三話:篠突く雨は嘆く
計画実行の夜が告げた。
雨が凄まじい勢いでガラス窓に打ちつけられ続けられる。その音はまるで剣で突かれるように響いて、憤っているような凄まじい雨だ。
紅は雨でも夜になれば外出するのが判明した。だが前みたいに兵士を気絶させて鍵を拝借する手はもう使えない。以前それをやったせいで噂され、巡回が二人一組になったからである。
しかし、どっちみち国を裏切る事になる以上はどのような手段でも関係ない。レフィシアは改めて深く静かに深呼吸を行う。
自分の全てが変わる、勇気の一歩が始まろうとしている。
兵士の巡回ルートを全て把握。兵士二人がやってきた所を——一気に距離を詰めて、背を斬った。
急所ではないが傷は深く、どくどくと溢れる血を流しながら兵士二人はうつ伏せに倒れ込む。急いで兵士の懐からピンポイントで地下室の鍵を探し当てて、一気に通路を駆け抜けた。
以降の手順は恐ろしく感じるほどにとてもスムーズで、レフィシアはさぞ当たり前のように鍵を開けて階段を下る。
突き当たりを左。更に進む。
警戒しながら、迅速に。
——居た。
あの時の王女の姿は変わらない。ただ一つ言うとするならば、レフィシアが檻の前にやってきた時にピクリと身体が引きつった事だろう。
レフィシアはすらりと剣を鞘から抜いて、剣身に魔力を一点集中。以前見た時に檻の鍵が見つからなかったので、こうなったら壊すしかない。
身体の一部に魔力を集中させれば、その箇所を強化出来る。勿論武器も例外ではない。レフィシアほどの実力者であれば、剣一振りで城壁をも容易く壊せる。
剣を横に一閃すると、檻の棒が金属音を鳴らし続けながら崩壊した。そのまま王女の四肢を拘束しているものも全て斬り終わると、力無く倒れ込もうとする王女。レフィシアは手に握っていた剣を咄嗟に後方に投げ捨て、前から受け止めた。
とくん、とくん。
王女の心臓の音が、弱くも動き伝わってくるような気がした。
「とりあえず、まずは早くここから出なきゃ」
王女が無事なのは嬉しい事だが、安心して終わりではない。そのまま王女を抱きかかえようとして——きゅっと胸元を緩く掴まれた。
王女が顔を上げてレフィシアの顔を見上げる。ワインレッドより少し明るめの眼は虚ろになりながらもレフィシアのラベンダーの眼を捉えた。
「なん、で。私を……」
「もしかしたら俺は、罪悪感から逃れたいだけなのかも知れない。でも、自分がこうするべきだと思った事からは、逃げたくないんだよ」
改めて王女を抱き抱える。幸いにも王女の体重は思ったよりも軽いが、両腕で抱えれば剣が持てない。
「ごめん。不敬になると思うけど、許してね。両腕をしっかり回して。振り解けないように」
先に謝っておいて、左腕を王女の太腿に回す。言われるがままに王女も両腕を回してレフィシアの右肩まわりを掴んだ。そのまま左腕だけで王女を持ち上げる。
そこまで変わらぬ年頃の女性をこのように扱う様が初めてだが、やはり動揺している暇などは無い。
放り投げた剣を右手に取ると、後は走る、走る、走る。
その間、振り落とされないように必死にしがみついている王女は、ぎゅっと眼を瞑っていた。
階段を上り終わり地下室を出た瞬間、通路の灯りが引っ切りなしに点灯する。先程まで闇のように暗い地下室に居たレフィシアは僅か一瞬、今まで数十年間居た王女はそれ以上に眼が眩んだ。
左右両サイドから兵士達が武装して走ってくる様からレフィシアはすぐ様逃げ道を探すが、他の道など存在しない。
こうなれば——突っ切るしかないだろう。
「王女。あの包囲網を一気に突っ切るよ。俺の速度は常人より速いから、ちゃんと捕まってて」
「……ん」
促すと、王女は一層レフィシアに強く捕まった。それをレフィシアは横目で確認して、脚に魔力を集中させた。
右側の通路を抜けた先に、人二人は余裕で出入りできる大きさの巨大な窓ガラスが存在する。入口を目指すよりもそちらの方が距離が短い。狙うとすればあそこだ。
向かってくる弓矢の攻撃を真っ直ぐに駆け抜けながら避けて、兵士達の密集する僅かな隙間から——一気に第一陣を抜く。
そのままの状態で一気に抜ける。
巨大な窓ガラスが見えてきた所から、止まらず真っ直ぐに向かっていく様に王女も何をするのかハッキリと認知出来た。三度、眼を瞑り、一層レフィシアにしがみついた。
レフィシアは剣身に魔力を集中させ、窓ガラスを割った、同時に、そこから潜り抜ける。
城壁もかなり高く、そして硬度も硬く作られている。だが——中央国の最高戦力、中央四将であったレフィシアには全くもって通用しない。たった一振り。魔力集中させた状態の剣を振るえば、直ぐにぼろぼろと鈍い音を立てて崩れた。
後ろで追いかけてくる兵士には一切目をくれず、更にそこから城の敷地を抜ける。
無事兵達は撒いたが激しく強い豪雨は未だに衰えず、季節が春とはいえ気温は著しく下がっている。
レフィシアは常時走り回っているのと、日頃鍛えているので全く無縁の話だ。しかし王女は別。何せ着ている衣服もそう厚い生地ではない。ワンピースも袖のないノースリーブのタイプ。おまけに裸足なのだから寒くて当たり前だ。
