第二幕『さまことなりくにやかう』6



「口を縫った黒服の人? 見てないなあ」


「え? さっきここで通り魔事件があったんですか? 全然知らなかったです」


「ナイフを持った人ですか? いや、見てません」


「そんな人見たら、目立つから憶えていると思うんだけどな」


「黒服の口を縫った男? 知りません……何それ、怖い……」


「口を縫った男? そんなヤツ知らねえし、見てねえよ」


「陣平。こんなところでなにしてるんだ?」


「通り魔事件? そんなことがあったら、この辺り一帯騒ぎになってるだろ」


「人が消えた? なに言ってるんですか?」


「不道友巳? え、あの連続殺人犯の?」


「知らない。そもそもアンタ、本当に警察の人? 身分証見せてよ」


 自分はいま、誰に話を訊いているんだ? いま眼の前にいる人間は、本当に存在しているのか? 自分はいま、一体なにをしているんだ? これは夢か? 現実か?


「輪炭さま……輪炭さま!」


 陣平は霧耶に肩を揺さぶられていることに気付く。


「霧耶さん? どうしてここにいるんだ?」


 陣平はぼんやりとした瞳で抑揚なく答えた。


 霧耶は肩を掴む手に力を入れると、陣平の瞳を覗き込んだ。


「輪炭さま、一度主人さまの店に戻りましょう。恐らくこの現象は魔術によるものです。ここではもう、なにも見付からないと思います」


 霧耶の濃藍こんあい色の瞳に意識を捉えられ、それまで靄がかかった景色に、少しずつ色が付き始めていく。それと同時に、水面から顔を上げた時のような息苦しさと、ぬめっとした疲労感が陣平の身体に覆い被さる。


「ああ……そうだな。一旦、戻ろう」


 陣平は重たげに口を開く。


 その言葉に霧耶は安心した様子で軽く微笑むと、陣平の肩から手を離す。その様子から見て、随分と前から声をかけ続けていたようだった。


 思考の靄が晴れるにつれ、背筋に氷を押し当てられたような寒気と共に、陣平は自らの行動を思い出してゆく。


 陣平は不道が消えた直後、いましがた見た光景が、妄想ではない。自分は正常だ。と、自らに言い訊かせるように、辺りを通る人々に片端から聞き込みを始めた。


 詳しい数は思い出せないが、相当数の人々に聞き込みをした筈だ。その中には不道が現れ、交差点がパニックになった際、陣平の眼の前で逃げ惑っていた人が幾人もいた。しかし、彼等を含め、聞き込みをした人たち全員の答えは「知らない」で統一されていた。まるで、パニックが起こったこと自体を皆知らないといった口ぶりだった。


 エンジン音が近づき、眼の前にヘルメットが差し出される。それを無言で受け取ると、バイクの後部座席に腰を下ろす。霧耶は振り返り、陣平が乗り込んだ確認を取ると、前方へ向き直り、アクセルを回す。バイクはゆっくりと発進し、徐々に速度を上げて交差点から離れる。


 街の風景や街灯が矢のように通り過ぎて行く。流れる生温かい空気が、日が落ちてから随分時間が経っていることを物語る。霧耶は、何度も自分を止めようと声を掛け続けてくれていたのだろう。陣平は今更ながら助けて貰った礼と、迷惑を掛けたことを詫びようと口を開く。だが、口から出たのは、頭の中で用意していたのとは別の言葉だった。


「そういえば霧耶さん。アンタ、さっきオレのこと陣平って呼んだか?」


「いいえお呼びしていません。輪炭さま。とは何度もお呼びしましたが……」


 ヘルメット内にはインカムが取り付けられており、彼女の声はクリアに耳に届いた。彼の名を呼んだのが霧耶ではないことはわかっていた。彼を陣平と呼んだのは男の声で、そして聞き込みをした人々の中に、陣平の知っている顔はいなかった。


