第三十六話 お産
俺は、おかねがどうやって赤ん坊を産んだのかについては、話せる事が少なすぎる。
何せ、大家さんに相談したら、「男は関わりあいは無用のことだ。うちのカミさんをやるから、お前さんは、時が来たら、天井から掴まる縄を付けなさい」なんて言って、俺を家に帰してしまったからだ。
家に帰っておかねに聞いても、「お前さんの心配する事じゃないよ。大丈夫さ」と言った切りだった。
曰く、江戸時代には、男はほとんど「お産」に関わらなかった。
以下は、長屋の男連中が夕涼みに出ていた時に、「五郎兵衛親方」から聴いた話だ。
五郎兵衛親方は、こう話した。
「味の強ぇもん、体の悪くなるもんはなるべく食わせねぇで、坊さんの書いたもんでも読ましてよぉ、お産の済んだ女なんか連れてきたり、家の婆様かなんかでやっちまうらしいぜ」、と。
俺がすかさず「医者は!?」と叫ぶと、「けっ、大家のカミさんならまだしもよぉ」と言われてしまった。
それを聴いた俺の考えるところは、こうだ。
妊婦には刺激物を与えず、有難い読み物など読ませ、出産には近所の経産婦が立ち会ったり、家ならば祖母がついたり。でも、そんなのは不十分極まりない。最低限命を守るためにだって届かない。まず、滅多に医者を呼ばないらしいなんて、いくら江戸時代だって言っても、あまりに危険だ!
「俺の婆ぁ、そこまで言って、「終い」だって言いやがったな」
「そうか…俺には、何も出来る事がねえのか…」
「へん。えれぇ血の出るもんだってぇ聞くじゃあねえか。女は女でやってくれりゃ、助かるわな」
「そんな!」
「なんでぃ」
俺がその時、「出産というのは危険なんだ。命を落とさないためにする工夫なら、俺だって少しは分かってる!お前と同じにするな!」と、言い返す事は出来なかった。
もしそんな事をしたら、その場で駄弁ってた男達は、五郎兵衛親方を筆頭に、俺をいくつかぶつし、お終いにこう言うだろう。
「お医者さまがいらぁ。おめえのおっ母を見てもらえよ」
江戸っ子は、二つ三つ引っぱたいてから、そのくらい言いかねない。
なんとか黙ってその場をやり過ごし、仲間からやっぱり無駄に引っぱたかれて、家に着く頃には、俺は心を決めていた。
“せめて栄養を付けなければ、おかねの命が危険だ!お腹の子も助からない!”
そう一念発起した俺は、次の日から、おかねの好物ばかり家に買って帰った。
「なんだいお前さん。こんなものあたしは食べられやしないよ」と言われたら、「でも俺ぁ好きじゃねえから」と、横へ流した。
おかねは、不服そうではあったけど、どうやらそんな俺を「よほどに甘い亭主」と思ったらしい。
彼女はにまにま笑いながら、葱と生姜のたっぷり掛かった豆腐や、脂の乗り切った秋の鰹、それから普段には、振り売り屋の持ってくる煮しめなんかを食べた。
野菜のおかずがやたらに増えてから、おかねは時折首を傾げたけど、お腹いっぱい食べられるのは有難いのか、黙って栄養たっぷりの食事を食べていた。
おぎゃあと生まれた場所が神田。父親は生まれは分からないけど日本橋に倒れていた者で、母は何代も神田で暮らした家の生まれ。そして産湯に水道の水を使った男の子。
名は、おかねが考えて、「秋夫(あきお)」に決まった。
「あんたの名から一つもらってね。それでいいさね」
おかねは赤ん坊を産んで、息も絶え絶えのぐったりした中で、本当に嬉しそうに笑った。
「ありがとう。おかね。ありがとう」
嬉しかったけど、彼女の様子は、まるで病に臥せって長い時のように、力無く、風に吹かれたら飛んで行ってしまいそうに見えて、俺はおかねの肩に手を当て、さすっていた。
彼女は、力の入らないんだろう腕を持ち上げ、ゆっくりと俺の手を包んでくれた。
「何言ってんだい。大変なのはこれからさ」
つづく
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