第二幕『さまことなりくにやかう』8

 


 記憶というのは曖昧なもので、時間が経てば経つほど、元の形を失ってゆく特性を持っている。様々な解釈の介入。当人の主観的希望が無意識に入り込み、人に話して訊かせるときには既に原形など留めておらず、歪な形に変質してしまっているのが常である。そのような現象を避ける為に人は、日記や写真、メモや映像といった外部に記憶を記録として刻み込むが、陣平はこの記憶を外部装置に記録することはなかった。


 それは、あまりに鮮明で、形を変えることすらできなかった記憶の物語。




 城築真古登きづきまこととの出会いは、輪炭陣平にとって歴代五本の指に入るほどの最悪なものだったと記憶している。


 城築真古登がどんな奴だったかと訊かれたら、自分勝手な奴だったと、陣平はそう答えるだろう。真古登はそんな男だった。


 警視庁警備部の特殊部隊に配属されて暫くして行われた射撃訓練の最中、同じ教場だった城築真古登は手に持った銃を突然、陣平の胸に向けてこう言った。


「知っているか? ロシアの特殊部隊は、兵士に自信を植え付けさせる為に、こういう訓練をしてるみたいだぜ」


 真古登の言葉が、耳から脳に到達するより早く、防弾ベスト越しに三度、重い衝撃が走る。考えるより先に状況を理解した。胸を撃たれた。


 陣平は着弾の衝撃で、床に吹き飛ばされる。


「この訓練の狙いはな、撃たれた後の対処を学ぶことだ。銃を扱う職業である以上、どんな状況にあっても、素早く正確に撃ち返すことができなければならない。それは特殊部隊だろうが、警官だろうが同じことだぞ、輪炭陣平クン」


 そう言うと、真古登は気取った表情で、西部劇のガンマンように、銃身から出る煙を吹いた。


 急に実弾で撃たれたことと、業務的な会話以外、大して関わりのなかった真古登の馴れ馴れしい態度に対し、一瞬で頭に血が上りきった陣平は、怒りの衝動のままに真古登に向け銃の引き金を引いた。しかし訓練で全弾撃ち尽くしていた陣平の銃は、引き金がカチカチと虚しい反復運動を繰り返すだけだった。


 次の瞬間、教官と助教、そして複数の隊員が陣平と真古登の元へ押し寄せた。彼らの全体重が一気に伸し掛かってくる。それはまるで分厚い筋肉の壁そのもので、押さえつけられた陣平の肺と肋骨は、悲痛な叫び声を上げる。


 陣平と真古登はあっという間に持っていた銃を取り上げられると、そのまま拘束され教官室に引きずられて行く。


 教官の富佐井ふさいは、部屋に入るなり、堅いデスクを右の拳で思い切り殴りつけた。デスクが軋む音と、腹の底からの怒号が、教官室に轟きわたる。てらりと輝く禿げ頭に、これ以上ないくらい青筋が浮かび上がっていた。


「この大馬鹿者どもが! 警官同士銃を向け合うなんて一体何のつもりだ。気でも狂ったのか! このボケナスども! 馬鹿!」


 富佐井の怒号は止まる所を知らなかった。あまりの怒りに語彙が枯渇しているのがありありと訊いて取れる。禿げ頭に浮かぶ青筋がどんどん膨らんでゆき、終いには破裂してしまうのではないかと、陣平は少し心配になる。


 約二時間ぶっ通しで続いた説教の後、陣平と真古登には一週間の謹慎処分と、膨大なペナルティーが言い渡された。本来なら有無も言わさず除隊のところ、幸いにも二人は非常に優秀だったことと、偶然にその場に居合わせた当時警部だった岩石九郎の尽力もあって、非常に寛大で異例な処置で何とか除隊は免れた。


