モヨヨ超短編劇場

諸星モヨヨ

#1『ボタン』 

何気ない生活の中でふと気づくことがある。大抵の場合、それは気づかなくていいことだ。気づかないことで、上手く機能しているシステムが世の中にはごまんと溢れている。


 多美子たみこの場合、それはボタンだった。


 気づいたのは、今朝。大学校舎のエレベーターに乗ったときだ。

「ボタン、押してもらっていいですか?」

 後から乗ってきた、一人の学生がそう言った。相槌を打ち、何も考えず回数ボタンを押す。

 ハッとしたのはその時だった。

 あたし、最近よくボタン押してるな― それ以上何かあるわけでも、含みがあったわけでもない。ただなんとなく、そんな事を思った。


 講義室へ向かう最中、最近押したボタンについて考えてみた。エレベーターは言うに及ばず、誰かに頼まれやたらボタンを押している。そうだ、昨日など切符の発券機に戸惑っている老婆の代わりにボタンを押してあげた。


 だから、どうということはない。ただ、最近ボタンを押すことが多い、そんなことに気づいただけ。それが気のせいであっても、事実であってもだからなんだというのか。



「すみません、6階をお願いします」

 また、だ。講義を終えて友人の里香りかとエレベーターにのるや否やそう声を掛けられた。

「ええ、ああ」

 そう言ってボタンへ手を伸ばす多美子を

「やめなよ、あの、押すなら自分で押してください」

と里香が制した。

「何言ってんの、里香。いいじゃん、ボタンぐらい」

 多美子は笑いながら、躊躇なくボタンを押した。里香は酷く怪訝な顔をしたが、無視した。

エレベーターの上に表示された時計は10時41分を指していた。



 それから始終不機嫌そうだった里香は、大学のカフェテリアに入った所でとうとう爆発した。

「多美子、ちょっと」

 彼女は多美子に座るよう促し、軽く語気を荒げた。

「なに?」

「あんた、あの噂知らないの?」

「噂?」

「ボタンの話」

 里香は呆れたような表情で額をかく。


「世の中のありとあらゆるボタンが、って話」


「なにそれ」


 多美子は馬鹿にしたような笑みで友人を見返してやった。里香は前からそうだ。この手の眉唾な話に節操がない。分かって楽しむのであればいいが、彼女は抵抗なく鵜呑みにしすぎるきらいがある。


「だから、そんな無闇矢鱈にボタンを押さない方がいいよ。自分が死刑の執行者になるかもしれないんだよ?」

「すきだねぇ、里香も。だいたい、日本に何人の人が居ると思ってんの? それでそんなタイミングよくボタンを押してる人間がどれだけ? どんな人がその嘘を考えたのか知らないけど、ちょっと詰めが甘いんじゃないかなぁ?」

「じゃあ、嘘だって言い切れる?」

「知ってる? 里香。 死刑執行は三つのボタンを三人で同時に押すことで執行完了するんだよ。罪悪感を軽減させるためにね」

「じゃあ、その三人が一億三千万人になれば、もっと罪悪感はないじゃないの?」



 それはどうだろうか。自宅マンションのエレベーター前にたったとき、そのことを思い出した。頭ではそれがどれだけくだらない作り話なのかは分かる。中高生ならまだしも、自分はもう大学生だ。大抵の分別はある。


 だが、理性ではそう分かっても身体は何かを拒否している。万に一つの可能性がないわけではない。



 だったら。


 自宅まで階段で上がった自分を多美子は情けなく思った。結局、自宅につけば電気を付けなければならないし、テレビだって見る。

 ボタンなんて、一日どれだけ、どのくらいの人が、どれだけ押していると思っているのだ。


 だから、これだって。


 これだって、私が押したわけではない。

 翌朝、ニュースを付けた多美子は思った。

「―また、尾形死刑囚の死刑が昨日午前10時41分頃、執行されました」




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る