第2話 衛士は追放サレ妃を迎える
広大な都・万保は碁盤の目のようになっており、銘軒の
彼に、家族はいない。上司に勧められてそれなりの家を買ったものの、家事をしてくれる通いの老人が一人いるだけなので、部屋の数には余裕がある。
「どうぞ、お入り下さい」
銘軒は慇懃に、彼女を部屋に通した。雹華は困ったような笑みを浮かべる。
「あの、どうか、かしこまらないで下さい。私はもう妃ではありません」
「じゃあ遠慮なく」
あっさりと銘軒は口調を変える。
「友人の妻に聞いて、必要なものだけ揃えた。おいおい増やしていけばいい」
今度はにっこりと、雹華は微笑んだ。
「ありがとうございます。私などには、十分すぎるほどの部屋です」
(さすが、美女だな)
銘軒は思う。
艶やかな髪、透けるような肌、小さくふっくらした唇。すらりとした指の、薄紅色の爪。
媚びた仕草をしたわけでもないのに、立っているだけで匂い立つように美しい。
彼女が門から出てきた時、銘軒の同僚たちは、門卒にあるまじきことだが一瞬目を奪われていた。
「妻として添わせて頂くことになりました。幾久しく、お願い申し上げます」
綺麗な礼をとって挨拶した声も、澄んでいて心地よいものだった。
(これでお手つきはなし、って。もったいねぇ。しかし、主上には高
じろじろと見ていると、雹華は軽く首を傾げた。
「あの、何か……」
「ああ。ひとつ聞きたいことがあるんだが」
銘軒は単刀直入に尋ねる。
「噂を聞いた。あんた、後宮で侍女を毒殺しようとしたって本当か?」
雹華がギョッとして顔を上げた。
彼女の後ろにいた若い侍女が、顔色を変える。
「何てことを……!」
「鈴玉!」
雹華はすぐに軽く手を上げて止めると、まっすぐに銘軒の目を見た。
「その噂は、偽りです。私は、そのようなことはしておりません」
(そりゃ、否定するよな。やってても)
銘軒は思いながらうなずいた。
「そうか。まあ気を悪くするな。噂とはいえ、耳に入ったからには確認しないとな」
「…………」
ふと、雹華はうつむいた。
瞳が潤んでいる。今にも涙がこぼれそうだ。
(なぜ泣く。悔しくてしかたない、ってか? 面倒くさ)
銘軒が内心ため息をついていると、雹華はいったん口を引き結び、そして顔を上げた。
真摯な瞳が、彼を見る。
「私のために不快な思いをされたのですね、本当に申し訳ありません。それでも受け入れて下さったご恩に、今後、少しずつでも報いたく思います。お疑いかと思いますが、信じていただけるように努めますので」
(別に、受け入れたくて受け入れたわけじゃないけどな)
内心でつぶやきながらも、少しだけ、そのまっすぐな視線にたじろぐ。
「……そっちこそ、堅っ苦しいのはなしにしてくれ。とにかく、今日は疲れてるだろうし、ゆっくりするといい。食事は通いの者が用意してくれる。ではな」
銘軒はそれだけ言って、さっさと彼女の部屋を出た。
「雹華様!」
鈴玉がそっと雹華の肩を支えた。
「大丈夫ですか? 座って下さい。あんな人が雹華様の旦那様になるなんて!」
「違うの、大丈夫よ」
椅子に座った雹華は言ったものの、肩を落としながら袖口で目元を押さえた。
「ただ、宮城の外にまで、噂は届いているんだと思って。凶状持ちの女なんて妻にしたくないでしょうに、旦那様は主上から賜る以上、断れないのだわ。申し訳ないと思ったら、涙が」
「お妃をいただくだけで名誉ですよっ。それなのに、あんなこと言うなんて」
まだ十四歳の鈴玉は、感情を隠せずにムスッとしている。
雹華は首をゆるゆると横に振り、微笑みを見せた。
「あら、噂を鵜呑みにせずに、私に直接、確かめて下さったじゃない」
「聞いたところで信じるんでしょうか? ただ無神経なだけに見えますけどっ」
「まっすぐな方なのかも」
