夕べの雲を君も見て

舞夢

第1話枝村美紀

梅雨が明け、今朝も蝉の声がやかましい。

佐々木優は、よろめきながらベッドから降りた。


「暑い、今日も」

「会社に行きたくない・・・また他人の凡ミスばかりの報告書を直して、当人とその上司からは、にやけた顔で当然のごとく言われて」

「でも、その前に、汗びっしょりだ、シャワーしないと」


ブツブツつぶやいて、シャワーを始める。

「石鹸買わないと」

手に取った石鹸の小さいことが、気にかかる。

ボディソープなどは、全く買う気がない。

「こんな学生時代から継続のボロアパートに、そんなしゃれた物は似合わない」


シャワーをおえて、少しだけサッパリとなる。

「せめてエアコンは必要か」

「扇風機だけだと、熱風を浴びているようだ」

「しかし、贅沢だ、我慢すればいいことだ」


この暑さなので、汗がまた出る前に、出社用のスーツに着替えた。

朝食は、全く考えにない。

冷蔵庫を開けても、冷やした水だけしか入っていないのだから。


アパートを出ると、途端に真夏の太陽熱波が脳天にガンガンと突き刺して来る。

最寄りの井の頭線浜田山駅には、徒歩で15分かかる。

自転車はないから。歩く以外の移動手段はない。

「また駅に着くまでに汗をかく」

「何のためにシャワーしたのか、それでもシャワーしたから少しマシなのか」

しかし、いつまでも、そんなことを考えていても、駅までの道を進まなければ、どうにもならない。

「なるべく汗をかかないように日陰を歩いて、電車で涼もう」


そんな結論となり、アパートから数歩、歩いた時だった。

黒の超高級ベンツが、アパートの前に停車した。

「やけに場違いな車だ」

「このボロアパートに関係する人がいるのか」

「かといって、ほとんど付き合いもないけれど」


優は全く興味も関心もない。

そのまま、通り過ぎようとすると、黒ベンツのドアが開いた。

すると、濃紺のスーツを着た、若い女性が降りて、優を見て歩いて来る。

しかも声をかけて来た。

「佐々木優様でございますか?」

「私、本社会長室秘書課の枝村美紀と申します」


優は、全く意味不明で立ち尽くす。

「あの・・・本社?会長室?秘書課?」

「いきなりで・・・」

「それで私に何の用が?」


枝村美紀は、優の前に立った。

「いきなりではありますが、詳しくは、本社にて」

「会長がお呼びです」

「お勤めの子会社の人事部には、本社人事部から既に連絡済みです」


優は、ますます戸惑った。

子会社社員の優から見れば、一部上場の大財閥系、本社社員は優秀極まりない身分違いの人たち。

しかも、会長室の秘書となれば、どこまで頭を下げていいのかわからない。

それでも、必死に質問。

「あの・・・わかりました・・・」

「それで・・・会長とは・・・」

「私は、何か悪い事をしたのでしょうか」


優自身、仕事は丁寧にやり遂げるタイプと思うし、間違ったことをしたとは思っていない。

指摘されるとすれば、仕事が丁寧過ぎて、仕上げる時間が少々余計にかかる程度。

しかし、何も不祥事や犯罪をしていない、そんな大それたことはしていないのだから、突然「本社の会長が呼んでいる」と言われても、気は動転するばかりとなる。


枝村美紀は、そんな戸惑う優の手を、突然握って来た。

「ご心配はいりません」

「ますは、御車に」


身分違いの高根の花に手を握られてしまっては、優はどうしようもない。

優は、抵抗もできず、そのまま黒ベンツに乗り込むことになった。

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