一章

第1話 新学期

 午後の授業はまばらに開始した。とは言え、勉強が始まる、というわけではなく、今の時間は委員会や役員などを決めるための時間だった。


「はい、静かに。委員会決めるよお」


 担任の沢谷が、皆を静かにさせる。さっき、全員の自己紹介を終えたばかりなのに、十年くらい先生をしていたみたいな話しようだった。恰幅がよく、えびす顔の沢谷は、入学してからしか知らないが、見るとずっと薄く笑っている男だった。けれども、どこかうわっすべりしているのは、沢谷自身が、そんな自分の振る舞いを信じていないからだろう。

 あさきはそんな沢谷から早々に足下へと視線を戻した。あさきは、机の間隔ぎりぎりまでさげた椅子の背に、体を大きく斜めにもたれかけて座っていた。だらんとした姿勢で、あさきは、机の下に投げ出された足先の上履きの色を、見るともなしに見ていた。窓の外から、陽射しが照りつける。窓際の机に反射して、あさきは目をつむった。意識が下に引っ張られていく。


「お前、委員長やれよ」

「えー何でえ。やだあー」

「いいじゃん、――せんせーこいつ、立候補です!」

「ちょっと! まじ――やめろ」


 一拍置いて、じわじわとクラスから笑い声があがる。意識が浮上した。目をつむると、周りの音が目立った。聞いてると耳元がざわざわして、あさきは閉じたまぶたにぐっと力をこめた。何でもいいから、はやく決まったらいい、そう思いながら、人差し指の腹を噛んだ。


「はい、じゃあ、委員長は佐田さんで。みんな、拍手っ」


 沢谷が音頭を取ると、佐田は、「えー」といいながら、「皆、よろしくぅ」と言い、軽くお辞儀をした。よろしくうと、仲間にはやし立てられ、「うっさいわ」と、目をむいた。それにも仲間は大きく笑い、皆が後に続いて、小さく笑った。あさきはあくびをした。ちょっと声が出て、隣の生徒がちらりとあさきを見たが、当のあさきは気にしていなかった。なんだって、学生と言うものは、こんなに眠い時間に、授業があるのだろう。


「えー、じゃあ、ほかの係も決めていこう。皆、一年で一回は係をやってもらうから。先にやっとくのも手だよぉ」


 小さなメモ帳を見ながら、沢谷は黒板に係を書き写していった。あさきは目を開いた。目を閉じているのが疲れたのと、一年に一回は係をする、という面倒なワードに気を引かれたからだった。時計を見て、それから窓の外を見た。薄青の空に、月が浮かんでいた。

 何となくあさきは、薄い白のそれを見ているのが嫌になって、また視線を戻す。かといって、こっち側に特に見たいものがあるわけでもなかった。

 春――この時期は、本当に、何かと面倒だった。あわただしく、みんなの気持ちがそわそわと定まらない。一日中だらっとして、授業を聞いていられる日々になってほしい。首を傾けると、伸びた前髪が瞼を撫で、後ろ髪が、一房さらりと肩から落ちた。足の裏がふわりと浮く感覚。――それから、あさきの意識は、ずぶずぶと底に沈んでいった。


「――決まらないねえ。じゃあ。先生が指名するか、くじかどっちがいい?」


 挙手するものが少なく、係の選出はだらだらと難航していた。沢谷が、息をついて言った。


「でもねえ。高校生だからねえ。自分たちで選べないとだめだからねえ」


 ね? と肩をすくめる。沢谷は声音を冗談めかして、柔らかくするよう、つとめていたが、そこにはぴりっとした苛立ちが混ざっていた。


「皆、ちゃんと決めようぜ」


 さきほどの佐田のいるグループの内の一人が、場をとりもつように、声をあげた。一人、押されたように、挙手した。しかし、それからは、また、誰も動く気配がなかった。気まずそうにきょろきょろする生徒もいたが、皆自分は違いますという顔で、向こうを見ていた。


「いいや。じゃあ先生が決める」


 やけを起こしたように、沢谷が下を向いて大きな声でつぶやいた。そうして、名簿帳をひっつかむと、ボールペンの頭でぱしぱしとたたきながら、ぶつぶつ言い出した。


「美化委員は、鈴木さん、体育委員は――」


 すごい勢いで読み上げながら、チョークで黒板に名前をたたき書いていく。皆が呆気にとられる中、「返事して」と沢谷は声を張り上げた。指名されたものが動揺したように、声を上げる。


「あの、私、二学期にやろうと思ってたので――」

「なら、何で言わない! 傍観者!」


 鈴木が戸惑いながら言うと、パニックを起こしたように沢谷は叫んだ。クラスはしんとした。沢谷は、それで我に返ったのか、にこりと笑って、「わかった、じゃあ、美化委員は榊さんね」と変更した。今度は榊が顔をしかめた。佐田達のグループが、顔を見合わせて、笑っていた。

