第15話 ののしられる

 最初に考えたのは、わき目もくれずただひたすらに逃げることだった。足の速さには自信がある。軍の訓練でも誰かに負けたことはない。本気で走れば身の軽さと足の速さに定評のあるハーフリングからでも、逃げ切れる可能性があるのではないだろうか。


 しかし単純な速さとは別に、ヴェラの発する気迫が問題だ。まるで猟犬に狙われている気分である。逃げても必ず見つけられて追い詰められる気がしてならない。


 そもそも、ヴェラはどうやってノエルを見つけたというのか。ノエルがここにいるのはオーエンと偶然遭遇し、ここまで引きずってきたからだ。予定には全くなかったことだし、オーエンと出会った場所によっては別の憲兵詰め所に行っていた可能性も十分あった。


「あー、どうしてここに?」


 状況も顧みず、疑問がそのままノエルの口をついて出てしまう。最初に口にするべきは謝罪あるいは弁解であるべきだったと気付いたのは、ヴェラのこめかみに青筋が浮いているのを見つけてからだった。


「教えたらへん。教えたら次に逃げた時、対策立てよるやろ」


 完全に信用を無くしている。そして完全に見抜かれている。ぐうの音も出ないとはこのことだ。


「まあ立ち話もなんやし、約束通りご飯でも食べよやないの。ウチ、ええお店知ってんねん」


 まるで何事もなかったかのような台詞を、地面の下から響くような声で言うヴェラ。そしてノエルの返事も待たずに手を力強く掴んで歩きだした。もちろんこめかみの青筋は消えていない。消えているわけがない。


 逆らうことを思いつきもせず、ノエルはヴェラに引っ張られていく。後にはぼろ雑巾となったオーエンが転がっているのみだった。




 ヴェラが選んだのは、商人が商談などでよく利用する店だった。酒も料理もそれなりに良い物が出るが、一番の売りは商談の秘密が漏れないように個室が用意されていることだ。


 四人掛けの小さな個室に入るとヴェラはノエルを一番奥まった席に座らせ、自分は対面ではなくノエルの隣に腰掛けた。これではヴェラの了解を得なければ席を立つこともできない。もちろん、ヴェラはそれを狙っているのだろう。


 ヴェラが注文した料理は多少高級なものではあったが、港町であるロンディニウムではありふれたものだった。一つ特色があるとすれば注文してから少し時間がかかる代わりに、一度に全て運ばれてくることくらいだろうか。商談を何度も中断させないための配慮なのだとか。今のノエルにはあまりありがたくない配慮である。


 ヴェラがノエルを逃がさないよう、また話に邪魔が入らないよう手配を着々と進めることは、そのままノエルにとっての精神的重圧プレッシャーとなっていた。そう、尋問は既に始まっている。


 このまま主導権をヴェラに渡したままではまずいと判断したノエルは、なるべく当たり障りのない話題を自分から切り出すことにした。


「事情聴取、随分早く終わったんですね」


「そらもう少しでも早う終わるように、知っとうことは全部素直に喋ってきたんよ。目ぇ離した隙にノエルがおらんようになるかもて思っとったしな? そしたら案の定やったわけやけど」


 ノエルが当たり障りのない話題だと思っていたものは、当たるし障る話題だったらしい。ヴェラの可愛らしい額にまた青筋が浮いている。怖くはないはずなのに迫力があって逆らえない。


 そしてどうやらノエルの行動は正確に見抜かれていたようだ。ヴェラに迷惑をかけるような行動ではなかったはずだが、ヴェラの纏う怒気によって後ろめたい気分にさせられてしまう。


「そ、そうでしたか」


 のっけから踏んではいけない場所を踏んだノエルは、この窮地を如何に脱するかを必死に考えた。


 もちろん物理的な脱出は現状かなり難しい。ヴェラの身体は軽いので力づくであればどうとでもできるが、そうするくらいなら先ほど見つかった時にどうにかしている。そもそもヴェラを傷つけたくないから姿を消そうとしていたのだ。ここで傷つけてしまっては本末転倒である。


「んで、ノエルからはなんか一言無いん?」


「その、申し訳ありませんでした」


 ヴェラから促されることで、ようやく謝罪の言葉を口にするノエル。だがヴェラの追及はここからが本番だった。くしゃくしゃになった置手紙をノエルに突きつけ、一気にまくしたてる。


「それはウチとの約束をすっぽかそうとしたことについて謝ってんの? それともこの言い訳と謝罪ばっかりで、事情がいっこも書いてへん置手紙について謝ってんの? どうせウチの前から消えようとしたことは悪いとは思てないんやろ? ウチとノエルは契約で繋がってるだけの仲やし、その契約も今日で終わり。ここでノエルがおらんようになっても、報酬を払わんで済むウチは得はしても損はせえへん。そやから急に消えても悪いことやない思てんねやろ?」


 問いかけているようで、実のところヴェラはノエルの答えなど求めていない。それは見ればわかる。わからないのはヴェラの感情だ。何に対してこうも怒りを燃やしているのか、それがノエルにはさっぱりわからない。


 ノエルの疑問を読み取ったのか、ヴェラは息のかかる距離まで顔を近づけ、絡みつくような声で言葉を重ねる。


「なあ考えてもみてえな。借金のせいでボロボロんなるまでこき使われて、それでも逃げられへんようになっとった女を助けたらどうなるか。それも借金をチャラにしただけやのうて、掠め取られてた分まで奪い返してくれたら、その女がどう思うか」


 それはヴェラにとっての真実だった。だがノエルにとってヴェラの不幸は八つ当たりの口実に過ぎない。だから八つ当たりのついでに救われたヴェラが、ノエルにどのような感情を抱くのかまでは考えが至っていなかったのだ。


「それだけやあれへん。ウチのことしつこう追い回しとった水夫長を簡単にあしろうて、最後にはボコボコにしてしもた。頭がええだけやのうて強いことまで見せつけてしもたんよ。そんなん見せられた女がどうなるか、ほんまにわかれへんの?」


 ヴェラの声に籠る感情が徐々に変質していく。怒りと同程度の熱量を持ちながら、より危険でいて甘美な感情へと。


 その変化自体には気付くノエルだが、その意味にはたどり着けなかった。それは今までのノエルにはあまりに遠い感情だったからだ。


「そのくせ初めて会うたときは魂抜けかけとったし、毎夜毎夜魘されとるし、寝かしつけてみたら無防備な寝顔見せてくるし、わざとやっとんかと思たでウチは」


 いつの間にかヴェラは椅子の上に膝立ちになっていた。ノエルより高い位置にある瞳が揺れている。その瞳に宿る感情の意味に、ようやくノエルが思い当たりそうになった、その時。


「そんなん、惚れるに決まっとるやんか。なんでわかれへんのよこのアホウ」


 ゆっくりと迫る唇が、一切の反論を封じ込めた。


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