一刻も早く宿を取りたいのは山々だったが首都を出なければ追手がすぐに来る。雨のせいで視界が悪い中で狭い路地を抜けると、人の気配を感じて右手に持つ剣を構えた。
「殿下、殿下じゃないか!」
「……あ、ああ。えっと、シーザーさん。お久しぶりです。すみません。今は急いでいて」
「いやいやいや。この雨は辛い。特にそこのお嬢さんが。事情は聴きませんし言いませんよ。事情聴取されても〝十代の男女が泊まりに来た〟としかね」
シーザー。この中央国首都リゼルトで宿屋を営む中年男性だ。以前レフィシア率いる小隊はシーザーの宿屋に世話になっており、宿泊していた。この殺伐とした雰囲気を持つ首都リゼルトにしては珍しく王族に対して怯えもせず宿屋としての誇りを貫き通している人当たりのよい人物だ。一度しか会った事がないというのに名前と顔を覚えられたというのにも驚いたが、彼の配慮には胸が熱くなり涙が目に溢れそうになる。
巻き込んでしまう事に対しては頭を下げるしかないが、王女のことを考えるとここは甘えるとしようと思う。首を縦に振り、シーザーの左手に持つ予備傘を受け取った。
宿屋に到着し、ようやく豪雨から解放される。温かな室内はひと息つける程度の開放感を得られた。
宿屋には正面では無く裏口から入る。他の客に姿を見られないようにする為だが、最も客も今ではベッドに寝転び夢の中だろう。
廊下を少し歩くと一つの部屋にたどり着く。設備の整ったキッチンと食事を行う為の木のテーブルと椅子。それから寛ぐ為の深緑色のソファーが数点。
一階は正面が宿の受付、裏が家庭のリビング。二階は全て自らの家庭で使用する部屋。客室は三階から五階だ。正面入口からは一階、三階、四階、五階しか繋がっておらず、二階には出入りする扉すらない。
逆もしかりで、裏口には一階と二階が繋がる階段こそあれど三階から上には登れない。そういった仕組みでこの建物は成立していた。
「おじいちゃん!おかえ——うわああっ」
「こら、アデーレ。大声を出すんじゃない」
アデーレ、と呼ばれたのはおおよそ二十代前半の茶の髪を上にひとつ結びした女性。キッチンで手際よく米を炒めていた最中に目に映った人物に対して、大袈裟な声と反応を示した。
それもその筈。こんな深夜に、しかも裏口から、何も知らされずに王弟殿下が来たら誰だってそうなる。
ジュワワ、と焼かれながら放置されている米にようやく我に帰ったアデーレは慌てた手つきで炒める。そんなアデーレを見兼ねたシーザーが隣までやってきてアデーレの右手に持つ木べらを引ったくった。
「わしが作っておく。アデーレ。殿下とお嬢さんの替えの衣服を見繕え。殿下とお嬢さんは風呂にでも入って温まるとよい」
「りょーかい! さ。殿下。それからそちらの子も。案内します」
「あ、あの……」
話を切り出すタイミングが掴めずにいたが、ようやく今ここだと思った王女が小さく手を上げた。
「私、お風呂に入るの、多分、久しぶりで……その……」
「え? そうなの?」
「詳しい事情は余計に巻き込むから教えられないけど、多分結構そういう環境にあったと思う」
「……分かりました。それじゃあ私が手伝わせて頂きますね。最初に殿下が入られますか?」
「いや、俺は後でいいよ。先におう……その子を入れてあげて」
「畏まりました」
ようやくレフィシアは王女を下ろして左腕が自由となる。ただその問題の王女は未だにレフィシアから離れようとはしない。瞳が揺れているのを確認できて、それがアデーレに対する警戒と不安からきているものだとレフィシアは理解した。
「大丈夫。ここには君を、君という人の存在を否定する人物はいないよ。痛い事、酷い事、辛い事もない」
レフィシアは王女を引き寄せると、その背に両腕を回して、右手で壊れ物を扱うかのように王女の背を優しくさすった。
大丈夫だから。
その言葉を繰り返す。
王女は気が抜けたのか、両腕をレフィシアから離したと同時に力なく廊下に座り込んでしまった。それをアデーレが苦笑しながらも起き上がるのに手を貸す。
二人の後ろ姿を見守った所でレフィシアはシーザーの待つテーブルに戻ると、いつの間にか火属性の魔法付与が施された空間に満ちていた。
暖房の代わりとなって温かい。
ほんのりキッチンから米に何らかの味付けをされたのか、とても香ばしい匂いが漂ってくる。
食欲をそそられる中で深緑色のソファーに座り身体を横にした。いくらレフィシアといえどやはり人の子。疲れない筈がない。
いや、無意識のうちに精神的疲労が体力の疲労にまで及んでいたのだろう。ずっと誰にも気づかれないように計画を練りに練り上げてきた。まだその途中にすぎないが、第一段階が終わった事でも抜けの殻のようにぐったりとしてレフィシアは天を仰ぐ。
いつもなら日常茶飯事な光魔法の魔法付与が施された灯りも、今は一層眩しさを感じて思わず眼を細めた。
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