記憶は甘く切なく残酷で

東雲 蒼凰

パイオン・レーテー

 自分の命など大切でなかった。ただ、貴女を守る事が出来ればそれで良かったのだ。だから、あの日。私はあの行動に出た事を悔いてはいない。悔いてはいないが、一つ気になる事がある。しかしそれを聞く術を私はもう持たない。もし、神様という存在が本当にいるのであれば。

 

 あの子の幸せをどうか、永遠に。




 姉は何年も前に落窪村を襲った噴火から私を守り、命を落とした。同時に、落窪村の役所に勤めていた両親もなくした。逃げ遅れた住民を救助し、誰も残っていないか確認している最中に火砕流に巻き込まれてしまったのだ。遺体は依然見つからず私の手元には何も残っていない。家族をなくし一人で生きていくことも出来なかった私は長年交流のある御厨家みくりやけに引き取られた。慣れ親しんだ落窪村から離れたくない、姉との楽しい思い出を抱いて生きていきたい、という私の思いを汲んでくれた親族が御厨家に頼み、御厨家は快く受け入れてくれたのだ。


 姉、葵は私と違って美人だった。すっと通った鼻梁に涼し気な目元は魅力的だった。でも、ふんわりとしたお淑やかな美人ではなく、はっと息を飲んでしまう様な、呼吸を忘れて見入ってしまう様な雰囲気を纏う張り詰めた美しさを持っていた。私は姉の美貌を妬む事はなかった。ただ、私の為に多くの事を犠牲にする姉がいつか幸せになってくれる事だけを願っていた。


みどりちゃん」


 葵へ線香をあげていると御厨家の長男、あおがやって来た。葱は葵と並べば絵になる様な美形だ。そして、葱は葵に好意を寄せていた。あの噴火の日、葱は葵にその思いを伝えようとしたらしい。私は一人で出かける葵を見て気になって追い掛けた。落窪村唯一の神社、落窪神社はその日桜が満開であった。葱は葵を花見に誘っていたのだ。私は必死に車輪を回して一人家を出た葵を追い掛けた。ただの野次馬だと言われればそうである。

 姉と葱の成り行きを見守りたかった私はひっそりと追い掛けて落窪神社の長い階段下で本殿前へ向かった姉を待ち、そして……




「翆ちゃん」


「あっ」


 ぼんやりしてしまった。


「そろそろ学校向かわないと遅刻するよ」


 栗毛色の髪を耳にかけながら言う葱は葵の写真を悲しげに見つめる。あの日、自分が葵を落窪神社に呼ばなければ……なんて考えているのだろうか。


 葱と同じ高校に進学した私はいつも葱と一緒に登下校をする。「あそこは付き合っているんじゃないか」と噂が立っているが、決してそんなものではない。死んだ姉と私を重ね合わせているに過ぎない。私達の間に恋愛感情はない。


「じゃあ、また放課後迎えに来るよ」


 教室まで送ってくれた葱がそういうと教室内から「いいね、彼氏持ちは」「御厨君みたいな彼氏欲しい」と言った声が聞こえた。


「私達付き合ってないって訂正しなくても良いの?」


「うん、良いよ」


 試しに聞いてみるとそう、即答された。どうしてか、聞くほど私は無粋ではなかったし、思い上がった人間ではなかった。


 葱は学校のスターだ。勿論想いを寄せている女子も多い。だが、私がいつも一緒にいるからなのか、葱に告白する女子はいなかった。きっちり訂正しておかないと青春を謳歌出来ないよ、と言えば曖昧な顔をして笑った。


 特別仲の良い友人はいないけれどクラスの子に嫌われているわけでもない。毎日の様に放課後の遊びに誘われる。でも、私が行っても楽しくないし、きっと彼女らの狙いは葱だ。私がいなくても良いのだ。だから、いつも断ってしまう。今日も断った。