「会ったばかりなんですから、わかりませんよ」
「無神経かどうかも、わからないわ?」
「……そうですね。申し訳ありません」
素直に謝った鈴玉は、すぐに背筋を伸ばす。
「とにかく、お荷物を片づけますね」
「鈴玉の荷物も、ちゃんと届いている?」
「使用人用の離れに届いていました。離れ、誰も使ってないので、私が独り占めなんです。ちょっと嬉しいかも」
「ふふ、今までは侍女たち三人で一つの部屋だったものね。……ごめんね鈴玉、私について来させてしまって」
「何を謝ることがございますか。私は雹華様は無実だと信じておりますから、もう後宮なんて。残ったところで高斗妃様にいじめられます」
フン、と鼻を鳴らしながら、鈴玉は荷を解いた。襦裙やら上着やらを片づけ始める。
「私もやるわ」
もう妃ではないし、人の妻になるのだから、家のこともできなくてはならない。
雹華は自分で小物入れを整理したり、鏡を鏡立てに立てたりした。
(何だか、不思議な雰囲気の旦那様)
片づけながら思う。
襟の詰まった上衣に
(失礼かもしれないけれど、野生動物のようだったわ。馴れ馴れしくしたら、きっと怒ってしまわれる。旦那様なりの距離感を、守るようにしなくては)
ふと、顔を上げる。
窓の外、家々の向こうに、ちらりと宮城の壁が見えていた。ここからは、中の様子をかいま見ることはできない。
(……出てきてしまったのね、本当に)
再び、雹華の目に涙が浮かんだ。
(あぁ、戻ることができたなら……)
その日の夕食は通いの老人が作り、鈴玉が手伝った。
向かい合って食事をしながら、銘軒は雹華に聞く。
「あんたも、厨房にいたようだな」
「あ、はい」
雹華はうなずいた。
「ほとんど料理をしたことがないので、覚えなくてはと」
「ふーん。……毒で疑われたのに、よくまあ」
独り言と言いがかりの中間のような口調で、銘軒は言う。
雹華はビクッと手を止めた。
(私ったら、何て無神経なの。旦那様にしてみたら、私の料理なんてご不快に決まってる)
「み、見ていただけで、手は出しておりません。私は作れませんし……」
言い訳のように言ってしまったが、見ると彼はもうほとんど平らげている。
「後宮でさんざん身体や持ち物を調べられ、そこからまっすぐここに来たんだ、今日は毒は持ってないだろ。ふーん、料理、作れないのか。あんたの実家は使用人が大勢いたんだろうからな」
彼女の実家は裕福な商家で、国境沿いの大きな町にある。商人の父親が、隣国との交易路を開拓して成り上がったのだ。
使用人もたくさんいて、後宮に入る前からずっと、雹華が自ら料理をすることはなかった。
「自分が料理するなんて、想像したこともなかったんじゃないか?」
薄く笑みを浮かべた銘軒は、やはり鋭い目つきで雹華を見ている。雹華は口ごもりつつ、正直に答えた。
「それは、その、はい」
「鈴玉がいるんだから、料理はやってもらえばいい。ああそうだ、実家と言えば」
食事をしながら、銘軒は続けた。
「婚礼について色々と決めて、あんたのご両親に知らせないと」
雹華は少し驚いて、顔を上げた。
「婚礼……を、行って下さるんですか?」
少し呆れたふうに、銘軒は答える。
「しないわけにいかないだろ。しなかったら、まるで俺が主上に思うところがあるみたいじゃないか」
皇帝から下賜された妃をないがしろにしたら、大変なことになる。
「ええ、あの、申し訳ありません」
目を泳がせつつ、雹華は少しためらったが、続ける。
「……たぶん、父は私をとても怒っていると思いますが、驚かないで下さい」
例の噂はもちろん、遠方の両親の元まで届いているだろう、と雹華は思う。
しかし、実はそれだけではなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます