第2話君にほら、LOVEずきゅん!

 私は水戸芽衣子。二十五歳。埼玉県出身。東京都在住。蟹座。O型。OL。使ってるシャンプーはボタニストの黒。

 私はこれまで三人の男の子と付き合ってきたが、大学一年生まで彼氏ができたことがなかった。

 最初の彼氏は同じ大学のバンドマンで、音楽と漫画をこよなく愛していた。

彼は漫画家の浅野いにおの作品が大好きだったから、私も浅野いにおが好きになったし、音楽の趣味も、相対性理論や大森靖子から、マカロニえんぴつやリグレットガールになった。

 ステージに立つ彼の姿は、マカえんのはっとりよりもかっこよかったし、一人でとてもナイーブになる彼の姿は、身体が爆発しそうになるほど愛おしく、かわいらしかった。

 彼の、はにかむときの唇の動きや、寄り添うと少し、タバコのにおいがする、ビッグシルエットのTシャツ、よく二人で行った映画館と、帰りに必ずよる、その近くのハンバーグ屋さん、それらは今でも鮮明に覚えている。懐かしいな、と、クスッと笑えて、少し寂しくなる。

 あの頃の私は、このままずっと、彼と生きていくんだって思っていた。重たそうなギターを背負う彼の隣で、ずっと笑っているんだって、そう思っていた。





 昼休憩のチャイムが鳴る。そういえば今日は、安住さんへの怒号が聞こえてこない。みんなが食堂などに向かう中、私は、愛子ちゃんのデスクには向かわなかった。

「あ、今日お昼ご飯、一緒に食べてもいい?」

安住さんは重たい眼鏡を指で押し上げ、驚いた顔をしていたが、うん、と作り笑顔で答えてくれた。私たちは、近くの公園で食べることにした。

 公園についても、私は何を話せばいいかわからず、無言はだめだし、かといって、つまらない天気の話題や、週末は何してるの? とか、そういった話題は出したくなくて、頭を秒速で回転させながら、コンビニで買った冷やし中華を一口食べる、を繰り返した。「なにか絞り出せ芽衣子!」冷やし中華のきくらげが、私を急かす。

「そ、そういえば安住さんって、週末は何してるの?」

限界だった。

「う~ん、読書、小説とか読むかな。私、西加奈子って作家さんが大好きで、よく読んでるんだぁ。」

困った。私は一切小説を読まない。こういうときが一番困る。世の中の百円ショップは、洗うのが面倒なニセ便利グッズじゃなく、こういうときに役立つグッズを作ってくれ。と切に思った。

「へ、へえ~。西加奈子って、聞いたことあるよ。名前だけだけどね。」

「ほんと! 彼女のね、美しいひとって作品がとても面白くてね……」

 それから私はしばらく安住さんの小説談義を、冷やし中華と共に聞いていた。久しぶりに、こんなにも笑顔の安住さんを見て、心の奥底がポカポカするような嬉しさを感じた。好きなことを話す人の話は、分からなくても面白いんだな。いや、話す人が安住さんだから、面白いと感じるのかもしれない。「芽衣子、上機嫌だな。」錦糸卵もそう言っている。

「そういえば安住さん、お弁当自分で作ってるの?」

 安住さんは白い楕円形のお弁当箱を持っている。今日はきんぴらごぼうと唐揚げか。

「これ、お母さんがいつも作ってくれてるの。」

安住さんは恥ずかしそうにそう言うと、

「でも、いつも課長に怒られるから、仕事終わりに公園で食べるんだけどね。」

 と悲しそうに笑った。「あ、ごめんね、湿っぽい話しちゃって。」「ううん。大丈夫だよ。」何気ない会話が、昼の気温を一層心地いいものに変える。

 公園では、サッカーをして遊んでいる男の子たちが、楽しそうに笑いあっていた。その横で、同年代くらいの男の子が、お母さんと一緒に砂をいじっている。

「あれ、芽衣子ちゃん?」

 後ろから声が聞こえた。振り向くと、愛子ちゃんたちがコンビニ袋をぶら下げていた。中には、新作のピスタチオのアイスが入っており、袋が汗をかいている。

「今日私のとこに来ないなって思ってたら、安住さんと昼ごはん食べてたの。」

 愛子ちゃんは私に笑顔でそう言った。一瞬、しまった、と、首筋が震え、視界が揺らいだ。美沙ちゃんと茉莉ちゃんはクスクスと笑っている。なに、なになに、怖い。

「芽衣子ちゃん、最近できたテリマってバリ料理のお店知ってる?今日美沙と茉莉と行こうって話してたんだけど、芽衣子ちゃんも一緒に行こうよ。」

三人ともニヤリとこちらを見ている。でも、これはなにか、チャンスなんじゃないのか?私はみんなと仲良くしたいし、別に愛子ちゃんたちのこと、嫌い、ではないし……、断る理由も、うまいこと思いつかない。

「芽衣子さん行きましょうよぉ~~。」

茉莉ちゃんが袋を両手でプラプラさせながら言う。

「うん。いく! ありがとう!」

愛子ちゃんたちはにこにこ会社に戻っていった。遠くで茉莉ちゃんの、それはうける~、という声が聞こえて、少し不安になった。「本当に、行ってよかったのかな。」うるせえ、錦糸卵。




 テリマは水色を基調としたエスニックな内装で、生臭い香辛料のような、独特の香りがしていた。店内に人はまばらだったから、私たちは窓際の席に陣取った。私は廊下側。隣には愛子ちゃん。

「なににする~」「何かわからないものがいっぱいあるよ~」「え~これおいしそうじゃない」「わたしもそれ思った~」

 みんなバリ料理に夢中だが、私はみんなとうまくしゃべれるか気が気ではない。無意識に、人差し指の爪で親指の爪を、カリカリいじってしまう。

「わたしこれに決ーめたっ。」

 茉莉ちゃんがナシゴレンと、サテというバリ島の焼き鳥みたいなやつのセットを指さした。茉莉ちゃんは意外とこういう時、決断が速い。しかも手堅いものを頼む。

結局、美沙ちゃんはミーアヤムという鶏肉と青野菜の麺を、愛子ちゃんはルンダンという羊肉のココナツスパイス煮込みのセットを、私はミーゴレンのセットを頼んだ。どれもサラダとスープがついてくるらしい。

「うわあ~おいしそぉ~!」

 茉莉ちゃんはその愛らしい顔で、料理の写真を撮っている。「え~ハッシュタグどうしようかなぁ~。」この、ちっちゃい“あ”が、茉莉ちゃんを茉莉ちゃんたらしめるポイントだ。この、“あ”に限らず、茉莉ちゃんは母音なら、何でも小さくしてしまう。「芽衣子さんってぇ、インスタとかあんまりやらないんですかぁ?」うるせえ。

「そういえば、今度この辺で花火大会あるじゃん。あれみんないくの?」

 美沙ちゃんが野菜大盛の麺を、すすらずぱくぱく食べている。

「私はたぶんいかないかな~、一緒に行く彼氏もいないしさ~。」

私がそう言うと愛子ちゃんがピクリと反応した。なんだ? それに構わず茉莉ちゃんが口を開く。

「芽衣子さんも彼氏いない歴長いですよね~、モテそうなのにぃ~。」

いや、そんなことないよ~、と言おうとした瞬間、愛子ちゃんが笑顔で口を開いた。

「美沙、茉莉、トイレ行こぉ。」

え? なになに? どうして? 

「あ、じゃあ私も……」

私がそう言った瞬間

「あ、芽衣子ちゃんはちょっと待ってて。」

と、愛子ちゃんが立ち上がる。美沙ちゃんと茉莉ちゃんも少し不思議そうに立ち上がった。身体が一気に冷え、心臓が委縮する。怖い怖い怖い、なになになに。

 私一人だけなのに、テーブルの上には大量の料理。ああ、落ち着かない。確かに愛子ちゃんは今日おかしかった。いつもならもっと喋るのに、スマホをいじっている時間が長い。いや、愛子ちゃんが、というか、あの二人も。このディナーに誘われた時だって、愛子ちゃんの後ろで二人は少しにやにやしながら、小声で何かを話していたし、私が、「一緒に行く彼氏もいないしさ~。」と言った瞬間反応した愛子ちゃんを、茉莉ちゃんは気づいていなかったけど、美沙ちゃんは愛子ちゃんの反応を見た瞬間、少し笑った……。でも、今はそんなことどうだっていい。なにかの間違いでも、勘違いでも、今、あの三人はトイレで私の悪口を言っているかもしれない。やめろ、芽衣子やめろ。深く考えるな。大丈夫。心にいつでも王子様。

「ただいま~。」

 愛子ちゃんたちが帰ってきた。




「ていうか花火ってそんなにいいものですかぁ~? 蚊に刺されるし人も多いし、すごいむしむしするじゃないですかぁ~。」

「え~、でも大輪の花が夜空に咲くのよ! そんな一年に一回あるかないかの素敵な日に、素敵な男の人と一緒に過ごせるなんて、すごいロマンチックじゃない?」

「私、線香花火のほうが好きなんですよねぇー。なんていうか、風流で儚くてぇ~、二人だけの時間? みたいなぁ。」

 意外だった。驚くほどいつもの会話だ。美沙ちゃんと茉莉ちゃんが、“日本の美をわかっているロマンチックな私”対、“はんなり上品な一面もある私”をしていて、愛子ちゃんは会話に入ったり、スマホをいじったりしている。じゃあ、あのトイレは何だったのだ。ほんとにトイレに行っただけなのか?

「じゃあそろそろ帰ろっか。」

 そう言った愛子ちゃんのスマホ画面が、チラリと見えた。誰かとラインのやりとり、かわいいクマの有料スタンプ。




 今日は色々疲れた。結局最後までみんないつも通り普通だったし、ていうか、トイレに行ってから、“普通”になった。でも、まあいいか。と思う。今日は無事に帰ってこれたし、私はこれから予定がある。

 家の鍵をバッグから探して開ける。すぐに電気をつけて、すべての服を脱ぎ捨てる。ドレッサーの前に立つと、スポティファイに、ラムのラブソング、と打ち込む。


♪ あんまりソワソワしないで あなたはいつでもキョロキョロ


鏡の中の自分は、薄幸な顔つきをしているが、それでも今日はいつもより少し口角が上がっていた。「かわいいは作れる!」と、自分に言い聞かせ、よし、と、気合を入れる

 まず、アナ・スイのアイカラーを、シャンパンゴールド、パープル、スカイブルーの順に塗り、アイライナーを少し長めに引き直す。


♪ よそ見をするのはやめてよ 私は誰より一番


 ポールアンドジョーの“おてんば娘”なる名前のチークを頬に重ね、ディオールの真っ赤なリップを唇にのせると、昼間の私とは明らかに別の顔をした誰かが、鏡の前でにやりと笑った。

 私の家、このしがないワンルームには、それに似合わずトルソーがたくさんある。それは母が服のデザイナーをやっていた関係で、引越す時にいくつかもらってきたものだ。そこから、ピンクの花柄ワンピース、黄色のカーディガンを着て、オリエンタル調の金と紫のネックレス、スカーフ柄のヘアターバンを巻き、大きい金のフープイヤリングをつける。昔おしゃれに凝っていた時分の産物だ。これで準備は完了。


♪ 好きよ…… 好きよ…… 好きよ…… いちばん好きよ1


 今日は私がキャサリンさんになるための大事な初日。これから、着替えた勢いそのままで夜の街絵飛び出すのだ。手始めにそうだ、うちの近くにできた、安いと話題のバーへ行こう。私はここから変身する。さなぎから出て、蝶になるのだ。

「いちばんっ好っきよ~~。」




 明らかに昭和に建てられたようなバブリーさが香る商業ビルの五階まで上がると、イエーガーのシカのエンブレムが貼られた、黒く分厚いドアが現れた。家を飛び出した瞬間から、もう別人だと自分に言い聞かせていたが、やはり緊張する。手のひらがじっとりと湿っており、ごまかすためにこぶしを握った。大丈夫だ。私はここから変わるんだ。弱い自分に勝ち、キャサリンのような強く美しい人になるんだ。金色のドアノブに手をかけ、いざ、中に入る。

「いらっしゃいませー。」

 私は背筋を伸ばし、こなれた足つきでカウンター席に座った。店員は黒髪マッシュの男性と、左の髪を耳にかけたチャラそうな眼鏡の男性の二人。どっちも二十代前半っぽくイケメンだ。暗めの店内が落ち着く。やはり私は暗いところが好きなのだ。客はほかにテーブル席に、ザ・今風の若者という感じの男女三人と、私の二つ隣の席に、アンクルージュのピンクのブラウスに、夢展望で買ったような黒の膝上スカートを履いた、黒髪セミロングの地雷系大学生っぽい女の子が座っているだけだった。女の子はうつむきがちにスマホを眺めて、ビールを飲んでいる。よく見ると手首には無数のリスカ跡がある。

「メニューこちらからお選びください。」

 渡されたメニューを開いてみると、おびただしい数のカクテルが書いてあった。でも、こういう店には何度か来たことがある。とりあえずジントニックとオリーブを頼んだ。

 紙のコースターに乗ってきたそれを一口飲むと、爽やかなジンの風味と、トニックウォーターの炭酸が涼しげで、とてもおいしかった。これだけで、今日はここにきて正解だったな、と感じてしまうから、私は案外単純なのかもしれない。

 しばらくお酒を飲んでいると、横からすすり泣く声が聞こえてきた。見ると、リスカ女子が、リスカ跡を搔きながら、カウンターに突っ伏すようにして泣いていた。私は、かわいそう、とか、なんで泣いているんだろう、とは思わなかった。

 私は今、試されている。ああ、どうしよう。何か力になってあげたいし、キャサリンさんならここで迷わず立ち上がるだろう。でも、私が行ったところで、何ができるのだろうか。野次馬根性丸出しの偽善者と思われるのが、関の山なのではないか。黒くネチョネチョとした思考が、私の脳に絡みつく。ああ、でも、ここで動かなければ、一生私は私のままだ。また私の保身を優先するのか、芽衣子。話しかけてあげよう。おせっかいかなとか、余計なお世話かなとか、もう、いいじゃないか。今現に、女の子が隣で泣いているのだ。話くらい聞いてあげよう。変わるんだ芽衣子。私はキャサリンだ。

「大丈夫?」

 私はその子の隣へ座り、できるだけ優しい声色で話しかけた。その子は、はっとした顔をして、「あ、すみません……。」と鼻をすすった。まだ腕を掻いている。私はそっとその子の腕に手をあて、「何か飲む?おごるわよ。」と聞いた。

「じゃあ……、芋焼酎ロックで。」

 私も同じものを頼むと、彼女は、「わたし、彼氏に、捨てられたんです……。」と話し始めた。

「わたし、ねこみって名前で歌舞伎町のコンカフェで働いてて、人気はないんですけど。そこで知り合ったのが……、元カレのレオくんで。ホストだったんです。」

 ねこみちゃんはレオくんのことを元カレと呼ぶとき、少し詰まった。飼い主を失った子犬のようにうつむく。

「レオくんと出会ったのは、お母さんが家に彼氏を連れてくるようになって、店も家も居心地悪くて限界だったとき。たまたまわたしのお店に来たんです。わたしはその時、ああ、またほかの子のお客さんになるんだろうな、わたしなんかが新規さんといっぱい喋っても、迷惑なだけだろうなって思って、レオくんの席にはあまりつかないようにしていたんです。でもレオくんは、『ねこみちゃんともっと喋りたいな』って言ってくれて、わたしが、『うそばっかり』って笑ってごまかすと、まじめな顔して……、ううん、って……、それから、『チェキ撮ろ』って、言ってくれて、最後……、店を出るとき……、『ねこみちゃんとは、またこれからも、会う気がする。これからずっと、ふたり一緒にいる気がする。』……、って……。」

 ねこみちゃんはまた泣き出してしまった。その涙は、純粋で、かなしみの成分以外、なんのまざりっけもない、透明色をしていた。私はなんて声を掛けたらいいのか、わからなかったから、そっと、彼女を抱きしめた。透明色のかなしみが、ワンピースに染み込んでいく感覚が分かると、なぜか無性に彼女が愛おしくなった。