 今日は、姉の死んだ日。


 両親の死んだ日。


 そして、落窪村を火砕流が駆け巡り、多くのものが亡くなった日。


 私は学校帰りに姉との思い出が多く残る洞窟へ、一人で向かった。葱は置いていった。一応メッセージを送っておいたから大丈夫だとは思うけれど。


 とても仲の良かった私達は、大人に見つからない、二人だけの秘密基地を作っていた。コンロ、ラジオ、テント、ランタンを持ち込んでは、時折そこで夜を明かした。時に愚痴を言い合い、喧嘩をして家から飛び出して。


 どうしようもない感情が溢れた。


 山から離れた高台にあったために埋まらなかった洞窟には、コンロも、ラジオも、テントも、ランタンも、ある。姉が壁に刻んでいた文字も変わらずあった。


 地面は草に覆われている為、姉が好んで座っていた場所に生えていた草は倒れていたのだが、やはり年月が経ち、今はその場所がどこかも分からないくらい真っ直ぐに生えていた。


「久しぶりに来るなあ、ここ」


 私は転ばないように注意しながら進む。


 そして、見つけた。


「これ……」


 姉の、遺言のような物。当時刑事ドラマにハマっていた私達は度々登場する遺書に興味を持った。ふざけて書いたものだったが、それを昨日思い出した。夢の中で遺書を書いて遊んだ日を見て、もしかしたら、と思ったのだ。


『もしも、私が先に死ぬことがあったら、ここになんて書いたか見ても良いよ。あ。今はダメだって!』


 なんて書いたの、と問うた時、姉はこう返した。


「先に死んじゃったんだから、読んでも恨まないでしょ?」


 洞窟の一番奥、大きな岩の上に置いてある大きな菓子缶。その上に置かれた、家から拝借して両親に怒られた漬物石を退けて缶の蓋を開ける。


 む、とした空気が一瞬広がり、溶けていった。


 中を覗いてみれば、私達が書いた遺書は蓋をした当時と変わらずそこにあった。


「お姉ちゃんのところに行きたい……」


 そう溢し、虚しくなる。


「翆ちゃんっ……!」


 手を伸ばし、紙を掴んだ時。葱の声が背後から聞こえた。


「どうしてここを知……」


 姉と私しか知らない秘密基地を何故知っているのか気になって問おうとしたが、その言葉を最後まで言わせてくれなかった。


「お願いだから、勝手にいなくならないでくれ……」


 ぎゅ、と抱きしめられ、車椅子が後ろに倒れる。からからと車輪が空転する音が洞窟に反響した。


「翆ちゃんは勘違いしている。僕が好きな相手は、葵じゃないん……」


「分かってる、そんな虚しくなることは言わないで。自分の心に嘘を重ねないで。お姉ちゃんにちょっと行動が似ている私に、お姉ちゃんの成長した姿を重ねていることなんて分かっているんだから」


 今度は、私が葱の言葉を皆まで言わせなかった。私自身の心が壊れてしまいそうだったから。


 人の心を察するのが上手い葱だ。これで引いてくれるだろうと思っていた。いつもなら、引いてくれていた。


「いいや、君は何も分かってなんかいない」


 でも、その日は引いてくれなかった。


「あの年の今日、僕は葵を神社に呼んだ。それがなんでか、分かる?」


「お姉ちゃんに告白するためでしょう?」


「ほら、分かってない」


 ゆっくり、私を地面に座らせる。車椅子を起こして座面についた草や砂を払いながら葱はちょっと怒ったように言う。


「君を、呼び出すためだったんだ」


「何を言っているの、私を呼んでも良い事なんて」


「翆ちゃん」


 足を動かせない私に逃げる術はない。怒った顔の葱はじりじりと私に近づいてくる。壁際へ追い込まれ、背中にひんやりした石を感じる。


「絶対に、翆ちゃんを呼んでも、翆ちゃんは来ない。だから、葵を呼んだんだ。葵が大好きな翆ちゃんなら、絶対についてくる」


 耳を塞ぎたくなったが、葱はそれを許さず、耳にやろうとした手を強く掴んだ。せめてもの抵抗として、顔は下に向けた。


「逃げないで、聞いて。ねえ、翆ちゃん。葵はあの日、死んだんだよ。唯一の家族はあの日居なくなった。そろそろ葵を解放すべきじゃないかな」


「そんな事っ」


「現実を受け入れるべきだ」


 貴方に何がわかる。そう思って睨み付けてやろうと顔を上げれば辛そうな表情があった。何か言ってやろうと思っていたのに、そんな気持ちが消えていった。その代わり、感じたのは、恐怖。この先の言葉を、私は聞いてはいけない。御厨家に引き取られた際、葱の両親はこの顔をしていた、そしてなにかを言おうとした。