「もう何も起こすなよ。この問題児どもが」富佐井の捨て台詞の後、陣平と真古登は深々と頭を下げ、教官室を後にした。数歩廊下を歩いたところで、真古登が止めていた呼吸を再開するように大袈裟に深呼吸を始め、くすくすと声を立てずに笑い始めた。肩が小刻みに震えている。


「ぷはあ、見たか陣平クン? 机を殴りつけたハゲ井の右手、めっちゃ腫れてたな。今頃痛みでもんどりうっているんじゃないのか? あっははは」


 真古登は破裂した風船のように笑い出す。


 因みにハゲ井とは、名前の割に髪が一本も生えていない富佐井教官への、いつ誰が付けたかわからない悲惨な渾名であった。いまでは部隊の殆どの隊員が、陰でその渾名を呼んでいた。


「で、城築はどうしてこんなことをしたんだ?」


 陣平は、未だ痛みの引かない胸を中指で差して、真古登に訊ねる。


 確実に折れていますよ。と肋骨が引かない痛みで申告してくる。嫌な痛みだった。そして痛みとは別に、ある感情が胸の中で渦巻き始めるのを自覚するが、陣平は精一杯な紳士的な態度を崩さず、接することを心掛けた。


「城築なんてそんな他人行儀な呼び方やめろよ兄弟。真古登でいいって」


 真古登はにっと白い歯を見せて笑うと、陣平の背中をバシバシと叩いた。


「誰が兄弟だ」と陣平は痛む肋骨を庇い、心の中で激昂したが、ぐっと堪え、引きつった笑顔で再び真古登に問いかける。


「それで、城築。どうして、こんなことを、したんだ?」


「んー、ほら特殊部隊の仕事ってよ、基本的に命が危険に晒されるじゃねえか。そんなときに背中預けるのがヘタレでグズな軟弱野郎なんて勘弁してほしいわけよ。俺には叶えたい夢があるんだよ。つまり、そんな軟弱のせいで死にたくねえわけ。つまりアレは俺の背中を預けられる程の奴か、俺の夢の達成に邪魔にならない奴かどうか、確認するためのテストだったってわけだ。今までこっそりといろんな奴に様々なテストをしてきたが、ことごとく駄目だった。でも、お前は違った。ピンときたね、陣平、お前は……」


 ゴスっと重い音がする。そのすぐ後に真古登のくぐもった声が追随する。


「夢だ? テストだ? なにふざけたこと言ってんだ。それに馴れ馴れしく名前で呼ぶんじゃねえよ」


 我慢の限界を超えた陣平は、渾身の右ストレートを真古登の胸に打ち込んだ。丁度陣平が弾丸を撃ち込まれた箇所と同じ位置に。


「ふ、ふふ。陣平……お前は最高だ。流石俺が眼をつけていただけのことはある。お前は背中を任せるに値する」


「うるせえ馬鹿。てめえの背中なんて知らねえよ」


 平穏までとはいかなくとも、それなりに穏やかに、無用なトラブルは避けて部隊で過ごしたかった陣平にとって、今回貼られた問題児というレッテルは、我慢ならないほど不愉快なものだった。そのレッテルを付けた張本人である真古登に対しても、胸の内に渦巻く怒りの焔は鎮火するどころか、ガソリンを注いだが如く燃え盛る。同じ場所の肋骨を叩き折っても全く気分が晴れない。


「もうオレに話しかけるな。二度とオレに関わるな」


 真古登は苦痛に顔を歪め、胸を撫でていた。その姿を尻目に、陣平は足早に自分のロッカーへ戻ろうとする。陣平は課された膨大なペナルティーの一つである反省文に取り掛かろうと決めていた。というよりも、一刻でも早く真古登の顔を視界から消したかった。踵を返し足早に歩き出すと、身体がなにか硬い壁のようなものにぶつかった。覚えのある威圧的な感覚だった。