 陣平の聞いた声は幻聴だった。


 長く続く不眠症に、消えた不道。そして幻聴。仕事に支障が出始めるなんて、いよいよ自分の頭が本当に正常なのか、陣平は本気で不安になってくる。もしくは全て、真夏の白昼夢か。それで済ませられるならどんなに気が楽か、と陣平は現実からの逃避を試みる。しかし、自分はもう眼にしてしまった。この一連の不可解な現象が、虚構や幻想の類でないという証拠を。これは現実まじょの領域で起きている出来事だということを。どんなに否定しようともその事実からは逃れようがなかった。


「輪炭さま? 大丈夫ですか?」


 頭の中に、霧耶の声が届く。耳元で話されているようなこそばゆさを感じながら、無駄なことを訊いた、と陣平は後悔する。そして改めて助けてくれた礼と迷惑を掛けた詫びを口にする。気にしないでください。霧耶は穏やかに答えた。




 鈴璃の店に到着した頃にはもう閉店時間は過ぎており、フロアはしんと静まりかえっていた。陣平は静まりかえった通路に佇み、ある場所にメッセージを一通送ると、スマホを胸元のポケットにしまい、足早に店内へと入る。


 霧耶はまだ少し野暮用があるからと、早々に店から立ち去った。


 事務所の壁、というよりは抽斗の一角に、四枚の写真がテープで留められている。写真は、陣平が撮影した一枚を含め、霧耶が発見した三枚の写真をプリントアウトしたものだった。四つのステッカーのうち一つは消えてしまったが、残りの三つは不道が消えた時点では、まだそれぞれの建物に残っていた。


 雪の結晶の模様が入ったステッカーは、四方にある建物の壁面に、隠されるように貼られていた。ステッカーは、直線で結んだ時に、丁度それぞれが交差点の中央で交差するように配置されており、偶然に貼られた物でないのは明らかだった。


 鈴璃は煙草をふかしながら難しい顔で写真を眺めている。陣平は交差点で起きた一連の騒動や神隠しの説明を終えると、ソファに腰を下ろした。鈴璃の傍らには雨耶が静かに立っている。静けさと疲れが相まって、気を抜くと意識が飛びそうになる。


「やれやれ。まさかこんなものを見つけてくるとは……運がいいのか、悪いのか。仕事熱心も考えものだな」


 いつの間にか床に落ちていた視線を上げると、呆れ笑いを浮かべる鈴璃の顔があった。その顔を見て陣平は直感的に確信した。


「やはり、魔女か?」


「ああ。お手柄だぞ坊や。このステッカーの図形は魔法陣だ」


 鈴璃は煙草を灰皿に放り込むと、興奮した様子で写真を指先で叩く。写真が貼られた抽斗がこんこんと耳触りの良い音を鳴らす。


 魔法陣。その言葉を訊いた陣平の頭には、ファンタジー映画でモンスターや勇者が神々しく召喚されるシーンが思い浮かぶ。


「ということは、その魔法陣からなにかが現れるのか?」


「いや、状況から見て、こちらは入口だろう」


「入口?」


 鈴璃は両手を胸の位置まで上げると、左右それぞれの手でハンドサインのオーケーの形をつくり、腕を両側へ大きく広げる。


「いいか坊や。魔法陣とはな、ある場所から離れた地点に移動する、もしくは移動させる一方通行のトンネルみたいなものだ。入口から出口には移動出来るが、出口から入口には移動出来ない。身近な物で例えるなら、SFによく登場するブラックホールが一番近いかな? つまり、さっき坊やが言っていた消えた口縫い男や、神隠しは、この魔法陣が原因だ」


 ブラックホールが身近な物かは別として、想像出来る物に例えてくれたおかげで、魔法陣の仕組みを理解するのに時間はさほどかからなかった。というか、ブラックホールって出てはこれないんじゃ。と、つっこみたい衝動をグッと堪えた陣平は話を続ける。


「成る程な。じゃあ、交差点で消えた奴らや不道は、その魔法陣を通って何処かにある出口に移動したってことか」


「そう考えるのが妥当だな」


 鈴璃がそう答えたとき、陣平の頭に新たな疑問が浮かぶ。


「移動するっていうのは理解出来るんだが、っていうのはどういう意味だ?」


「そのままの意味だ。対象の許可も同意も意思も関係ない強引な転送。坊やの言葉を借りるなら、交差点で消えた人たちは、魔法陣を通って何処かにある出口に無理矢理移動させられたと言う方が正しい」


