幕間『其の一』
風のない梅雨の空は、図鑑のように分厚く重い雲に覆われていた。
灰色の雲からは、何億何兆という水滴が一切の遠慮を見せず、地面に向け、乱暴に降り注ぐ。
高層ビルが取り囲む薄暗い大通りや路地には、数日前から降り続ける雨に辟易した人々が、憂鬱げに歩を進める。
辺りで一際高いビルの屋上。鈴璃は落下防止柵の外側に腰を下ろし、足を外に向け、ぷらぷらと投げ出していた。落下すれば確実に即死決定な高度に命綱なしで座る姿は、見る人が見れば、目眩を起こしそうな光景だった。
鈴璃は、ときおり化粧箱に入った苺を頬張ると、眼下に広がる都市の日常を、優雅な気持ちで眺めていた。その傍らには、宙に浮いた朱色の蝙蝠傘が、主人が濡れないようにとその身に雨粒を受け、傘としての本分を十二分に全うしていた。
「お待たせ、鈴璃」
鈴璃の背後で、透き通った水を彷彿とさせる声がした。
振り向くと、質の良い深張りの傘を差し、ロングワンピースに、Vネックのノーカラーコートに身を包んだ上品な女性が立っていた。色艶のいい黒のミディアムヘアがふわりと揺れる。
「最近雨が多くて動きやすくなったわね。雨空なんて誰も見上げないから、空も飛びやすいわ」とその女性は続ける。
「人を呼び出しておいて遅刻とは、いい御身分だな。」
「ごめんごめん。お客さんが途切れなくてね。お詫びに次のカット安くするから許して頂戴」
「人気美容師様は大変だな」
「あら、鈴璃にそう呼ばれるの、悪い気はしないわね」
うふふと微笑む栞菜に、鈴璃はへの字口でかぶりを振った。
「それより、おひとついかが?」
鈴璃は化粧箱を差し出す。「あら、ありがとう」と、栞菜は苺を一つ摘みあげると、そのまま口に入れる。
「甘っ。なにこの苺、どうしたのこれ?」
栞菜は驚いた様子で口に手を当て、頰を紅潮させる。
「ついこの間、元相棒さまが寄越してきた。詫びだとかなんとか言ってな」
鈴璃は興味なさげにそう言いながら苺をかじる。つい今しがたまで無表情だった顔が、美味しさのあまり自然にほころぶ。
「それで、私を呼び出した理由は?」
幸せそうな顔で鈴璃は訊ねる。その手には既に次の苺が摘まれている。
「そうそうその話よ。ねえ鈴璃、あなたまた人間と協力して魔女を狩っているって風の噂に訊いたんだけど、それ本当なの?」
そう言いながら栞菜の手が自然と化粧箱に伸びていく。「私のだ」鈴璃はその手をはたき、苺の強奪を阻止した。栞菜の顔には明らかな不満の色が浮かぶ。
「ああ。人間の寿命を喰らう魔女を只の人間にしてやったが、それがどうかしたか?」
「どうかしたかじゃないわよ。彼に出逢ったってことがどういうことか、わからない訳じゃないわよね。これはまた、取り返しのつかないことに……」
「それは案内人としての意見か? それとも警告か? 後者なら……」
話を遮った鈴璃の眼には、敵意の色がうっすらと浮かんでいる。栞菜は臆せずその眼を真っ直ぐ見返す。
「どっちも違うわ。友人としてあなたの身を案じているの。あなたが傷付くのが嫌なの」
雨が、地面や傘に当たる水音だけが辺りを包む。針のよう形をした水滴が、眼の前を高速で通り過ぎて行く。眼下の都市の稼働音も高層ビルの屋上までは届かない。
「友人として、ねえ……」
鈴璃はため息をつく。その眼から敵意の色は消えていた。
「親友の意見はありがたく訊いておいて損はないわよ。それがわかったら、苺をもう一つ寄越しなさい」
「あいつとの付き合い方は自分で決める。それに、取り返しなんて、とっくの昔につかないさ」
そう言って鈴璃は苺を手に取り、栞菜の口へと押し込む。
「この頑固者。どうなっても知らないんだからね。美味し」
栞菜は諦めた様な顔で言う。しかし、苺の美味しさに上がった口角はそのまま下がらなかった。
「だが、せっかくの意見だ。覚えておかないでもない」
鈴璃は悪戯な笑みでそう答える。