 陣平が恐る恐る顔を上げると、眼の前にはにっこりと天使のような笑顔をした九郎がその名の通り、岩の如く微動だにせず立っていた。富佐井ほどではないが、額に浮かぶ青筋を見て、彼がなにを言いたいのかは一目瞭然だった。


「よーう悪餓鬼ども。ちょーっとオジサンに付き合ってもらおうかな?」


「岩石警部?」と敬礼する陣平。


「先程はお力添え、ありがとうございました」と立ち上がり敬礼する真古登。


 九郎は二人の言葉を黙って訊き、頷くと、意識が一瞬飛ぶような強烈な拳骨をそれぞれの頭にお見舞いする。痛みに声の出ない二人の首根っこを掴むと、「いいところに連れてってやるぞ」と鼻歌を歌いながら二人を引き摺り始める。なす術のない陣平は、コブのできた頭を撫でることしかできなかった。




 陣平たちが連れてこられた先は、大衆居酒屋だった。


「まあ、呑んでくれ」と眼の前にジョッキが置かれる。中で輝いている金色の液体を見ても、陣平は何が何だかわからなかった。勿論それがビールだということはわかっていた。わからないのは今の状況だった。


「おー、ありがとうございます。いただきます」と言って、真古登はジョッキを掴むと、一気に中身を飲み干した。「あー美味いっす。すいませーん生おかわりください」


 今までのほんの僅かな付き合いの中で気付いたことだが、この城築真古登という男は、とても不思議な男だった。とにかく動じない。さっきの説教の最中も、今この状況でも焦ることなどなく、持ち前のフラットなスタンスを崩さずに、ただ、眼の前の状況を楽しんでいるように見えた。良く言えば人懐っこくて甘え上手。悪く言えば極めて無礼。怖いものがないのか、他人にも自分にも投げやりなのか、付き合いの浅い陣平にはわからない。


「こんな奴のこと深く知りたいとも思わないけどな」


 陣平はジョッキを手にしたまま小声で呟いた。


「ん? どうした陣平、遠慮せずにお前も呑め」九郎は言う。


「はぁ……いただきます」陣平はジョッキに少しだけ口を付ける。酒も煙草もやらない陣平にとってこれが初めての酒だった。正直、余り美味くは感じなかった。そんなことを感じている間にも真古登は三杯目のジョッキを注文していた。


「あの、岩石警部。どうしてこんなところに?」


「ん? 俺はただ仕事終わりに部下と酒を呑みにきただけだぞ。すいません、日本酒冷やでお願いします」


 とぼけた顔をして酒を注文する九郎に対して、陣平の中に正体不明の不安感が、靄のように立ち籠める。


「そうだぞ陣平。せっかく岩石警部が奢ってくれるって言っているんだから、もっと楽しまなきゃ損だぞ」


「お前は黙ってろ」


 ただヘラヘラとジョッキを煽る真古登を、陣平は怒りを込めた視線で睨みつける。


 運ばれてきた日本酒を口に運び、ゆっくりとそれを味わった九郎は、小声で美味いと呟くと、口を開く。


「なあ陣平、お前はなんの為に特殊部隊に入った?」


「ゲホッ、なんの為、というと?」


 九郎の唐突な質問に驚き、ビールが気管に入った陣平は、激しく咳込みながら答える。


「そうだ。特殊部隊は生半可な人間が入れる場所じゃない。その理由が訊きたいんだ。なに、面接じゃない、本心を語ってくれればいい」


「それは……」陣平は歯切れ悪く答える。


 陣平の頭の中には、父親の顔が思い浮かんでいた。立て篭り事件で人質解放の為に代わりに人質になり、大勢の人が見守る中で、無残にも頭を撃ち抜かれた父親。これからもそういう事件は無くならないだろう。だからこそ、自分がそういう人を救いたいと思った。第二第三の父親みたいな存在を生み出さないために。大事な存在を護れるように。それが彼が特殊部隊を志願した理由だった。陣平はいつの間にかそう説明していた。