 つまり、全て魔女の仕業ということか。陣平の口からは反射的に舌打ちがこぼれる。


「因みに、ヒビハナヒが私たちを新宿から埠頭まで一瞬で移動させた絡繰からくりも、魔法陣によるものだぞ」


 鈴璃は思い出した様子でそう付け加えると、トラウザーズのポケットに手を入れる。取り出されたのは新しい煙草とマッチだった。話が長くなりそうだ。陣平はそう感じる。


 ヒビハナヒ。藤柳泉と名乗る占い師で、公には存在しないことになっているスマイリースーサイドの犯人で、人間の寿命を喰らう魔女。陣平が初めて逮捕した魔女でもある。


「でも家館さん。そう考えると、あの人通りの多い交差点で消えた、もとい消された人間が十八人というのは数としては何だか少ない気がしないか? いや、不道を含めると十九人か」


「ふむ。消えた人間たちは無差別に消されたのではなく、選別されて消されたのかもな」


「選別だと?」


「そうだ。魔法陣が自ら、消す人間を選別したんだ」


 ぱしっとマッチが擦られる音がやたらと大きく響く。その旋律はどこか、とても不吉に聴こえ、身の毛もよだつ恐怖を体験をしたときのような身震いが陣平の身体を駆け巡る。


「自らって、まるで魔法陣が感情を持って生きているみたいに訊こえるな」


「魔法陣は生きているぞ。感情も意思もないがな」


 鈴璃のなんでもないといった物言いに、陣平は思わず眼を見開く。


「只の図形が生きてんのか?」


「重要なのは形ではない。成り立ちと、内包する意味だ。線は回路。線は境界。線は規範であり法則。そして実在の証明。それらは離れ繋がれ、絡み絡んで意味を成す。生命はそうやって出来ている。坊やも、私も、魔法陣もな」


「意味わかんねえよ」


「形あるものは全てに意味があり、全てに生が宿るということさ」


 鈴璃は人指し指で、空に人間のような形を線で描いた。立ちのぼる紫煙が指の動きに合わせ右に揺れ、左に揺れ、渦を巻き、ゆっくりと部屋中に溶けてゆく。


 鈴璃の言葉と、空中に溶けた紫煙が口や鼻から気管内に侵入し、肺を隙間なく満たす。まるで身体が風船のように膨らんでいくような息苦しさを感じた陣平は小さく咳をした。


「魔法陣が自ら選別ってのは?」


 これ以上、鈴璃の言葉の意味を考えるのは時間の無駄だと判断した陣平は、話を本筋に戻す。


「魔女は、魔法陣を創る際に発動条件を持たせることがある、それが選別だ。発動条件というのは数多あり、性別、年齢、思考的特徴から遺伝子配列。はたまた因果や魂の成り立ちを条件とする場合もあるな。魔法陣はその条件に沿った対象を移動させるんだ」


 陣平は鈴璃の説明をなんとなく理解したものの、因果や魂などの話をされても、抹香臭いこと以外はなにも頭に入ってこなかった。結果として、やはり魔女を知れば知るほど結果としてはなにもわからないということを思い知らされるだけだった。


