線の束をみとめた。


 途端にビープ音が周波数をチューニングするざらついたノイズに変わる。周波数を合わせるヴォリュームが独りでに回転し、右へ左へと動く。

 兄弟はお互いを見合わせただけで、何も言葉を発せ無くなった。今自分たちの目の前で起きている謎の現象を説明することすら出来ない。

 

無線機が電源も無しに一人でに動き出しているなんて、あり得るはずがないのだ。

 

 そして。

 ノイズの中に少しずつ、声が混じり始めた。

 それは何度も聞いた野太い男性ではなく、切迫した女性の声であった。


『・・・・・・・・・がいます・・・・・・・・・ねが・・・・・・願いますッ! 応答願いますッ・・・・・・! 何か言ってくださいッ! ・・・・・・・・・・・・熱いですッ! 45?・・・・・・50・・・・・・・・・酸素・・・・・・・・・これで・・・・・・・・・はい。吸っています・・・・・・・・・ちが・・・・・・・・・・・・状況を教えてくださいッ 何が起こって・・・・・・・・・・・・とにかく、熱いですッ! はい・・・・・・・・・はい・・・・・・落下しますか? はい・・・・・・・・・はい・・・・・・再突入します・・・・・・危険ですか?・・・・・・炎・・・・・・炎ですッ・・・・・・熱いです・・・・・・熱いです・・・・・・・・・熱い・・・・・・熱いッ・・・・・・・・・熱いッ熱いッ 聞いていますッ!応答してッ・・・・・・・・・聞こえていますか・・・・・・ッ・・・・・・お願い、応答をッ・・・・・・・・・ねぇッ! ねぇッ! 聞いているんでしょッ!! 見捨て・・・・・・・・・熱い、熱いッ・・・・・・・・・死に・・・・・・・・・・・・熱いッ熱いですッ―――』




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