「そうか。お前はどうだ? 城築」


 九郎は陣平の話に深く頷くと、真古登に話を振る。


「俺は自分の夢の為に、陣平とバディを組んで、悪の手から市民を守るヒーローになりたいです!」


 真古登は勢いよく手を挙げると、選手宣誓のようなハキハキした口調で将来の展望を語り出す。よく通るその声は、居酒屋中に響き、感動した客が何人か真古登に向け、拍手を送る。


「なにを勝手に決めてんだ。誰がお前とバディなんて組むか。それにヒーローだと? 子どもかお前は」


「つれないこと言うなよ、陣平ぇ」


「うるせえ、馴れ馴れしく呼ぶな。触るな」


 酔ってもたれ掛かってくる真古登に対して、陣平は募る反感を隠しもせず声を上げる。


「お前たち、勝負しろ」


 空になったお猪口が、小気味良い音を立ててテーブルに置かれる。陣平と真古登の視線が同時に九郎に注がれる。


「勝負ですか?」


 二人の声は綺麗に重なった。陣平は重なった真古登の声にも嫌悪感を覚え、不愉快そうな顔をする。


「勝負は簡単だ。どちらが部隊の隊長になれるか。負けた方は除隊。いいか、お前たちは今日、とんでもないことをしたってことを忘れるな。どちらも譲れない信念があるなら精一杯努力して、少しくらい組織に還元しろ。使えない問題児は組織に必要ない」


 九郎は話を終えると、句読点を打つように日本酒に口を付ける。


「勝負……」


「いいですねそれ。うわ燃えてきたぁ」


 九郎の提案を訝しむ陣平とは対照的に、真古登はまるで、猿のおもちゃのように両手を叩いてはしゃぎまわる。


「どうだ? このままいがみ合って遺恨を残すより、よっぽど健康的な解決法だと思うんがな」と、九郎。


 いいように焚きつけられた気がしなくもないが、九郎の提案に陣平は、内心わくわくし始めていた。元々勝負事が嫌いではなかったし、正攻法で真古登の鼻っ柱をへし折れるのがなによりの魅力だった。


「面白いですね。やってやろうじゃないですか」


 既に陣平の瞳には火が宿っていた。九郎はその顔を見てにやりと笑う。


「そう来なきゃ、よろしくな陣平」


 真古登はゲラゲラと笑いながら陣平の背中を叩く。陣平は真顔で真古登の鼻先に拳の裏を掲げると中指を突き立てた。




 それから陣平は、それまで以上に訓練に身を入れた。全ては真古登を叩き潰して、彼の吠え面を見る為だった。


 後々知ったことだが、真古登は陣平より三つ歳上で、座学もさることながら、武道の術科の成績が恐ろしいほど良かった。実際、警察学校時代、彼に敵うものは一人もいなかったらしい。


 逆に陣平の射撃の腕は群を抜いており、その実力は警視庁内や、他県の部隊で噂になるほどだった。


 真古登はヘラヘラと笑い、楽観的な上、人当たりも良く話好きで、いつも楽しそうなのに対し、陣平は生真面目で、誰に対しても最低限のことしか話さず、いつも険しい顔をしていた。二人の性格は絵に描いたように真逆で、いつの間にか陣平と真古登は、デコボココンビと呼ばれるようになっていた。そんな正反対の彼らでも、功績の方は全く同じに見えるほど均衡していた。


 最初の頃こそ最悪の出会いのせいで、真古登を憎むほど敵対心を持っていた陣平だったが、厳しい訓練を受け、同じ釜の飯を食う共同生活が半年も続けば、嫌でも絆のようなものが生まれてくる。陣平の中に燃え上がっていた憎悪にも似た敵対心は、いつの間にか純粋な対抗心に変わってゆき、更に時が経過すると、大概がそうなるように、陣平と真古登は誰もが認める親友同士になっていた。 


