第29話 背中

「それではおじゃましました。とても綺麗な部屋で勉強に集中できました」


「ホントに帰っちゃうの? 夕飯うちで食べていけばいいのに」


 義理の兄妹ごっこに興じた時間もあったけど、基本的には真面目に勉強をして時が過ぎていった。

 同じレベルの学力同士でお互いの弱点を補いながら問題集を進めていくのは理解が深まった気がする。


「今日は母が張り切ってハンバーグを作っているみたいなのでお気持ちだけ頂いておきます」


「そう? 今度遊びに来る時は夕飯も食べていってね。帰りはうちの息子がしっかり送っていくから。ほら、ボーっとしてないであんたも靴を履く」


「あ、ああ。うん」


「大丈夫だよ。まだ明るいし。駅まで近いですし」


 暗に彼女を送っていけとメッセージを送る母さんと、やんわりとそれを断る仁奈になさん。

 本物の彼女なら迷わず送っていくけど、彼女の妹と二人きりで歩いているところを万が一にも知り合いに目撃されたら話がややこしくなる。


 ただ、やっぱり母親に逆らえるほど僕の権力は強くないわけで……。


「その油断がよくない。さあ、行こう」


「は、はい」


 いつまでも玄関で押し問答をしていたらボロが出るかもしれない。

 それならば一瞬の恥ずかしさに耐えて彼女をしっかり送り届ける立派な息子を演じる方がいい。


 しくも里奈りなが理想とする強引に手を引く男になってしまったのは運命のいたずらと思うことにしよう。


 一卵性の双子でも何から何まで同じというわけではない。根っこの部分がすごく似ていてもその表現方法が違うように、握ったその手は里奈りなよりも温かくて柔らかい。


 実は僕の家にやってきたのが妹のふりをした里奈りなという可能性に最後まで掛けていた。髪型なら誤魔化せるし、問題集だって借りればいい。


 でも、そんなことはなかった。

 初めて部屋に招いた女の子は彼女の妹で、こうして手を繋いでいるのも彼女の妹だ。


「ごめんね。手」


「ううん」


 玄関を出て数秒。さすがに外に出て息子の行動を監視するようなことはないはずなので咄嗟に掴んだ仁奈になさんの手を離した。


 時刻はもう18時近い。買い物帰りの主婦は夕飯の支度をしているだろうし、子供達も帰宅済み。

 ご近所さんに目撃されたら話がこじれてしまうので誰にも目撃されなかったのはとても助かった。


純浦すみうらくんって意外と大胆なんだね」


 クスクスと笑う仁奈になさんが僕に対して使う二人称が純浦すみうらくんに戻っていて胸を撫で下ろした。

 外でお義兄ちゃんなんて呼ばれているところを聞かれたら純浦すみうら家が崩壊するきっかけになりかねない。


「あの場をすぐに離れたかったんだよ。本物の彼女ならあんなに急いで家を出なかった」


「……もしかして怒ってる?」


「怒っては……ない。うん。それはない。仁奈になさんのおかげで勉強は捗ったし」


「よかった」


「でも、二度目は勘弁かな。いくら彼女の妹とは言え、二人きりは浮気みたいで罪悪感がある」


「つまり、純浦すみうらくんはわたしを恋愛対象として見ちゃってるんだ?」


「ちが……わなくはない。告白したくらいだしさ」


「うん。ごめんね。いじわるな聞き方しちゃって」


「…………」


「…………」


 人どころか車すらも通らないのを良いことに白線からはみ出して仁奈になさんの隣を歩く。

 手と手が絶対に触れ合わないくらいに距離を取って、少しずつ暗くなっていく道を無言で進んだ。


 何も横に並ぶ必要もない。僕が少し先を歩いて、仁奈になさんが付いてくる形なら僕らがクラスメイトで同じ部活だなんて誰も思わない。


 僕が歩調を早めれば万が一ご近所さんと遭遇しても何の疑惑をかけられないと頭ではわかっているのに、この微妙な距離感にスリルみたいなものを覚えていた。


「あっ!」


 駅まであと百メートルほど。この何とも言えない空気から解放されるまで残り一分くらいのタイミングで仁奈になさんが沈黙を破った。


