44.かさぶた

かび臭い匂いが鼻につき、意識がゆらりと浮上する。

身体が強張っている感覚に、身動きをとろうとして、お腹と手首に痛みを感じ、一気に意識が覚醒した。

目を開いても薄暗く、周りがよく見えない。

何度か瞬きをして、ようやく暗さにも慣れ、周りを見回す。


石造りの部屋に幾つもの棚が並ぶ、窓もない小部屋のようだ。

入口らしき方向にぼんやりとした明かりが見える。

部屋はひんやりとしていて、目を凝らせば棚には瓶がいくつも寝かされているのが見える。

恐らく地下に作られたワインセラーなのだろう。

その一番奥、壁際に無造作に敷かれた布の上に、私は手首を縛られ転がされていた。


体の前で縛られた手をつき、なんとか体を起こす。

見回し、耳を澄ます限りでは、今ここには他に人はいないようだ。

壁に背を預け、今の自分の状況について考えてみる。


たしか、男2人に無理矢理馬車に乗せられて、お腹を殴られて…。


考えて、ぶるりと身震いする。


攫われたんだ──。

でも、今更私を攫っても利用価値なんか…。

だとすれば私…殺されるの?


もうそれ以上を考えるのが怖くて、私はきつく目を閉じ、唇を噛みしめた。


「…ジェイク……」


涙が零れそうになるのをぐっと堪えて、目を開ける。

今、ここには誰もいない。

拘束されているのは手だけ。

それなら──。


私は床に手をつき、膝を立て、ふらつきながらなんとか立ち上がる。

人の気配がないか探りながら、ゆっくりと明かりの方へ近づいてみる。

やはり入口らしき扉の横に、一つだけ小さな明かりが灯っていた。


明かりの下で縛られている手元を確認してみる。

なんとか解けそうにないか確認してみるけれど、かなりきつく縛られているようで、手をよじっても、口を使っても解けそうになかった。


私は手の拘束を解くのは諦め、今度は扉の外に意識を集中して物音がしないのを確認してから、扉に手をかける。


ガチャ。


小さな音が響くけれど、扉は固く口を閉ざしたまま、開いてはくれなかった。

「……はぁ…。そうよね。鍵もかけずに1人で転がしておいたりしないわよね」

諦めにも似たため息が出る。


結局、誰かが助けに来てくれるか、犯人が次の行動に移すのを待つしかない。

……助けに…か。

ふぅっと大きなため息が出る。


私は仕方なく、元いた場所へ戻りもう一度座り込んだ。


考えてはいけない。

そう思うけれど、思考が悪い方向へばかり向かっていく。


昨日の時点で、イアンを含み多くの危険因子は拘束された。

今私を拘束している人間が誰なのかは分からないけれど、もうそれほどの人数が残っているとも思えない。

今更私を攫ったところで、交渉材料にもならないし、私を殺したところでまた行動を起こせるほどの組織力も残っていないんじゃないのかな。


だとすれば、私を助ける必要性も感じないし。

そもそも私が攫われたことに気付いてくれる人がいるのか…。


「…ジェイク……」


もう一度会いたかった。

想いだけでも伝えたかった。


今、ここに迫りくる人間がいない分、妙に気持ちは落ち着いている。

ぼんやりと拘束された手に視線を落とし、考えに沈む。


「──お前たちは庭の方を探せ!」


唐突に、ガヤガヤとした騒めきと、誰かの声が聞こえてきて私は顔を上げ、入口の方へ目を向けた。

聞いたことのない声。

犯人のものかと思い、身を強張らせる。


せめて抵抗しやすいようにと、壁を背にしてもう一度立ち上がる。


ガチャガチャッ──


扉を開けようとする音が響くけれど、開いた様子はない。

一瞬音が静まり、次の瞬間───。


ドゴォッ、バンッ──


凄い音が響いた。

音に驚いて、ビクッと肩が跳ねる。


どうしよう。

扉が開いたのなら、今なら逃げ出せる…?