「全くぴんと来てない顔だな。まあ構造だけ理解しても仕方ない。重要なのはそこではない。誰がこの魔法陣を設置し、何の目的で十九人もの人間を消したかだ」


「ああ、そうだな」


 陣平はぐっと居住まいを正し、これまで起きたことを、頭の中で順番に整理する。


「魔法陣に触れて、記憶観で犯人を探すってのはどうだ?」


 陣平は、以前犯人特定に使用した方法を提案してみた。とは言っても何時間か前にその方法は芳しくない成果を出したばかり。正直望み薄だった。


「却下だ」鈴璃は抽斗に貼り付けてある写真を指差して言う。やはりか。陣平は思った。


「いまどきの魔法陣は超お手軽でな。ネットからダウンロードして、プリンタでポンだ」


「人間が間違って魔法陣を使っちまう可能性はないのか?」


「ないな。魔法陣は魔女でないと発動できん。人間が誤ってプリントアウトしたとしてもそれはただの印刷された図形だ。なにも起こらんよ」


「ならいいが」


 魔女がネット……陣平はなんだか複雑な気分になった


「つまり、あのステッカーを記憶観しても、観えるのは精々、プリンターに使われた紙を作った製紙業者の顔くらいだろう。記憶はそんなに直ぐには定着しないし、そもそも魔法陣の発動条件は様々だから〈魔女が触れたら発動する〉魔法陣だった場合、不要に触れれば、最悪何処か異郷の地に飛ばされるかもしれない。そんな博打みたいな方法はごめんだな」


 鈴璃は宙を仰ぎ煙を吐き出す。


「只今戻りました」


 霧耶は素早く事務所に入ると、後ろ手に音もなく扉を閉め、頭を下げた。


「首尾は?」鈴璃が訊く。


「申し訳ありません。直ぐに交差点に引き返しましたが、魔法陣は全て、跡形もなく消え去っていました」


 そう言う霧耶の顔にはわずかに悔しさが浮んでいた。その顔を見て鈴璃が声をかける。


「気に病むな。今回一番優先すべき事項は、坊やの安全の確保だ。交差点での襲撃の件からしても敵は、魔法陣に近付くものをすぐに排除できるよう常にどこかで監視していたのだろう。魔法陣の先には余程見られたくないなにかがあるらしい」


 鈴璃は人指し指で右のこめかみを軽くなぞる。「さて、どうしたものか」


「……オレに一つ考えがある」陣平は口を開く。


「ほう。言ってみろ」


 鈴璃は興味を惹かれたのか、腕を組んだまま身体を陣平の方に寄せる。


「例の神隠しは、ある動画サイトにアップされている。その発信元を辿るんだ。動画がネット上に存在している以上、必ず何処かに足跡があるはずだ。それにいまどきの魔女はネットを使うんだろ? なら発信元が魔女に繋がっている可能性は低くないはずだ」


「確かにそれなりの考えだが、どうやってその足跡とやらを探す? 私はそこまでネットに造詣が深くないぞ」


 陣平は人差し指をピンと立て、得意げな顔をする。


「そこでオレら警視庁の出番だ。サイバー犯罪対策課に友人がいるから、そいつに解析してもらう。情報は既に送信済み。もちろん魔女のことは伏せてある」


「ほう、準備がいいな。最初は、万年反抗期の熱血馬鹿だと思っていたが、どうやらそうではないらしい」


「それって、褒めてんのか?」


 陣平は不機嫌そうな顔で鈴璃を睨み付ける。


「勿論褒めてるぞ? 万年反抗期というところが特にな」


 鈴璃が意地の悪い笑みを浮かべたとき、丁度陣平のスマホが振動する。


 どうぞ。という鈴璃のジェスチャーを確認してから陣平は、スマホの通話ボタンを押し耳元に押し当てる。訊こえてきたのは、やたらとハイテンションな男の声だった。


「よーーう輪炭ぃ! 元気かあ?」


 その声は陣平の友人、柏倉麻人かしくらあさとのものだった。声のボリュームが大き過ぎて、電話口の音割れと耳鳴りが酷い。


 麻人の声量に、どっと疲労を感じた陣平は、耳鳴りが治るのを待ってから、スマホを五センチほど耳から離して話し始める。


「よう……柏倉。相変わらずだな。寝不足の身体にそのテンションは、正直堪える」


「お前は相変わらず辛気臭い声してんなぁ。で、なんなんださっきのメールは?」


 テンションを下げることなく麻人は喋り続けた。


「さっき送ったのは、ある動画サイトだ」


「動画サイトぉ? エロサイトか? 俺は足フェチじゃないから、お前と趣味が合わないって知ってるだろ」


「ちげえよ。とにかく急いでその動画の発信元を調べて欲しい。できるか?」


「あん? なんでまた?」


 麻人の声が少し真剣な色を帯びる。


「今担当している事件の容疑者が、その動画に関わっている可能性がある」


「おいおいおい、ちょっと待てよ輪炭。本気で言ってんのか? 幾ら俺らが警察だからといっても、確かな証拠もなく可能性ってだけで他人様のパソコンを覗けってか? そりゃあ法的にちょっとまずいんでないかい?」