 そして、あっという間にそのときがやってきた。部隊の隊長には真古登が選ばれ、勝負は真古登に軍配が上がることとなった。その結果に真古登は狂喜乱舞し、陣平は悔しがる素振りを見せたが、お互い内心では勝敗のことなどどうでも良くなっていた。


 陣平は律儀に除隊を申し出るが、替えが効かないほど優秀な人材にまで成長していた彼は、除隊を思い止まるよう周りに再三説得され、部隊に残ることとなった。


「やったあ。おい陣平、バディの件忘れるなよ」


「知ってると思うが、そもそも部隊にバディ制度なんかねえぞ?」


「そうだが、まあ、お前と仕事ができて嬉しいって意味だ」


 真古登はそう言って親指を立てる。


 勝負が終わったからといって日々が激変するわけでもなく、厳しい訓練といつ死ぬかもしれない出動が続く。そういったある種、彼らにとっては平坦な毎日が眼の前をあっという間に通り過ぎていった。


 あるとき、警察学校時代の同期との同窓会が開かれる機会があった。酔いも周り、話が盛り上がっているそんな中、ある同期の男が苦々しい顔で最近あった仕事について話し始める。


「この間、ある強殺事件で指名手配されていた容疑者のヤサが割れたという連絡があり、先輩とその容疑者の逮捕に向かったんだ。ヤサに踏み込んだとき、容疑者は丁度ヤクでラリってて、俺たちの姿を見るや否や、奇声を上げて銃を乱射してきやがった。その拍子に先輩が足を撃たれてしまった。それを見て頭に血が登った俺は、容疑者をブチ殺してやろうと思って銃を抜いた。そして引き金に指をかけたとき、ふと容疑者と眼が合ったんだ。そのとき容疑者の眼の奥にあるものが見えたんだ。いや、あれは見えたというより、流れ込んできたって言う方が近いかもしれない」


 始めこそ幾人かは、その話に興味がなさそうだったが、いつの間にか、誰もが真剣にその同期の話に耳を傾けていた。


「眼が合った瞬間、家族や恋人、友人や恩師、それに容疑者が生きてきた今までの人生が全部見えた気がして、それまでただの殺人犯としか思ってなかった奴が、何処かで普通の人間とは違う、得体の知れない怪物のように思っていた奴が、急に血の通った俺たちと同じ人間だということに気付いてしまったんだ。そう思ったときにはもう、引き金が引けなかった。本気で殺そうと思ってたし、向こうは俺を殺そうと銃を向けている極限の状況なのに、俺は迷ってしまった。なんだかそれ以来、銃を撃つのが怖くなったんだ」


 辺りは水を打ったように静まり返っていた。


「因みに容疑者は、その場で射殺されたよ」


 そう言って、同期の男は話を終えた。


 陣平の心には、その話が深く残った。




 ほぼ全ての事件に当てはまることだが、その事件の発生も、やはり唐突だった。


 とある秋口の日。八人から成る外国人グループがマシンガン等の銃火器で武装し、都内の大手銀行支店を襲撃した。行員三名とパトカーで駆け付けた巡査二名を射殺し、銀行内にいた客、行員合せて四十八名を人質に立て籠もり、人質を解放する代わりに銀行内の金とは別に、十億円を日本政府に要求する事件が発生した。


 要求した金がすぐには用意できないことを知ると、犯人グループは苛立った。


 特殊部隊が現場に到着した際には、彼らは母国語で口汚く悪態をつきながらマシンガンを店の外に向け乱射している最中だった。特殊部隊では外国語も必修科目として存在するので、彼らが発する悪態の全てが理解できてしまうことに陣平は辟易していたが、真古登は喚き散らされる悪態を訊いてゲラゲラと笑っていた。


 機動隊時代から築き上げて来た陣平と真古登のお互いをカバーしながら、迅速に犯人を制圧するスタイルは、他の隊員たちには真似できない、唯一無二の芸当の域まで達していた。特殊部隊ではバディという概念は存在しないが、部隊内の全員が二人を相棒として認めていた。今回の作戦もまず、屋上から二人の奇襲を合図に、残りの隊員が入口から一斉に突入し、屋外に配置されたスナイパーがその援護を行うという、部隊内では定番と化した方法で制圧作戦が組まれた。


 建物の屋上に待機し、スナイパーからの合図を待つ間、陣平と真古登は、もはや作戦前に行う精神統一の儀式と化した〝仕事が終わったら、どんな映画を観るか〟の話で盛り上がっていた。いつからか仕事後は、お互いの家で映画を観るのが恒例となっていた。


「絶対アクション。それかコメディ、もしくはアニメが良い」


「前回もそのジャンルだったろ。そろそろSFとかミステリーとか観たいんだけどな」


「えー、陣平が好きなやつって、暗い陰鬱な内容の映画ばっかりだろ、俺は明るいのが好きなんだよ。あ、ラブロマンスでも可だぞ」


「お前がラブロマンスって顔か? それに真古登の選ぶ映画なんて、ずっと爆発しかしてないだろうが。オレは静かなのが好みなんだ」


 話しながらも二人は、手元のサブマシンガンから視線を離さず、慣れた手つきで動作確認を行う。


「あ、じゃあ俺がヒーローになりたいと思うきっかけになった映画はどうだ?」


「ああ、出会った当初は夢だ何だとよく言っていたな。ということはその映画が真古登の夢の原体験ってことか。確かにそれは少し興味を惹かれるな。なんて映画なんだ?」


 陣平はこれまでの長い付き合いの中で、真古登の抱く夢の内容について深く訊いたことは一度もなかったことを思い出す。


「そうだろうそうだろう。じゃあ今日の映画はそれで決まりだ。超有名作だぞ。タイトルはな……」


「お楽しみの所恐縮ですが、建物内に動きがありました。降下準備に入ってください」


 その無線で二人の眼付きが変わる。ヘルメットのシールドを下げ、身体に入っている余計な力を抜くと、装備の最終確認を行い、定位置に付く。


「さて、今日も俺らヒーローの手で、善良な市民を悪の手から救い出しますか」


「ああ」


 気取った笑顔で真古登が言うと、陣平は真顔で応える。


「作戦開始まで五秒、四秒、三秒、二、一……GO」


 合図と共に建物の壁面を強く蹴り出すと、二人身体はトップスピードで降下を始める。ベルトに装着したロープが伸びきると、振り子の原理を利用し、窓ガラスを突き破り、勢いよく銀行内へと奇襲をかける。呆気にとられた犯人グループは、更に醜悪さを増した悪態を吐き散らしながら銃を構えるが、同時に入口から雪崩れ込んでくる特殊部隊員にも気を取られ、マシンガンの銃口は、あちらこちらと狙いが定まらず、反復運動を繰り返していた。


 陣平と真古登は、流れるように犯人グループの肩腕脚をそれぞれ撃ち抜き、武装解除を行う。殺人が許可されていても、無駄に命を奪いたくはない。というのが二人の信条だった。銀行のエントランス内には、犯人グループの呻き声と、衰えを知らない悪態と、人質の悲鳴が混ざり合う。気付くと悪態は訊いたことのないスラングに変わっていて、既に何語かも判別できなかった。


 特殊部隊は電光石火の速さで犯人グループを制圧していった。


 しかし全ては一瞬で始まり一瞬で終わる。このときもそうだった。


 犯人たちをエントランス内に拘束し、人質を順番に解放している最中、それまで大人しく拘束されていた内の一人が拘束を解き、奇声を上げながら立ち上がる。そして隠し持っていた銃を陣平に向けてくる。