「僕は、もう我慢出来ない。ねえ、翆ちゃん」


 私は、極限まで追い詰められた。気づけば葱の声は遠退き、意識を失っていた。




 かんなぎ翆。生まれつき両足が悪く、車椅子での移動を余儀なくされている同い年の子。彼女の両親は、翆に申し訳ないと思っているのか、少し距離を置いて翆と接していた。翆が満足に話せるようになれば、何かと理由をつけて僕の家に翆を押しつけ、働きまくる様になる。


 僕は、異性とどう接すれば良いのか分からず、ただ隣にいて話をすることしか出来なかった。


 最初の方は話してくれなかったが、次第に心を許してくれたのか、自分の好きな事を話してくれる様になる。そこで、後に葵と翆の秘密基地になる洞窟の話も聞いた。打ち解けた人物へは饒舌になるらしく、始終話していた。ころころと表情を変える翆は見ていて楽しかったし、面白い話をたくさん知っている翆に何度も笑わせられた。そして、いつしか翆に特別な感情を抱く様になった。


 まだ、その頃は翆に兄弟はいなかった。


 翆の話に『葵』という名の、完璧な少女が出てくる様になったのは、翆の父親がそこそこ偉い地位に上り詰め、更に帰宅時間が遅くなった頃。


「葵お姉ちゃんがね、明日一緒に遊んであげる、って言ってくれたの。だから、明日はここには来ない」


 その頃から、翆は作った笑みを顔に貼り付け、架空の姉と遊び、御厨家に来なくなった。両親に問えば、渋い顔をして、言い辛そうにしながらも教えてくれた。


「多分、あれは愛情不足だよ。ただでさえ、翆ちゃんはハンデを負っていて、普通の子と走ったり出来ないのに、一人にしていたらね。心が枯れちゃうよね」


 翆だって、普通の子だ。


 両親の言葉に反感を覚え、言えば苦笑される。


「普通の子は、空想の姉なんて目に見えないよ。あの子は、病気だ」


 ばっさりと、切り捨てた。


 近所からも、「翆ちゃんって可愛いけど、病気なのよね」「可哀想」なんていう声が聞こえた。変な子、でも可哀想。そんな目で見られるようになって、翆はさらに葵という架空の人物に救いを求めて空想の世界に逃げ込んだ。 


 そして、落窪山の頂上に積もっていた雪が溶け、少しずつ春を感じる様になった頃。


 することもなくブラブラ近所を歩き回っていると、一人、車椅子の車輪を回し、何処かに行く翆を見かける。まだ地面の一部は凍っている。転んでしまっては翆は一人で起き上がれない。そんな正当な理由を作ってこっそり後をついていった。綺麗な黒い長髪はいつの間にかショートカットになっていた。フワフワ揺れる髪も良いな、なんて考えていれば、洞窟についていた。洞窟の中に進んで行った翆に気づかれないように入り口に立つ。


「お姉ちゃん、なんて書いたの」


 中から声が聞こえた。もう慣れてしまって、驚かなくなった。


「んー、分かったよ分かったから。でも、私より先に、死なないでよ?」


 紙の擦れる音と、缶の蓋が締まる音。


「今日はそろそろ帰ろうかな。掃除しないといけないしね」


 巫家は、車椅子の娘に掃除をさせているのか。


 さ、と洞窟の前から木々の生い茂る場所へ身を隠し、翆が出てくるのを待った。車輪が石を巻き上げる音が遠のいていくのを確認し、洞窟に入る。悪い、と心の中で謝って大きな岩の上の缶を手に取り、中にあった二枚の紙を開いて読んだ。