「剣道の本。借りれば良かった」


「あー、そうだね。今から取って来ようか?」


「ううん。また今度借りるから平気」


「またうちで勉強するってこと?」


「さすがにそれはお姉ちゃんに悪いよ。だから学校以外の場所でこうやってまた二人で会える時に、ね?」


「それって浮気にならない?」


「ならないよ。だってわたしは純浦すみうらくんの彼女の妹なんだよ? お義兄ちゃん」


「外でその呼び方はやめて!」


 首をかしげながら上目遣いで放つお義兄ちゃん呼びは完璧に可愛いがゆえにあらぬ疑いを生みかねない。


 駅に近付いたこともあり何人か歩いている。パッと見た感じ知っている顔はいなかったら、このやりとりを見てもほとんどの人はただの兄妹だと勘違いしてくれるだろう。


 よーく聞くとその関係性がおかしいことに気付くかもしれないけど、高校生の他愛もない会話に聞き耳を立てるほど世の中の大人は暇じゃない。そう信じたい。


「わかった。外ではやめる」


「素直なんだけど素直じゃない!」


 室内で二人きりになったらこれからもお義兄ちゃん呼びをするということだ。

 まあ、これから仁奈になさんと二人きりになるシチュエーションなんて早々なんだろうけど。


 そういう甘い雰囲気は爽井さわいくんと楽しんでほしい。僕は里奈りなと満喫するからさ。


純浦すみうらくんっていじりがいがあって楽しいんだもん。さすがお姉ちゃんの彼氏」


「褒められてるの?」


「うん。お姉ちゃんの彼氏になれるのって、お姉ちゃんと同じくらい運動も勉強もできる人なのかなって思ってたんだけど、これが答えなんだって」


「遠回しに運動も勉強もパッとしないって言われてるみたいなんだけど?」


「そんなことないよ。わたしだって同じレベルだし。わたしが言いたいのは、釣り合いが取れるとか取れないって、所詮は他人が決めたことなんだなってこと」


「なんか、ありがと」


「どういたしまして?」


 仁奈になさんの言葉でなんとなく感じていた重圧が少し軽くなった気がした。

 高校生のうちは成績というわかりやすい指標のせいで釣り合いが取れているかを判断されがちだけど、それはあくまで周りの人が決めているだけ。


 里奈りなが僕を本物彼氏と認めてくれて、僕が里奈りなを本気で好きならそれでいい。


里奈りなさんの妹が仁奈になさんで良かったよ」


「どうしたの急に? わたしが義理の妹になるのがそんなに嬉しいの?」


「そういう意味じゃないんだよなあ」


 ニヤニヤと煽るような笑顔が本当に里奈りなに似ている。

 心に決めた彼女がいるのにうっかり恋心が再燃してしまいそうなくらいに魅力的で、改めて今の自分は里奈りなが好きなんだと実感する。


 だって、こんな表情を見るのは里奈りなと付き合い始めてからだから。


 この顔を好きになったのは里奈りなのおかげで、双子で同じ顔の仁奈になさんに対してそういう感情を抱きかけるのも仕方がない。


「剣道の本はまた連絡するよ。個人的には里奈りなさん経由で渡したい」


「わたしの前では無理しないで平気だよ。彼氏なら彼女の名前を呼び捨てにするのは普通なんだし」


「剣道の本はまた連絡するよ」


「呼び方については触れない構えなんだね。なるほど。あの本でそんなことも学べるのか」


「……」


 一人勝手に納得する仁奈になさんにツッコミを入れず僕は無言で手を振った。

 双海ふたみ姉妹には口で勝てない。

 

 迂闊なことを口走るより沈黙を貫けば引き分けくらいには持ち込める。


 ちょっと不満気に唇を尖らせながら仁奈になさんは駅の階段を上っていった。

 その後ろ姿は髪の長さの違いで全然似ていない。


 彼女以外の女の子と二人きりで過ごした。

 その事実が、ギュッと僕の心臓を掴んだ。

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