第5話 たいろをたつ

 ヴェラの意識が浮上したとき、最初に意識したのは身体を貫くような苦痛だった。苦痛は容赦なく襲い掛かり、肉体と精神を蹂躙していく。何度も、何度も。


 許してと懇願し、逃れようと必死に身をよじるが、新たな苦痛に心を折られて動けない。鼻をつく酷い匂いが、これは現実だと突き付けてくる。自分の置かれた状況に絶望しながら、ヴェラの意識はまた深淵に呑み込まれていった。




 次に目覚めたヴェラが見たのは、見覚えのない薄暗い部屋と、毛布一枚だけを身につけて寝台に横たわる自分自身だった。


「ぇっ……」


 酒場でノエルという男を相手に色々と話した記憶と、今の状況が繋がらない。見知らぬ場所であられもない姿にされて寝台ベッドに転がされている状況は、否応なく最悪の可能性を想起させる。


「ぅそ……」


 慌てて自身の身体を調べようとするが、貫くような激しい痛みと部屋に立ち込める匂いが状況をこの上なく的確に教えてくれた。


 激しい後悔がヴェラの心を塗りつぶす。なんということだ。だが間違いない。これは……だ。


 一瞬貞操を奪われた可能性を考えたが、痛むのは下腹部ではなく頭だった。鼻をついた匂いは吐しゃ物ゲロの匂いだ。まごうことなき二日酔いである。それもかなり酷い。


 裸にされているのはきっと服に吐しゃ物がかかって脱がされたのだろう。下着まで剥がされているということは、下着まで汚してしまったに違いない。


 どうやら誰かに色々と迷惑をかけたようだが、その相手は見当たらない。少なくとも室内にはいない。たぶんきっと昨夜一緒に呑んだあのノエルとかいう人間だと思うが、酒場で色々と話していた後の記憶が全くないのだ。ひょっとしたら別人の世話になっていた可能性もなくはない。


 そこまで考えたとき、大変なことに気づく。今は何時なのだろう。部屋は薄暗いが、それは窓にカーテンがかかっているからだ。今日の出勤時間は四の鐘(八時)だから、三の鐘(六時)には職場についていなければならない。今の時期ならこの明るさで三の鐘の前ということはあり得ない。間違いなく遅刻している。


「やばっ、っぅ」


 咄嗟に起き上がろうとするが、頭に棍棒で殴られたような衝撃が走る。意識が一瞬途切れ、ヴェラは寝台に突っ伏した。


 寝台にうつぶせになっていると、今度は吐き気がこみ上げてくる。まずい。まずいが、体を起こすのも寝返りをうつのも困難だ。というか、痛くて頭を動かせない。動かしたくない。


 このまま自分はやらかしてしまうのか。そして自分の吐しゃ物に塗れるのか。それは嫌だ。仕事に遅刻したのが確定しているのでぶっちゃけ割と死にたい気分だが、同じ死ぬにしても吐しゃ物で溺死ゲロ死は避けたい。


 そのとき、微かなノックの音がしたかと思うと、扉が開いてノエルが部屋に入ってきた。


「ああ、目が覚めたんですね。気分は……って、聞くまでもないですか」


 それはまあ、これだけ真っ青な顔をして口を手で押さえていながら気分が爽快だったら、そいつは生物としておかしい。ついでに言うと初対面の異性の前でこれだけの醜態を晒しつつ全裸も晒しつつ平静でいられたら、そいつは精神がおかしい。


 ヴェラは慌てて身体を起こそうとしたが、身体を起こした途端、激しい頭痛と共にさらに強烈な吐き気がヴェラの身体を襲撃した。これはもはや一刻の猶予もないやつだ。


 こういった状況を予想していたのだろう。流れるような動作でノエルが差し出した桶に、ヴェラは胃の中身をぶちまけた。あまりの恥ずかしさと申し訳なさで、もういっそ殺してくれと思いながら。




 ヴェラは寝台にあった毛布に身を包んで、精一杯目の前の無礼な男を睨みつける。如何に吐しゃ物で服が汚れていたとはいえ、寝ている乙女を裸にひん剥いた犯人なのだ。警戒するのも威嚇するのも当然だろう。


 なんといってもこちらは20歳になったばかりの乙女なのだ。人間であれば子どもがいてもおかしくない歳だが、成人してから死ぬまで容姿が変化しない妖精族には関係ない。乙女と言ったら乙女なのだ。その乙女の柔肌をなんと心得るのかこの男は。