「一緒に動物園も水族館も、京都にも行くって約束したのに……!」

 彼女はまた、大粒の涙を流した。

 ねこみちゃんと付き合ってからレオくんは、彼女を店に頻繁に呼ぶようになった。「今月売り上げヤバいから」と、ねこみちゃんは毎月お金を貯めて、レオくんにシャンパンを下した。ねこみちゃんが、「お店以外であまり会えないし、助けるのももう無理」と言うと、レオくんは「売り上げがヤバいのはねこみちゃん以外と店外してないからだし、ねこみちゃんと会ってからは、枕も色恋営業もしてないから」とはぐらかされた。

 サンシャイン水族館に行く約束をしていた日、ねこみちゃんは朝早くから化粧をし、服を一時間近く悩み、お弁当を作ってレオくんの家に向かった。でもレオくんはその日とても病んでいて、「今日、行くのやめよう……」って。そのままねこみちゃんは玄関で泣き、「わかった。」と言った。お弁当は、一人で食べた。それでも、ねこみちゃんはレオくんのことが大好きだった。宇宙で一番、愛していた。




「わたし、もう死んだほうがいいですよね。」

 ねこみちゃんは少し落ち着いて、私にそう言った。リスカの跡を指でさらさらとなぞっていた。

「ううん。ねこみちゃんは何も悪くないよ。死にたいなんて言わないで。」

彼女はあきらめたような口ぶりで、

「でも、ほんとに死にたいんです。わたしバカだから、これから先幸せになんかなれないし、やっぱり、レオくんのことが今でも、忘れられないんです。」

と言った。

「私も昔、同じようなことあったよ。彼はバンドマンで、世界で一番かっこいいと思っていたし、世界で一番かわいいとも思っていたし、そんな世界には、彼しか男の人はいないと思ってた。でも、だんだん彼の気持ちが私から、離れていくのが分かって、彼はもう、私の身体にしか、興味がないんじゃないかと、思うようになった。そのときは死にたかったし、彼の家から、泣きながら荷物をまとめた日のことは、今でも覚えてる。でも、今になって、死ななくてよかった、散々な恋愛だったけど、彼と出会えて、付き合って、よかったなと思ってるよ。あの時流した涙は、私の生きた証なんだよ。つらいことも楽しいことも、それらが思い出になったとき、生きた証になって、いつか私たちを助けてくれるんだよ。今は死ぬほどつらいけど、その思い出は、あの時の涙は、この世でいちばん綺麗な、宝石になるんだよ。」

 だから、もうすこし、あと一歩、前向きに生きてみて、と、ねこみちゃんに言うと、彼女は泣きながら、私に抱きついた。服に染み込む彼女の涙は、もう、かなしみだけの透明では、なくなっていた。ほのかに暖かく、ゆっくりと染み込んでくるそれは、彼女の悲痛な叫びと共に、子どものように無邪気な暖色を感じさせた。もう二度と、この子がつらい思いをしませんように。私はひそかにそう願った。




 暗めの店内にビールのサーバーが音を立て、黄緑のネオンが店を彩る。帰り際、「じゃあね」と席を立って、バーの分厚いドアを開けようとすると、ねこみちゃんは、

「そういえば、お名前……、」

と言った。振り返ると、顔にネオンの黄緑があたる。

「ん~、キャサリンよ。またね、ねこみちゃん。」





 ある日、いつものようにふたりで、シングルベッドで寝ていると、彼はとても言いにくそうに、

「やっぱり……、別々で、暮らそう。」

と言った。私はその瞬間、驚きも、目の前が真っ暗にも、ならなかった。ああ、とうとう来たか。と、冷静に、ただただ、涙があふれた。この家で、ふたりで毎日夜遅くまでゲームしたこと、よく近くのドン・キホーテに、お酒とおつまみを買いに行ったこと、いろいろあったなあ。と、記憶が走馬灯のように流れ、涙があふれて止まらなかった。こうやって、ふたりで同じ天井を見つめることも、キッチンで笑いあうことも、もう、無いんだ。楽しかったなあ。本当に、楽しかった。

 私は彼のその言葉を聞いたあと、黙ってキスをした。覆いかぶさるように。これが最後のキスで、私が今まで彼を好きだったぶんだけ、めいっぱいキスをした。涙があふれてしょうがなくて、気づくと彼も泣いていて、ふたり何も言わないまま、号泣しながら、キスをした。

 私は水戸芽衣子。二十五歳。また来週。

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