「急ぎなんだ。責任はオレがとる。できるのかできないのかどっちなんだ」


 陣平は辺りも気にせず叫んだ。無人のフロアに、その声が反響する。


「……お前ならそう言うだろうと思って、もうやった」


 麻人は。さらっとそう言って退ける。


「は?」


 虚を突かれた陣平は言葉に詰まる。


「これでなにもない普通のサイトだったら、お前を万年反抗期の足フェチクソ野郎ってボロクソに馬鹿にしてやろうと思ったんだけどなあ、これ多分当たりだぞ。輪炭ぃ」


「なんだと?」スマホを握る手に自然と力がこもる。


 問いかける陣平に、麻人は被せるように答える。


「普通なら、こんな平凡な動画サイトなんてのはな、一台パソコンがあれば、さっと投稿しておしまい。そんときに残るIPアドレスは一つだけ。難しいことなんてなにもありゃしない。だがこいつは違う。一本動画を投稿する為だけに、えげつない量の海外のプロキシサーバを経由してやがる。初期の頃投稿に使っていたサーバなんて時間が一定期間過ぎちまっているからIPあしあとが途中で途切れちまってる。ただの動画投稿ごときに、これほどの手間をかけてるなんて、きな臭いなんてもんじゃねえな。こりゃ俺様という天才への挑戦かぁ? うへへ」


 電話口から麻人の薄ら笑いが訊こえてくる。陣平はスマホを耳から遠ざける。


「とにかく凄え量のサーバーを経由してるから、発信元を特定するのにはもうちょい時間がかかりそうだ。明日また連絡する。携帯の電源は入れたままにしとけよ。じゃあな」


 麻人は早口でそうまくしたてると、一方的に電話を切った。静かな事務所内にビジートーンが木霊する。


「全部、訊こえてた……よな? あの声量なら」


 疲れ切った顔で問いかける陣平に、鈴璃と雨耶と霧耶は無言で頷く。


「これでこちらは、じきに身元が割れそうですね。主人さま」


「ん……ああ」


 無邪気に笑う霧耶とは対照的に、鈴璃の表情は曇っていた。


「どうした? なにか腑に落ちないことでもあったか?」


 スマホを胸ポケットにしまいながら陣平は訊いた。


 暫くの沈黙の後、鈴璃は見たことのない真剣な表情で呟やく。


「薄々気づいてはいたんだが、やはり坊やは足フェチだったんだな……」


「それは忘れろ」


「今度から坊やへのご褒美は、私の御御足おみあしをご披露しようかしら?」


 鈴璃はわざと艶やかな声を出し、トラウザーズの裾を少しまくり上げる。


「いらん」と言いながら陣平は首まで赤くなった顔を右手で覆い、眼を背けた。


「ふん。このムッツリさんめ。さてな冗談はさておき、いよいよ本題に入ろうか」


「本題? 本題ってなんだ?」


 鈴璃の突然の発言に、陣平は顔の赤みが一瞬で引くほど、あからさまに狼狽えだす。


「口縫い男から受けた傷が跡形もなく消えた件だ。当事者が忘れてどうする」


 そういえばそうだ。陣平は思い出す。なにせ傷もなければ痛みすらないのだ。ついさっき起こった出来事なのに、既に記憶が朧げで、うまく思い出せない。口縫い男の一件が悪い夢だと言われてもすぐに信じられそうだった。


「結論から言うとな、坊や、いまお前は呪われている」


「呪い?」


 斬りつけられた箇所を何処でもいいから見てみろと言われ、陣平は右腕を見た。


 傷を受けた箇所には時計のような痣ができていた。長針、短針、秒針にあたる部分がそれぞれバラバラの方向を向いている。皮膚の上で秒針の形の痣が休まず動き続けていた。


「なんか、動く痣って、凄え気持ち悪いな」


「言ってる場合か。おそらくそれは時間凍結の呪いだろう」


「なんだそれ?」


「読んで字の如し、時間を凍結する呪いだ。坊やの場合は、傷を受けた場所に部分的に呪いを受けている。つまり傷が消えたわけではく、その箇所の時間が止まっているだけだ。長針と短針と秒針が完全に重なったとき、つまり零時を指した瞬間、再び傷が現れる」