「ノエル、全部見たんやんな。隅から隅まで」


「まあその、服から下着から全部汚れてましたからね。見たことは認めます。ただし、疚しい気持ちはありません」


「……念のために聞くけど、ヤってへんやんな?」


「だからありませんってば。ご自分でもわかるでしょう?」


 実のところ、ヴェラには男性経験がないので自分が無事だったのかどうか今一つ確信がない。だがそのことをこの男に言うのは何か負けたような気がして嫌だった。とてもとても嫌だった。


「まあええわ。ところでウチの服はどうなったん?」


「ああ、宿の人に頼んで洗濯してもらいました。もうすぐ乾くはずです」


「ほな乾くまでウチが着るもんなんもないん?」


「これならあるんですけどね」


 そう言ってノエルが差し出したのは、湯上りに着るための服だった。何もないよりはマシだろう。ただし、こんなものが何故ここにあるのか。


「なんでこんなもんがあるん? というか、ここどこなん?」


「あの酒場から少し離れた連れ込み宿です。他の宿が空いてなかったもので」


「なんやて!?」


 ヴェラとノエルが呑んでいた時間を考えれば、確かに普通の宿は受け入れてくれないだろう。だがだからといって見過ごせる話でもない。だって花の乙女だから。


「ちょお待ちいな! やっぱりあんたウチのこと弄ぶ気なんやろ! この童女嗜好ロリコン!」


「だから何度も言ってますけど、そのつもりはありません! いい加減信じてくださいよ! そのつもりならとっくに手を出してますって!」


 納得はできなかったが、確かに裸のままでは色々と都合が悪い。ヴェラはノエルから恐る恐る服を受け取った。動作がそのまま警戒する小動物である。


「着るからあっち向いてんか」


「はい」


 ヴェラの言葉に従い、背中を向けるノエル。何かと頭に来る男だが、言えば従ってくれるところはありがたい。それにヴェラをハーフリングだからと馬鹿にしないところもまあ、評価してもいいかも知れない。


 何しろハーフリングはその見た目で舐められやすいし、その気質もあって子ども扱いされやすい。だがノエルはなんだかんだと言いつつ子ども扱いはしてこない。そこが多少、心地よくはあった。あくまで多少だ。


 ちなみにこの場合の比較対象は水夫長である。彼はヴェラをいつまでも子ども扱いしつつ、その上で強引に迫って来るのだ。なんとも腹立たしい話である。


 だがその腹立たしい男の顔を思い出した瞬間、ヴェラは大変なこともまた思い出した。


「あ! やば! 今の鐘はいくつなん!? 仕事に遅刻しとったん忘れとった!」


 慌てるヴェラだったが、この服で出勤はできない。服が乾くまではどうしようもないだろう。だがだからと言って落ち着けるものではない。ないのだが、ノエルの返答によってさらに落ち着かなくなってしまった。


「え? 昨夜のことを覚えていないんですか? 貴女の退職届は、もうレアード海運に届けてきたんですが」


「……は?」


「いやだから、退職届を出して来たんです。貴女が昨夜書いたやつをついさっき、寝てる間に」


「……覚えてへん」


 呆然とした呟きがヴェラの口から零れる。昨夜お互いに名乗りあって少し経った後から、ヴェラの記憶は途切れているのだ。そこでノエルと一体何を話したのか。


「……どのあたりまで覚えてるんですか? 僕の名前は覚えてますよね?」


「そこまでは覚えてんねんけど、その後あたりから……」


「ほとんど最初からですか」


 呆れたようにノエルが呟く。ヴェラとしては非常に不安になるが、昨夜の自分が何を言ったのか、確かめなければならないだろう。


「なあ、昨夜ウチどんなこと言うてたん? 大したことは言うてへんと思うんやけど、一応聞いとくわ」


 ささやかな願望を織り交ぜたヴェラの質問に対し、ノエルの返答は一切の容赦がなかった。


「まあ要約すると、騙された報復にレアード海運をぶっ潰して、船長を地獄に叩き落とすとか言ってましたね」


「へ?」


「ついでに貴女の尻を追いかけ回してる水夫長はちょん切るとも言ってました。ナニをとは聞いてませんが」


 最悪である。確かにあまりにも仕事が忙しい時や、理不尽な扱いを受けた時にそんな想像をしたことはあった。しかし実行に移すつもりはさすがに無かったのだ。


「まあどうせ退職届は出してしまいましたし、今さら騒いでもしょうがないでしょう。改めて肚を括っておいてくださいね」


 無かったのだが、いつの間にか後戻りができなくなっていたらしい。そう悟った時、ヴェラの頭痛が倍化したのだった。

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