第3話 パタパタ
田所さんはスリッパが嫌いだとのこと。正確にはフローリングの床をスリッパで歩くときのパタパタという音が嫌いだ。フローリングを素足で踏む感触が好きなので、冬でも素足で過ごしているそうだ。
玄関の靴箱の上には来客用のスリッパが置いてあったが、友人たちもそれを履くことはなく、単なる置物になっていた。
その頃の田所さんは就職活動に追われていた。エントリーシートを提出して試験を受ける。そこまではうまくいくのだが、面接で毎回落とされていた。
田所さんは笑顔をうまく作れない。知らない人と話すのも苦手だった。友人たちはコンビニや居酒屋でアルバイトをしていたが、田所さんは接客業務には積極的になれなかった。そんな田所さんは、4年間学内の図書室で本の整理のアルバイトをしていたという。
田所さんは元々本が好きだったそうだ。片手で持てる小さな体にたくさんの知恵を秘めている。そしてそれを押し付けようとはせず、静かに棚に収まっている。そんな光景がアルバイトの楽しみのひとつだったそうだ。学生たちから戻ってくる本を書架に整理し、損傷があった場合は可能な限り丁寧に補修する。時給は高くはなかったが、仕事は楽しかったとのこと。
その日の面接も手ごたえはなかった。きっとだめだろう。田所さんは玄関を開け、慣れないネクタイを緩めて靴を脱ごうとしたとき。思わず手が止まったという。
スリッパが落ちている。まるで脱ぎ散らかしたように。
朝家を出るときに落としてしまったのだろうか。そんなにあわてて出たつもりはないのだが。
「『落ちる』なんて、縁起が悪いよ」
そうぼやいてから苦笑する。ついにゲンかつぎまでするようになったか。
丁寧に元の場所に戻し、田所さんは部屋に入った。
翌日はアルバイトだった。1週間ぶりだ。卒論作成と就職活動に忙しかったのだ。学内のアルバイトのため、学業優先を許してもらえる。友人の多くはとうにアルバイトを辞めていた。3つを両立させるのが難しいからだ。確かに学外のアルバイトの場合、度々休みの申請を出すなど考えただけでぞっとする。その点、自分は随分楽な立場でこの4年間働いてきた。その分しっかりやらなければ、と思った田所さんはきびきびと書架の間を歩き回り、本の整理をした。
心地よい疲れを身にまといながら帰宅する。就職活動の疲れとはまた違う疲れだ。あの疲れは神経を消耗させる。ああすればよかった、こう言えばよかった。後からならいくらでも思いつくのに、いざ本番となるとうまくいかない。そんな自分にがっかりする。こんな日々が永遠に続くような、と田所さんは不安になったという。
やがて田所さんの住むアパートが見えてきた。ここに暮らして4年。主に学生を対象にしたアパートで家賃も安い。住人の多くは卒業と同時にこのアパートを出ていく。今このアパートで一番年上なのは、作家志望という噂の謎の男で、後は大学院に進んだ学生が数名だった。
「来年もここに住んでいたりしてね……」
3階建て18戸のアパートを見上げる。それなりに住み慣れて愛着のある住まいではあるもののずっと住むのはごめんだ、と田所さんは思った。
例の作家志望の男は恐らく30代は超えているであろう年齢で神経質。田所さんの真下に住んでいるのだが、住み始めた頃は「生活音がうるさい」とちょくちょく苦情を言われていた。彼の両隣に住む学生も同様だったらしく、2人と以前一緒に飲みにいった時には「いい歳なんだから、あんな安普請のところから引っ越せばいいのにね」「いやいや、金がないらしいよ」「大体いくつなの、あの人」などと散々酒の肴にされていたそうだ。
田所さんは苦笑いしながら聞いているだけだった。なんとなく同調して話に乗るのは気が引けた。ずっとここに住むことになるかもしれない、そんな予感がその頃からあったのだろうか。ふと思い至ったその気持ちを田所さんは頭を振って追い出した。
2階へ上がる階段のほうに進む。
「あー、あのー……」
ぼそぼそとした陰気な声が後ろから聞こえた。あの男だ。
「はい、なんでしょう?」
田所さんは振り返った。
「あー、あの、床を、ね、パタパタ鳴らしながら歩くの、止めてもらえませんか、ね」
男の言葉に田所さんは戸惑ったという。
パタパタ鳴らしながら歩くわけがない。自分はスリッパが嫌いだ。素足で歩いているから強いて言えば「ペタペタ」だろう。そんな音が下に聞こえるはずもない。それも以前男に注意されてから、できるだけ静かに歩くようにしているのでそんなに響いてはいないはずだ。いずれにしても「パタパタ」はない。
「あのー……お願いできますか、ね」
男の声に、考え込んでいた田所さんの思考は止まった。
「すいません、気をつけます」
訳が分からないが、反論しても面倒なだけだ。次に言ってきた時は心当たりがないことを伝えよう。今は部屋に戻って休みたい、そう思った田所さんはとりあえず謝って2階へと上がった。
鍵を開けて玄関に入る。明かりをつけてふと靴箱の上を見た。いつもの通り、スリッパが乗っている。
「『パタパタ』……ねぇ……」
目をあわせようとしないあの男の顔が浮かんだ
「『パタパタ』はないよ、『パタパタ』は」
靴を脱いで部屋に入る。いつも以上に静かに歩いた。苦情を言われたばかりだ。あの男は、きっと今頃下の部屋で様子を伺っているだろう。
狭い部屋で陰気な顔で耳を澄ます男を想像すると、なんだか少し嫌な気分になったという。
買ってきた弁当を食べて風呂に入り、早めに休むことにした。明日は朝から卒論の相談で教授に会うことになっている。できれば昼からがよかったのだが、教授のスケジュールの都合で朝になった。携帯電話のアラームを7時にセットしてベッドに入る。今日は疲れた。しかし気分のいい疲れだ。さぞかしぐっすりと眠れることだろう。布団をかぶって仰向けになった。
その時。
―ピシリ
そんな音が聞こえたように思ったのと同時に、田所さんは金縛りに襲われた。
金縛りは疲れているときに起こりやすいという。確かにここのところ疲れ気味だ。だからこそゆっくり眠ろうとしたときにこの事態。布団もずっしりと重く感じる。
―……あぁ、明日は早いのに。
動けないその状況に、田所さんは苛立った。
「普通に寝かせてくれよ、まったくもう」
そう思う田所さんの耳におかしな音が聞こえてきた。
―パタパタ、パタパタ
床をスリッパで歩くときのあの音。音は明らかに田所さんの部屋の中から聞こえてくる。
―パタパタ、パタパタ
音は部屋の中を動き回る。
―パタ、パタパタパタ、パタパタ
不規則な音を立てて遠くなったり近くなったりしている。
―……やめてくれ、俺はその音が嫌いなんだ。
―パタパタパタ、パタ
田所さんの苛立ちなどどこ吹く風。気ままな足音はなりやまない。
―……「残念ですが、この度はご希望に添いかねる結果となりました」
なぜか不採用通知の文章がふと頭に浮かんだ。
―パタ、パタ、パタパタ
―……「作家志望なんていってさー、社会から逃げてるだけだよね」
あれはあの男の隣に住む学生の言葉だっただろうか。
―パタ、パタパタ、パタ
―……「内々定もらったー! あとは卒論一筋だよ」
同じゼミの学生の声を思い出す。
―パタパタ、パタ、パタ
―……あぁ、なんで、なんで自分だけうまくいかない。
―パタ、パタ、パタ
音は相変わらず部屋の中に響いている。身体は動かないが、田所さんの頭の中には色んな想いが渦巻いている。みじめだ、と田所さんは思ったそうだ。下手な愛想笑いを浮かべて面接官と話す。懸命に話しているつもりだが、思考は空回りする。それを見透かしたかのように届く不採用通知。そして今、不愉快な音を耳にしながら田所さんは動けずにいる。みじめだ、田所さんはまた思った。
その時、ふいに金縛りが解けた感覚がした。
―パタパタ、パタ、パタ
相変わらず音は部屋の中をうろついている。
そっと首を動かして音のするほうを見た。暗くてよく分からないが人影がないのは確かだったとのこと。
―パタ、パタパタ
田所さんは布団の中でだんだん腹が立ってきた。今日はいい眠りにつけそうだったのに。これが幻聴でないとしたら、またあの男に文句を言われてしまう。怖い、と感じる前にそちらのほうが気になった。
―パタ、パタ、パタ
プツリ、と田所さんの堪忍袋の緒が切れた。
「うるさいぞ! この野郎!!!」
ガバッと起き上がり、田所さんは音に向かって怒鳴った。
―……パタパタパタパタパタパタ
音は玄関のほうへ向かっていき、消えた。
ほっとした田所さんはそのまま布団にもぐった。そして、吸い込まれるように眠りに落ちた。
翌朝、目が覚めた田所さんは真っ先に玄関の様子を見にいった。玄関には、スリッパが脱ぎ散らかされたように落ちていた。ため息をついてそれを眺めているとチャイムが鳴った。ドアを開けると、あの男が不機嫌そうな顔をして立っていた。
不本意ながらひたすら謝った田所さんは、スリッパを捨てることにした。
「幽霊にも怒鳴り声って効くもんなんですね」
そう言って素敵な笑顔を見せてくれた田所さんは、春から出版社で働くことになっている。
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