「相変わらず可愛気のない言い方ね。でも真面目な話、鈴璃の最近の動きは一部の魔女からは、そーとー評判悪いわよ。もしかしたら彼も危険な眼に合うかもしれない」
「そう思うのは、後ろめたいことがある奴等だけさ。それに、万が一の時の対策はしてある」
「ふうん。ねえ鈴璃。なんで危険を冒してまで、同族狩りをするの?」
「奴らはルールを犯した。だから狩った。それだけだ。簡単だろう?」
「ルールって?」
「私のルールだ」
「どんな?」と問いかける栞菜に対して鈴璃は、人差し指を唇に当て「ナイショ」と囁いた。
「まあ、いいけど」栞菜は顔を前方に向け、腕を伸ばし小さく息を吐く。
「でもね鈴璃、最大限警戒はしておきなさいよ。魔女は
「おぉ……自分も魔女なのに、よくそこまでボロクソに言えるな」
流石の鈴璃も引いた眼を栞菜へと向ける。
「というか、人間だの魔女だのいちいちめんどくさいな。まあ、なにか起きたら、その時はお前に力を借りるさ。それに狡猾さでは負ける気はしないぞ」
ケッケッケと悪魔的高笑いをする鈴璃を、栞菜は怯えた眼で眺める。
「なんで私が力を貸さなきゃいけないのよ。私は静かに暮らしたいの。だからこうやってわざわざ会って、こっちに火の粉を飛ばさないでって遠回しにお願いしているの。厄介ごとはごめんだわ。もう、結局全部直接言っちゃったじゃない」
「まあまあ、そう固いこと言わないで、私と栞菜の仲だろう? 勿論お礼はするから。ほら、これは前払いだよ~」
鈴璃は猫なで声で甘えながら、不貞腐れた栞菜に擦り寄ると、その口の中に苺を放り込む。栞菜はそれをゆっくりと丁寧に時間をかけて咀嚼すると、名残惜しそうに喉を通し、十分な余韻に浸ってから口を開く。
「ちょっと、こんな苺一個じゃあ、全然割りに合わないわよ」
「仕方ないな。あと一つだけだぞ」
鈴璃は笑顔で、少し大きめな苺を栞菜に向け差し出す。
「いやいや、ちょっと待って。そういう問題じゃないから。巻き込まないでって言っているの」
そう言いながらも栞菜は鈴璃から差し出された苺をしっかりと味わった。
降り続いていた雨はいつの間にか止んでいた。しかし頭上には重苦しい雲がいまも我が物顔で居座っている。それは束の間の雨間だった。
「さて、雨も止んだし、そろそろ行くわ」
栞菜はそう言って立ち上がると、軽くワンピースを撫でつけ、ついた皺を伸ばす。
「そうだな」と鈴璃も、空になった化粧箱を人差し指にぶら下げながら、ゆっくりと立ち上がる。
「栞菜。お前、鳴茶木真愛と言う名前を訊いたことがあるか?」
その質問に栞菜は考え込む素振りを見せ、しばしの沈黙の後、その口を開いた。
「訊いたことないわね。誰それ、魔女? 人間?」
「おそらく魔女だと思うが、わからん」
「なによそれ。まあ、どこかで訊いたら知らせるわ」
栞菜は宙に浮いている傘の手元を握ると、屋上の端へと踏み出す。眼下には低層ビルの屋上や、小さな点のような車や人が見える。
「いい鈴璃、くれぐれも彼には……」
「はいはいわかってる。可能な限り干渉を避ける。穏やかな午後の昼下がりに茶に誘ったりもしない」
念を押す栞菜に、押し被せるように鈴璃は言う。
「よろしい。敵対する魔女にも注意するのよ。じゃあまた連絡するわね」
栞菜は満足そうに微笑むと、立っていた屋上の端から躊躇なく飛び降りる。傘を持った栞菜の身体はふわりと空中に舞い上がり、まるでハチドリのように空中で停止する。栞菜は手を振ると、傘と共にゆっくりと目的地へ向け飛び始め、やがて見えなくなった。
鈴璃は片手を上げ、栞菜を見送りながら煙草に火を点ける。煙を吐き出すと、それに倣ったかように鈴璃の傘もゆっくりと空中を浮遊しだす。傘を持つ鈴璃の身体は、空と街の間にじんわりと溶けていった。まるで煙草の煙のように。
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