「今、この時計の痣は二時前を指してるから、三つの針が完全に重なる零時まで十時間以上はあるな。てことは、直ぐに傷が現れるわけじゃねえってことか」


 陣平は右腕の痣をじっと眺めると、起伏のない声で答えた。


「なんだなんだ? つまらん声を出して。傷が現れたら出血多量でその場で死ぬかも知れんのだぞ。もっとぎゃあぎゃあ騒いだり、取り乱したらどうなんだ」


 鈴璃は、心底退屈そうな顔で陣平を見る。


「ひと段落とした思ったら、疲れちまってな」


 そう言うと陣平は肩の力を抜き、大袈裟に脱力のジェスチャーをしてみせる。


「ふーむ。どうやらそのようだな。呪いを受けてなくともいますぐに死にそうな顔をしている」


 鈴璃は労う様子で陣平の肩に手を置いた。


「わりいな」


 これまでの疲れが一気に噴出たのか、陣平が鈴璃に向けた顔は、生気がまるで感じられなかった。


「というか、家舘さんじゃこの呪いを解けないのか?」


「私には解けない。残念だったな」


 鈴璃は高笑いをあげると、愉快そうに煙草に火を点ける。先ほどの労いに満ちた眼差しは何処へ行ったんだろう。陣平は思った。


「解けないのに、どうしてわざわざ事細かな説明をしてまで、恐怖を煽るようなことを言ったんだよ?」


「ただ坊やの怯える顔が見たかっただけだ。見れなかったけどな」


 煙を吐きながら向けられる最早定番となった鈴璃の意地悪い笑顔に対し「相変わらず素敵な性格だな」と呆れ返る陣平の顔には、ほんの少しだけ生気が戻っていた。


「しかし安心しろ、ちゃんと解呪師かいじゅしを呼んでおく。明日また来い。流石に今日はもう帰って休んだ方がいい」


「解呪師?」


 陣平は虚ろな眼で鈴璃に訊いた。


「呪い専門の医者みたいなものだ。その点の詳しい説明も含めて明日に回そう。今の坊やの状態では話したところで、残念ながら内容の半分も理解できないだろう」


 恐怖を煽るような説明はしておいて、それをリカバーする説明はなしか。陣平は思ったが今は口に出すのも煩わしかった。


「わかった。今日は帰る」


「物分かりがいい子は嫌いじゃないぞ。では出口まで見送ってやろう」


 出口に向け歩き出そうとしてふらつく陣平を、前方にいた霧耶がとっさに支える。


「大丈夫ですか輪炭さま。よかったら、ご自宅までお送りしますよ?」


「大丈夫だ。気持ちだけ受け取っておく」


 陣平は霧耶の申し出を丁寧に断り姿勢を正すと、幾分かマシになった足取りで出口へ向かおうとする。しかし、正面から鈴璃に額を鷲掴みにされ、行く手を阻まれる。


「本当に大丈夫なのか? 坊や」


「大丈夫じゃねえ。握力が強過ぎて頭が痛てえよ。離せ」


 頭を圧迫される痛みに耐えながら、陣平は答える。


「そうか」そう言うと鈴璃は、陣平の額からあっさりと手を離す「気を付けてな」


 陣平は、出口まで見送ってくれた鈴璃たちに背を向け、手を上げると、まだ少しふらつく足取りで建物の外に出る。真夏の夜の空気によって全身から汗が滲み出るのを感じた。


 帰路に着いた陣平は、頭の片隅で、今日訊いた不思議な声を思い出していた。


「陣平、こんなところで何してるんだ?」


 それは何処かで訊いたことがある声だった。しかし陣平はその声の主を想起することを意図的に避けた。


 左腕がズキリと痛む。






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