『願わくは、葵と葱の恋が叶います様に。私の想いが、気付かれません様に』


 一枚目は、それだけ。それだけが書いていった。


『不幸な翆が、楽しそうに笑う顔を見たい。死ぬまでに、見たい。遺書なんてどう書けば良いのか私には分からないし、これを誰かに読まれているなんて考えたら恥ずかしい。大した財産なんてないし、私は、私の持っているもの全てを翆に捧げる想いで生きているのだから。翆、葱のことを好きなのに、消極的な性格のせいで、話そうともしないし。お姉ちゃんとして何かしてあげたいな』


 二枚目。一枚目とは全く違う筆跡だ。


 僕はふと、テレビで特集されていた解離性同一性障害を思い出した。簡単に言えば、二重人格。


 翆は、あれに似た症状を発症しているのではないだろうか。翆の中に、葵という完璧な人間が住み、本当の家族として接している。今まで、翆の言う葵は架空の人物で、翆の中で、葵は『生きていない』と認識されているものだと思っていた。 


 でも、これは。


 背筋がぞわりと凍る。確認しなければ。


「葵のこと、本当に信頼しているんだね」


 そう言ってみれば、翆はふわりと、とても優しい笑みを浮かべて嬉しそうに頷いた。


「そうなの、お姉ちゃんは、とっても優しい。私を、認めてくれる」


 翌日、久しぶりに御厨家に来た翆に問えば、そう言う。それから、毎日毎日、葵の事を問うた。何十回も連続で聞き、ある日翆は言いにくそうに言葉を途切れさせながら聞いてきた。


「葱って、お姉ちゃんの事、好き?」


 衝撃が走った。どうして。


「お姉ちゃん、無表情だから勘違いされがちだけど、打ち解けたら冗談も言うし、優良物件だよ」


 冗談を言っているのは、翆の方だ。僕が常に考え、思っているのは翆なのに。どうして、翆が勝手に作って生み出した葵に恋をしないといけないんだ。


 ふつふつと、怒りが湧いてきた。でも気力で沈めて、気付く。感情を出さない、能面のような顔に悲しそうな、辛そうな、見ていられないほど悲痛な色が滲んでいる事に。


 今、翆が心の拠り所にしているのは葵。ならば、その場所に自分がおさまれば、翆は現実に戻ってくれるのではないか。そう考え、ある作戦を思いつく。


 次の日、翆に手紙を渡した。


「これ、葵に渡しておいて欲しい。お願い出来る?」


 翆は病的なまでに葵に頼っている。自分では重度のお姉ちゃん子、と言っているが、葵の行動は翆の脳内で作り出される虚像だ。把握していなければ矛盾が起きる。絶対に、翆はこの手紙を葵として読む。


『落窪神社、桜が満開らしい。一緒にお花見に行かないか。出来たら、葵と二人で』


 そう、書いておいた。葵が見えると言う翆だ。後ろからついてくるに違いない。


 結果、そうなった。一人、長い階段の上で待っていた。翆が来るのを。


 そして。翆が階段下に来た瞬間。


 落窪山が噴火した。何千年も噴火を起こしていなかった落窪山は、当時まだ使われていた『死火山』に分類されていたので、噴火への備えはされていなかった。ドロドロとした溶岩が地面を舐め、軽石が降る。落窪山の中腹にある池から白い筋が上がっていた。空は真っ黒で、まるで夜の様。


「翆!」


 落窪山を見渡せる、切り立った場所に立つ落窪神社。頭上から降ってくるものを避けられるかは分からないが、溶岩からは。


 その時、ドン、と地面を激しく揺らし、落窪山の一部が欠けた。さっきまでの比にならないスピードで赤いものが扇状に広がった。山の近くにあった民家は、なくなっている。見渡す限り、灰色の絨毯。


