第54話 ふかく
「ひゃっ!」
海に足の先を入れた瞬間に飛び出した甘い声に周囲の男共の視線が一斉に
本人にその自覚はないようで無邪気に僕に微笑みかける。
「
「周りの人に掛かったら迷惑だからやめようね」
水着だから別に濡れるのは問題ない。ただ、それがきっかけで変ないちゃもんを付けられてトラブルが起こると困るからだ。
特に
海をしっかり楽しみつつもトラブルを未然に防ぐのも彼氏の役目だ。
「あと準備運動も。一応泳げるけど、溺れる
「変にカッコつけずに素直なところが好きだぞ」
「い、いいから。ほら、屈伸から」
勢いよくしゃがむと
「あたしは浮き袋があるから平気だよ?」
「お、溺れたらどうなるかわからないだろ。ほら、バカなこと言ってないでちゃんと準備運動を」
「ねえねえ、どっちが深く潜れるか勝負しない? 浮き袋があっても潜るの得意なんだ」
「そんなに深いところに行ったら危なくない?」
泳げると言っても体育のプールの授業で一通りの泳法を習った程度で波のある海でちゃんと泳げる自信は本当にない。
なんなら海は足が着く場所で楽しむものだと思っていた。
「あはは。さすがにそんなところまで行かないって。でもさ、せっかく綺麗な海なんだし魚とか見たくない?」
「まあ、それは」
「でしょでしょ? 絶対危ないところには行かないから。
目をうるうるさせながらおねだりされて断れる彼氏がこの世にいるだろうか。いや、いない。
なんとなくゴーグルを持ってきておいてよかった。
「せーのっで潜って、相手よりも深く潜った方の勝ちね」
「罰ゲームはあるの?」
「やっぱり
「違うから!
「それじゃあ
「もちろんエッチなのはなしで」
「それ、あたしが言うセリフじゃない?」
「罰ゲームでなし崩し的にはイヤだし……」
「ふふ。かーわいい」
「い、いいから早く潜ろう。人が増えるとそれも難しそうだし」
「だね。さあて、
「そうやって油断してると足元救われるよ?」
「あー、冷たくて気持ちいい」
すでに勝った気でいる
だが、その油断が命取りだ。
泳ぐのは人並み程度だけど潜水に関しては特に言及していない。
そう、僕は潜るのが得意なんだ。
プールの底に落ちた碁石を集める遊びで大活躍したのは良い思い出だ。
それに
「おっ! この先から急に深そう?」
「ん-? ぷはっ! みたいだね。じゃあ、ここから同時に潜って相手より深かった方の勝ちで」
「オッケー。くれぐれも無理はしないように」
「わかってる。仁奈達にも迷惑かけちゃうしね」
子供じみた対決を挑む
勉強も運動もトップを走り続ける姉に挑み続けることはあれど、仁奈さんが恨んだり卑屈にならないのは
「それじゃあ一回勝負ね。準備はいい?」
「僕はいつでも。そうそう、最後に一つ言っておくk」
「せーのっ!」
武士の情けで潜水が得意なことを教えてあげようと思ったらそれをキャンセルするように戦いの火ぶたを切られてしまった。
不覚を取ってしまい潜るのが一瞬遅れてしまう。
でも、先にゴールするとかではなく、相手より深く潜る対決だからちょっと遅れてる方が有利なんだけどな……。
もしハンデのつもりでやっているのならそれは慢心というものだ。
段差のようになっている部分をどんどん潜っていく
一足先に潜った
「…………」
自分よりも深く潜れないと高を括っているのか
ゴーグルで目の表情は読み取れないものの満面の笑みを浮かべているのはわかる。それくらい頬が緩んでいた。
そんな彼女の笑顔に応えるように僕は手を振り返してさらに深く潜っていく。
お土産に貝の一つでも採ろうかとも考えたけど、あとで問題になっては困るので自重した。
勝負は僕の勝ちだ。ゆっくりと勝利の余韻に浸りながら太陽が照らす海面を目指す。
期末テストで一科目も勝てなかったし、剣道とバスケで種目も違うから対戦もできない。
潜水対決なんてこどもっぽい対決でも、全てに勝る彼女に勝てたという事実が想像以上に嬉しくて僕は周りを見失っていた。
「ん゛!?」
せっかくなので海中の景色を楽しみながら上昇していくと頭に何か柔らかいものが当たった。
もうすぐ空気を吸えると思っていただけにその衝撃は大きくて、鼻から海水が入り込む。
「
「げほっ! ……はぁ……なんとか」
隔てるのは水着一枚。今まで一番素肌同士のふれあいに近い。
「あんなところまで潜るからだよ」
「違うんだ。最後の最後に頭に何か当たって」
「……それ、あたしのおっぱい」
「は?」
「
「おっぱいに……ヘディング?」
「さすがにこんなに人が多いところだと恥ずかしいかな。
「は、はい」
本当は手を繋いで海を眺めたいだったんだけど、自分がやらかした変態行為を罰ゲームという形で消化してくれるのならそっちの方がありがたい。
「自分から
「違うんだ。そういう意図はなくて僕にとっても不意打ちだったというか」
「どさくさに紛れてハグしてるのにそういうこと言うんだ?」
「あ……」
「水の中だからって変なところ触っちゃダメだよ?」
「ご、ごめん。でもここで手を離すを危ないから足が着くところまで」
「ふふ。あたしを守ってくれるんだもんね。そういうことにしといてあげる」
「まさか初ハグがこんな形になるなんて……」
「あたしは嬉しいけどな。夏の海で初めてのハグ。ロマンチックじゃん」
「溺れかけた僕を
「そういうのでいいんだよ。ガチのロマンチックは照れくさいし」
「
「それよりも……」
「ん?」
「あ、ごめん。なんでもない」
頬を赤く染める彼女を見て、自分の体の状態がどんなものかを冷静に分析した。
上半身が密着しているということは、よほど頑張らない限りは下半身もくっつく。
「あの……ごめん」
鎮まれと念を送っても自分ではコントロールはできない。だから僕は素直に謝るしかなかった。
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