躊躇っている一瞬の内に、カツン、カツンと大股の足音が近づいてくる。


私は物音を立てないように、そぉっとその場から移動する。

足音が聞こえる方向とは違う方向の棚に身を隠す。

私が身を隠してすぐに、先程まで私がいた場所に人影が立つ。

私は息を殺し、覗かせていた上体を引き、完全に棚に隠れた。


なのに。次の瞬間、私は腕を取られ、顎を引かれ顔を上向かされていた。


「連れ去られたお嬢さんですね?お怪我はありませんか?」


覗き込んでくる顔に、敵意や威圧感はない。

上手く隠れたつもりだったのに、突然腕を掴まれた恐怖にビクッと震えたけれど、訊ねる声も落ち着いた声音で、私は素直に「…はい」と返事を返した。


その瞬間に「失礼しました」と言って、腕と顎にかかっていた手が放される。

すぐに手の拘束を解きながら彼は自分の身分を明かしてくれた。


「騎士団の5番隊隊長、アイザック・シェリンガムと申します。貴方を連れ去った者は既に捕らえました。安全な場所までお送りします」


その言葉に安心して膝から力が抜け、その場に崩れ落ちそうになる。

それをアイザック隊長がすかさず支えてくださり、私はなんとか彼へとお礼を返した。

「…ありがとうございます」



アイザック隊長に手を引かれ、閉じ込められていた部屋から出た私は、屋敷の外へ向かって歩いていた。

閉じ込められていた部屋はやはり地下にあるワインセラーだったらしい。

屋敷は大きくはないけれど、綺麗に整えられていて、調度品などを見る限り貴族屋敷であることには違いないらしい。

玄関先まで歩いて行くと、がなり立てている声が響いてくる。

声の方へ視線を向けると、幾人もの騎士の姿が見え、その中を引きずられるようにして歩く男の姿があった。

貴族らしい装いをしたその男はパーティーで見たあの男だった。


呆然と男の方を見ていた私に、何事か喚いていた男の視線が触れた。

その瞬間───。

男は後ろ手に拘束された状態でありながら、騎士を振り切る勢いで私の方へ突き進んできた。


「───お前がっ!お前さえいなければ!お前のような存在はこの世に必要ない!なぜ私が捕まらなければならない?!消えるべきはお前だ!!」


吐き捨てるような勢いで私に向かって暴言を吐き続ける。


お前さえいなければ───。

お前のような存在はこの世に必要ない───。


その言葉が私の頭へ、心へ響き、かさぶたを無理やり引きはがす。


お前のような屑、引き取ってやっただけでも有難く思え。

あんたなんて要らない子なのよ。

本当は引き取りたくなかったのに。

大金が手に入ると思ったのに、何の役にも立たない。

あんたも一緒に死ねばよかったのに───。


際限なく続く暴言が、頭の中に木霊する。

8年間毎日、朝起きてから、夜眠るまで、顔を見るたびに繰り返された言葉。


ああ…。そうか。

やっぱり私は存在していてはいけなかったのか───。


ここへ来て、生き直そうと決めて。

記憶の奥底にしまい込んで。

見ないふりをして。

優しい人たちに触れて。

なんとか前向きになろうと頑張ってきた。

何度も鎌首をもたげたこの思考を追い払ってきた。

ずっと…ずっと、見守ってくれている人がいたから。

けれど、もう───。


私はずるりとその場に崩れ落ちた。

手を引いてくれていたアイザック隊長が慌てて、私の向かいに屈み様子を窺ってくる。

「どうされました?!大丈夫ですか?」

耳には届いているのに、何を言われているのか理解できない。


ただ、胸が痛くて。苦しくて。

嗚咽がこみ上げて、息ができないほどに苦しくて。

掴むことのできない心臓を掴む代わりのように、服の胸元を鷲掴んでうずくまった。


あの8年間で、すっかり失くしてしまったはずだった感情が蘇ってくる。


愛されたかった。

必要とされたかった。

たった1人でいいから───。

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