 さっきの衝撃で翆は車椅子から転げ落ちていた。口に手を当て、怯えた目をしている。


 火山灰が積もり、翆の体を少しずつ隠していた。


「掴まって!」


 階段を物凄いスピードで駆け下り、翆に手を伸ばす。


「葵……」


 翆は虚な目で空を見つめ、葵の名を繰り返し呼んでいた。葵、葵、と。僕の伸ばす手には全く見向きもせず、階段上を見つめる翆。


 どうすれば良いか分からない。戸惑うばかりで、翆を抱き上げることは出来なかった。


 目の端に赤いものが映った時、僕の体は動くようになる。


 ここまで、溶岩が。それも、冷えずに。


「ごめん」


 翆に謝り、僕は翆を抱き上げ、階段を一気に駆け上った。翆は悲痛な顔で何処かを見、涙を流していた。


 その後、翆の両親が火砕流に巻き込まれて行方不明になった、という知らせを、僕たちを探しに来た両親から聞いた。翆はなんの感情も浮かべず、ただ「そうですか」と言っただけだった。代わりに、「葵は、葵は見つかりましたか」と必死に聞いていた。


 それから、翆を御厨家に迎え、小、中、高、と同じ学校に通うようになる。




 巫葵なんていう姉は存在しない。分かっている。でも、実際に姿が見えるようになり、声が聞こえるようになれば、依存してしまう。弱気な私に足りない、強気な部分を持った葵に。


 私は、御厨葱に思いを寄せている。でも、私なんかと釣り合わない。葱は、もっと素晴らしい人と一緒になるべきだ。だから、いつも私を気にかけてくれるからといって、クラスの子たちがお似合いだよ、って言ってくれるからといって、思い上がってはいけない。


「翆ちゃんは勘違いをしている」


 そんな、哀しげな顔で見ないで。


「僕は、もう我慢出来ない」


 そんな、辛そうな顔をしないで。


 お願いだから、お荷物に構わないで、幸せになって。そう思った時、額にチリチリとした痛みを感じた。


『私の最後のお願い』


 頬を涙が伝う。葵の声だ。あの日以来見えなく、聞こえなくなった葵のもの。どうやら、葵がおでこを弾いたようだ。


『私に縛られずに、葱に自分の思いを伝えなさい。これは、お願いでもあるし、命令でもある。ねえ、心の何処かでは分かっているんでしょう。自分が葱に、同情心からとかではなく、純粋に好かれている事に』


 そんなの、ただの思い上がりだよ。


『アホな子。自分にどんだけ魅力があるのか分かっていないなんて。勇気出しなさい』


 髪を優しく撫でられた。


『さようなら』


「行かないで!」


 叫んだ瞬間、目が開く。


「行かないから、安心して」


 目の前で微笑んでいた葱。


「葵はもういないけど、僕はいるんだから」


 ああ、そうか。私は、この目を見るのが、怖かったんだ。




 多分、僕が翆に特別な感情を持ち始めた時、翆は察した。


 愛を向けられる事を知らない翆は初めての事に怯え、それは葵に向けられているものなのだとした。葵に依存するのが酷くなった。葵の姿、声を実際に見聞きする様になったのは、僕のせいだ。翆がおかしくなったのは、僕にも責任がある。あの時、自分の気持ちを封印していれば、葵という姉とのごっこ遊びで済んでいた。


 なら、噴火の時、何故翆は葵を殺した?


 盾にしていた葵をわざわざ殺す必要などない。


 御厨家が彼女を引き取って一週間した日に翆がその答えを口にした。


「……私……あお……いる」


 無防備に、リビングで寝てしまった翆を翆の部屋に運ぼうと腕を伸ばした時、寝言が聞こえた。


「一人……ない」


 ふんにゃりと、幸せそうな顔。


 僕は、震えた。今、翆は『私には葱がいる。一人じゃない』と、言った。どうやら、翆の中で変化が起き、葵がいなくても良くなったらしい。そして、僕を信用してくれるようになった。


 何も入っていない写真立てに、線香。


 毎日それを見るのが嫌だった。だが、今はもうない。


「翆、行ってくる」


 成人式を迎え、社会人になり、上京して。


「行ってらっしゃい」


 同じ姓になった翆には、影なんてない。ショートカットだった髪は、長くなりポニーテールにされている。出会った頃の翆の様に。


 何もなかった写真立てには、翆の両親の写真が入っている。


 笑顔で、僕を見送ってくれる翆を、僕は死ぬまで守ると誓った。翆がなくした『まもる』に代わって。

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