第9話 まどろむ
宿に逗留すること7日、ヴェラの体調はずいぶんと改善していた。初日の夜こそ熱を出したものの、その後は順調に回復している。食事と休養をしっかり取ったことで、見た目にもその回復ぶりが表れていた。本人曰く「美少女に戻れた」とのことだが、いかにハーフリングと言えど20歳になって少女を名乗るのはいかがなものか。
その7日の間に、ノエルは着々とレアード海運に対する法廷闘争の準備を整えていた。既に調停局に訴状を提出しているので、今日にでも帝都に戻ってくる予定の『永遠の団結号』に通知が行くだろう。そこからお互いの都合が合えば、3日程度で調停の場が設けられることになる。なおこの期間を無駄に引きのばした場合は一方的にこちらの主張が通るので、無理な時間稼ぎは不可能だ。
ここまでくれば調停関係でノエルがやらなければならないことは特に残っていない。ヴェラが食べたいと要求した物を調達してくる程度である。それも晴れていればの話で、今日のように降りしきる雨の中、それでも買いに行くほどの使い走り根性は持ち合わせていない。
「ノエル、ヒマそやね」
「お互い様です」
寝台に腰掛け足をぶらぶらと振りながら、ノエルに話しかけるヴェラ。全身で暇であると訴えていた。見た目と仕草に違和感がないので、実は20歳だという事実を忘れそうになる。本人も含めて。
すっかり復調したヴェラだが、この雨の中で出かけるつもりは当然ない。レアード海運の面々と顔を合わせてしまう可能性もあるので、なおのこと外に出るつもりはなかった。だが、そうなるとどうしても時間を持て余してしまう。
「なあノエル、ちょっと聞きたいことがあんねんけど」
「なんでしょう?」
「ノエルのほうは体調どないなん? 調子悪ぅなってへん?」
ヴェラの質問は、ノエルにとって完全に予想外だった。軍に所属していた頃ならともかく、現在のノエルはヴェラの看病以外何もしていない。それもこれだけ回復すれば手伝うことなど何もないのだ。2日前までは調停の準備を進めていたが、それも整ってしまった。はっきり言って暇だ。体調を崩す要因など、どこにもないはずである。
だがここ数日の付き合いで、ヴェラは受ける印象とは違って論理的な思考をするとわかっていた。ならこの質問にも根拠があるのだろう。そうすると、心当たりは一つしかない。
「うるさかったですか? だとしたら申し訳ありません」
「謝って欲しいわけやないんやけどな。毎晩隣で魘されてるモンがおったら、普通気になるやろ」
そう、ノエルは軍を除籍になってから、毎晩魘されていたのだ。特にやることが無くなって、余計なことを考える余裕ができたこの2日が酷い。同室で寝起きしているヴェラが気付かないはずもないだろう。
「なんだったら部屋をもう一つ取りましょうか? もう看病は必要なさそうですし、あと数日の話ですから」
「それって別の部屋でノエルが相変わらず魘されてんのやろ? なんの解決にもなってへんよ」
ノエルの提示した解決策を一蹴するヴェラ。だがノエルにはヴェラの言いたいことが今一つ掴めない。自分が誰かに心配されたという経験がないので、その可能性に思い当たらないのだ。
「そう言われても……」
ノエルとしては魘されるのを止めろと言われているようにしか聞こえない。だがそんなことができるなら最初からやっている。自分自身ではどうしようもないので放置していたのだ。
そんなノエルの様子をどう取ったのか、ヴェラは寝台から降りるとノエルのすぐ前に立った。
「目ぇの下にうっすらクマできとる。ちゃんと寝れてへんねやろ? どうせ暇やねんから、昼寝でもしたらどない?」
思いがけず優しい声で勧められて、さらに戸惑うノエル。これまで誰かに命令されることはあっても、このように勧められたことはないのだ。そのため従うべきか断るべきかの判断すらすぐにはできない。
だがヴェラはその点容赦するつもりは無いようだ。手段を選ばずにノエルを休ませようとしてきた。
「ひょっとして、魘されてる原因はウチなん? ウチが同じ部屋におるからようないん?」
「いや、そんなことは……」
「そらまあ無防備な美少女が同じ部屋で寝てたら、若い男には刺激が強いやろしな。呻き声が上がる理由も想像はつくわ」
「ちょっと待ってください。なんて人聞きの悪い想像をしてるんですか」
なかなかに下品で失礼な邪推をされて、冷静さを失うノエル。だがヴェラの話術は容赦なくノエルを追い詰めていく。
「ウチが原因やないんなら、ここで昼寝くらいできるやんな? それともやっぱり興奮してでけへんか?」
ここで休まなければ、あらぬ嫌疑をかけられてしまう。理不尽な二択を迫られたノエルは、仕方なくヴェラの勧めに従うことにした。
「仕方ありませんね……」
それまで腰かけていた寝台に転がるノエル。だが今度はヴェラの視線が気になって休むどころではない。
「大人しく休むので、ヴェラも戻ってください」
そう言ってヴェラの寝台を指差したのだが、その手をヴェラに取られてしまった。
「ヴェラ?」
「怖い夢を見いひんように、お姉ちゃんが手ぇ繋いどいたるからな」
そう言ってノエルの手を両手で優しく包むヴェラ。振り払うわけにもいかずどうしたものかと悩んでいると、追い打ちのようにヴェラの口から澄んだ歌声が流れ始める。
「~~~」
ノエルの知っている歌の中に、子守唄は含まれていない。誰にも聞かされたことがないからだ。ましてヴェラが歌っているのはハーフリングに伝わる歌で、人間にはあまり知られていない。
だからそれが子守唄だと、ノエルにはわからなかった。いい歳をして子ども扱いされているのだと気付くこともなく、ただその歌声に耳を傾けてしまう。ヴェラの歌が巧みなのか、それともノエルの睡眠不足が深かったのか、ほどなくノエルの瞼は落ちたのだった。
微かな寝息を立てるノエルの傍らに座ったまま、ヴェラは歌を止めてノエルの寝顔を見る。ここ数日夜中に見ていた、苦悶の表情ではない。子守唄のおかげか、それともまだ握ったままのこの手のおかげか。
「ほんま、変な奴やなぁ」
奇妙な契約によって結ばれた関係だが、ヴェラはこの関係を気に入り始めていた。いや慇懃無礼で強引で不器用で変なところが世間知らずな、このノエルという男を気に入ったのかも知れない。我ながら悪趣味だとは思うが、ノエルは気を使わず対等でいられる相手なのも確かなのだ。その関係が心地いいと思うのも、おかしな話ではないだろう。
「あと数日の話、か……」
だがノエルはこの関係を長く続けるつもりはないようだ。レアード海運との決着が付いたら、そこで関係が終わる前提で話をしている。もちろん、本来であればそれが当たり前だろう。ヴェラに夢があるように、ノエルにも何かの目的があるはずなのだから。
だがヴェラはノエルが魘されている時に漏らす寝言や、時折見せる昏い目を知っている。確たることは何も知らなくても、ノエルが傷ついていることだけはわかってしまう。このまま離れることが正解だとは、どうしても思えない。
「つくづくお節介やな、ウチは」
ヴェラの呟きはノエルの耳に届かず、部屋の中に散っていった。
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