「眼が合った瞬間、容疑者が生きてきた今までの人生が、全部見えた気がして引き金が引けなかった……」


 そのとき、銃を構える犯人と、陣平の視線が交差する。不意に、いつか同期が語った言葉が陣平の脳裏をよぎり、引き金を引く指が反射的に一瞬止まる。


「陣平!」


 一瞬動作が遅れた陣平の前に真古登が割り込み、躊躇なく引き金を引く。


 パパン。


 二発の乾いた銃声がエントランス内に轟く。間髪入れずに、手を撃ち抜かれた犯人の苦悶の声と、人質たちの叫び声が重なり、行内は再びパニック状態に陥った。犯人は近くの隊員たちに速やかに取り押さえられた。


「悪い真古登、助かった」陣平は左腕を強く殴られたような衝撃によろけながらも、真古登に礼を言う。


「危なかったぞ。まったく、気を付け……」


 不自然に言葉が途切れると、真古登の身体は、まるで糸が切れた人形みたいに、陣平にもたれ掛かった。


「真古登? おい真古登」


 視線を下げると陣平は愕然とする。真古登の首に空いた銃創からは、止め処なく血が流れ出ていた。そして自らの左腕にも被弾していることに今更ながら気付く。


 犯人の放った銃弾は真古登の首を貫き、陣平の左腕を抉り抜いた。今になって痛みが波のように襲ってくる。頸動脈が傷ついたのか、真古登の首の傷から溢れ出す血は、止まる気配を見せず、あっという間に血溜まりを作る。


「真古登! しっかりしろ、おい!」


 陣平は叫びながら、右手で真古登の首の傷を押さえるが、吹き出す血の勢いはおさまらなかった。


「子供の頃……観た、映画でな、大好きなヒーロー映画があったんだ」


 真古登は苦しそうに話し出す。


「出血が酷い。今は喋るな」


 陣平は悲痛な面持ちで訴えかけるが、それでも真古登は血に塗れた顔で、微笑みながら話し続けた。


「その映画の中で……二人の男がいて、そいつらはずっと親友同士だったんだけど、ある誤解から仲違いしちまうんだ。でも誤解が解けて、その親友は主人公の元に駆けつけて窮地を救うんだ。でも最後にその親友は……主人公を庇って……死んじまうんだ。子供心にその相棒の死に方が、すげえカッコ良くて、俺には主人公よりもヒーローに見えた。俺もいつか……そんな風に死にたいって……思ってた」


「もういい……わかった。わかったから、だから」


 陣平の左腕は熱を失い、感覚がどんどん失われてゆく。


「俺の眼に狂いはなかった……やっぱりお前は最高の相棒だよ。俺の我儘に付き合ってくれて……ありがとうな陣平。映画一緒に観れなくて……悪いな」


「やめろよ。なんで今そんな話するんだよ。ふざけんな」


 陣平はかぶりを振り、真古登の傷を押さえながら叫んだ。真古登は苦しそうに咳き込むと、陣平の顔を見て、屈託のない笑顔で言った。


「やべえ、夢、叶っちまった。俺、超幸せだ…………」


「……その……映画のタイトル……教えろよ」


 陣平は問い掛ける。真古登は何も答えない。外に待機した救急車から、ストレッチャーが慌ただしく銀行内に駆け込んでくる。


「……訊こえねえよ。真古登……」


 陣平はその場に座り込んだまま動けなかった。


 震えている。


 眩暈がする。


 寒い。身体の底から冷えている。


 左腕からの血が止まらない。


 眼の前が霞のような闇に覆われる。


 反抗する意思とは裏腹に、意識は徐々に遠のいてゆき、やがて喪われる。


 真古登の心臓はもう止まっていた。


 陣平の左腕は動かない。


 起こった全ての出来事に既視感があった。それは父親や母親が死んだときの感覚に恐ろしいほど似ていた。


 また大事な人を、護れなかった。


 その感情が、その場にある現実の全てだった。






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