 あわてて、ほかの生徒達が、「二学期にやります」「三学期に」と声を上げる。沢谷は、その能動的な生徒達の行動に、半分を笑顔で、もう半分を苛立ちで受け止めた。


「わかった。でも、みんな二学期、三学期じゃまわらないからね。そこは相談して。教科係は――城田さん」


 あさきはぼうっと机の木目を瞳に映していた。城田はあさきの名字だった。しかし、あさきは返事をしなかった。あさきはさっきから今までのやりとりを、いっさい聞いていなかったのだった。


「城田さん。返事して」


 やっぱりあさきは聞いていなかった。なので、また返事をしなかった。沢谷は、怪訝な顔で、あさきを見たが、そもそもあさきがずっとやる気のない態度をとっていることを知っていた。だからあさきを教科係に指名したのだった。


「寝てんの?」


 佐田のグループの一人が、おどけてあさきに尋ねた。グループはどっと笑ったが、それでもあさきは聞いていなかった。反応をしないあさきに、おどけた生徒の顔が笑顔のまま一瞬固まった。


「城田さん!」


 沢谷が教卓を名簿帳で叩いて叫んだ。前の列の生徒達は、うっと顔をしかめた。そこでようやく、あさきは顔を上げた。ようやく意識が浮上したのだった。浮上したが、あさきの感情はまだ沈んでいた。ぼんやりとした顔で、見ると、沢谷が息を荒くしてこちらを見ていた。


「立ちなさい!」


 沢谷は顎をしゃくって、言った。立て、その言葉は理解したので、あさきはふらりと立った。反抗すると思っていたのだろう、少々虚をつかれた顔をしたが、それでもきっとして、言い募った。


「傍観者! 黙って見てれば君はさっきからなんです。いけません! 皆を見なさい!」


 あさきは、視線をさまよわせた。笑っている目、引いている目、無関心の目、うんざりした目――を、無関心に見渡して、沢谷を見た。見たが、映しているだけで、何の感慨もわいていなかった。


「見ましたか! なら謝りなさい!」


 あさきは、黙ったまま、沢谷を見ていた。それから目を伏せて、右手の人差し指で唇にふれ、その腹を噛んだ。


「城田!」


 沢谷の怒りのボルテージが上がった。クラスは、半数は愉快がって状況を見守り、もう半数は、戸惑いやうんざりするなど、居心地の悪そうな空気を出していた。このまま授業がつぶれたらいいという空気と、勘弁してよ、という空気を、沢谷自身も感じており、内心ひるみ出していたが、表面上の怒りはさめやらず、止まることは出来ないでいた。


「まあ先生。緊張してんだって。許してあげなよ」


 さきほどおどけた生徒が、沢谷に助け船を出した。沢谷は、きっとその生徒を見たが、ふっとほほえんで


「そうですね。僕としたことが、取り乱してしまいました。――城田さん、とにかく教科係をやりなさい。いいですね」


 沈黙を肯定と受け取ることにして、沢谷はあさきに着席を命じた。あさきは何も言わず、席につく。そうして、今度は机に突っ伏した。沢谷は頬をけいれんさせたが、言葉を飲み込み、名簿帳に目を落とした。


「では、もう一人の教科係は――友森君!」


 ここで、もう一度声を張り上げた。しかし、もう怒気はなく、沢谷はいつもの調子を取り戻していた。


「友森君!」

「――はい!」


 沢谷の声に、三秒ほど遅れて机が揺れる音のあと、後ろの席の方から返事が飛んできた。三秒目を食い気味にした、今ちょうど起きた人間があげるような、あわてた返事だった。そのせいか声はやけに大きく、忍び笑いが漏れた。そして実際に友森は寝てしまっていたらしく、返事をしてから、自分が何に返事をしたのか考えていたようだった。


「教科係。やってくださいね」

「あっすみません、先生。頑張ります」


 にっこりと笑った沢谷に、少し照れくさそうな声が答えた。友森の声は澄んだよく通る声で、張り上げていないのに、まっすぐに黒板まで届いていた。

 あさきは、この声の持ち主と、自分が同じ教科係であることを、ふと頭に浮かべた。すぐに払いのけてしまった。

 沢谷が他の係への指名に移る中、あさきの意識はまた、沈んでいくのだった。


 授業が終わり、沢谷が出て行く中、クラスは喧噪に包まれた。


「やべー」

「聞いた?」

「ボウカンシャ!」


 佐田のグループは、沢谷のまねをして、身震いした。引き笑いがクラスに横線をはるように響いた。彼らだけでなく、生徒たちのほとんどは、沢谷の振る舞いを話題にしていた。その話題につられるように、数人かはあさきの方へ何度か視線をよこした。あさきはぼんやりしていたが、スマホが揺れたのをきっかけに、浮上させた。


『大丈夫? 先生まじできもいよね』


 ラインのメッセージだった。あさきは、スマホを机に置いて、それから机に突っ伏した。


『もんだいないよ』


 そこまで打って、やめてしまった。目を閉じて、続きの言葉を心の中でつぶやいた。

 何にもかわらないよ。

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