江戸夫婦編
第三十四話 江戸の亭主
「カカア天下」。こんな言葉を聞いたことのある人も居るだろう。もちろん、怒った女性というのは物凄く強い。それに、女性に怒られると、男性の方もそれ以上厳しい言い方を続ける気はなくなってしまう。でも、どうやら「カカア天下」の意味は、それだけではないらしいのだ。
これは、俺がおかねさんと祝言をあげて、少ししてからのことだ。
俺はその朝、おかねさんのあとで井戸の水を使って顔を洗い、歯を磨いた。
前から思っていたんだけど、江戸の人はすごく綺麗好きだ。朝はまず掃除をするし、歯磨きもするし、お風呂も頻繁に入る。まあ、湯屋に行くのは半分遊びみたいなものだし、特に江戸っ子と呼ばれる人たちは、主義のために入っているような部分もあるけど。
俺はほとんど歯ブラシと変わりのない見た目の「
“次のどぶさらいはいつだったかな、俺もちゃんと働かないと…”
などと考えていると、いつかのように後ろから誰かがこっそり俺を呼んだ。
「秋兵衛さん、秋兵衛さん」
でも、振り向いた時に木戸の手前で俺を呼んでいたのは、大家さんだった。
「おはようございます。どうかしましたか」
俺は急いで手拭いで顔と手を拭い、大家さんのところへ走り寄った。
「おはよう、いや、おかねさんに見つからないうちに手短に用件だけ済ませるがね…」
「はあ…」
「お前さん、この間から晴れて亭主となったんだから、心得なくちゃならないよ」
「は、はい」
俺は、「亭主として頑張れ」と言われるのだとばかり思っていた。それにしても、こんなふうにこっそり言われるなんて変だなとは思っていたけど。
「おかねさんは自分でだいぶの稼ぎを持っている。そして、お前さんは元は文無しだったわけだ。失礼なことを言ってしまってすまないが、これは本当のことだ」
「はい…」
なんだか俺は、嫌な予感がした。ここから先、俺が勇気づけられるような話なんかなさそうな気がして。
「だから、おかねさんはお前さんと別れても、暮らしていくのに困ったりなんてしない。つまりお前さんは、いつ別れても困らない、そんな亭主なんだ」
“大家さん…それ、わざわざ言います…?”
俺はいきなり目の前を真っ黒いペンキでベタッと塗りつぶされたような気になった。そして思わずうつむいてしまった。
「だから、いつもよく気をつけてあげて、いきなり
大家さんは俺に追い打ちを掛け、そのあとで「じゃあ、早く家に戻りなさい」と言った。
「はい、ありがとうございました」
俺はそう返事をしておじぎをし、家に戻った。
家に戻るとおかねさんは
「い、いえ、なんでもないよ。お米を炊くから…」
「そうかい。お願いするよ、すまないね」
いつの間にか、朝の炊飯はまた俺の役目に戻っていた。それにも気づき、正直に言うと泣きそうだった。
ある夕焼けの江戸を、俺は心細い気分で歩いていた。それは漬物屋と豆腐屋からの帰りだった。帰ってからは、夕食だ。
でも、俺の頭には、その数日前に大家さんから言われた、「いきなり三行半を書かされる」という言葉が渦巻いていて、とても前から歩いてくる人を気にしている余裕がなかった。
「イテッ!」
不意に俺は誰か背の高い男の人にぶつかってしまい、少し後ろによろめく。
「す、すみません!」
怖かったので顔も見ないですぐに頭を下げたけど、ぶつかった相手はなんと、栄さんだった。
「おろぉ?こんなとこで何してんでい、秋兵衛さんよ」
栄さんは俺を見て怪訝そうな顔をしていたが、俺はよっぽど元気がないように見えたのか、こう言った。
「なんでぃ、もう捨てられたかぁ、旦那」
俺はそれを聞き、一気に不安になって栄さんの袖に両手でしがみついた。
「めったなことを言わないでください!」
急に叫んだので栄さんは驚いたが、すぐに俺のところまで頭を下げる。
「おい、落ち着けって。往来でそんな声出すもんじゃねえ、人が見るじゃねえかよ」
栄さんはうっとうしそうに俺の手をどけながら辺りを見回し、そしてまた姿勢を起こした。
俺はその場で、一瞬だけ考える。
“そうだ、この人なら、生粋の江戸っ子のようだし、おかねさんがどう考えるか…わかるんじゃ…”
そう思った時、俺はもう一度叫んでいた。
「栄さん!少し聞いて頂きたいお話があります!」
「ああわかった、わかったよ!おめえは叫ばなくちゃ話ができねえのか!」
「三行半ん~?」
「はい…」
栄さんは、俺とぶつかったすぐそばにあった屋台見世の天ぷらにかぶりつきながら、素っ頓狂な声で叫んだ。「どうせのろけみてえなもんなんだろうから、なんかおごれや」と言われたので、俺が海老天を買ってあげたのだ。
俺が出し抜けに「三行半のことで…」と話し始めたので、彼は驚いて喉を詰まらせた。俺はちょっとその背中を叩いてやる。
「なんでぃ、本当にもう捨てられっちまったのかおめえさん」
「いえ、そういうわけではないんですが、大家さんが、「すぐに書かれないように気をつけなさい」と言って…私が…稼ぎがないものですから…」
その時いきなり、俺は栄さんにぐいっと肩を引かれた。驚いて振り向くと、栄さんは苛立たし気にこちらを睨んでいる。
「おめえよ、もすこし亭主らしくしゃべんな。それじゃあ丸っきり前とおんなじ下男じゃねえか」
「と言われましても…もう癖で…」
俺は言い訳をしたけど、栄さんは、初めて会った日に俺が「何も覚えていない」と言っていたことを覚えてくれていたのか、ため息を吐いただけだった。
「で?大家に言われたことに怖気づいてるってなわけか」
「はい…まさか、おかねさんがすぐにそんなことをするはずがないと思うんですが…」
「まあお前さんは
「そうですか…」
そこからしばらく、俺たちは無言で歩いていた。栄さんは海老のしっぽを噛み砕くのに苦労しているようだった。
“ああ、もうすぐでお
通りには、家路を急ぐ人々がしゃかしゃかと歩いているばかりで、どんどん日は落ちて、俺はさびしい気分がつのった。
“でも、栄さんなら何か明るいことを言って吹き飛ばしてくれるだろう。彼ならそうしてくれるはずだ”
そう信じて俺は彼を見たのに、栄さんは、にんまりと人をからかうような笑い顔をしていた。
夕焼けがだんだんと暗い闇に閉じられる中、栄さんはくいっと首をひねって俺の顔を覗き込む。
「まあ、ねえ話じゃねえ。いいや、気にくわなかったらすぐに離縁できるのが江戸の女だ。次の相手ならいくらでもいるからなぁ」
“やっぱりそうなのか。そういえば江戸の男女比はおそろしく差があったはずだ…”
俺がそう思って呆然と立ち尽くしていると、栄さんは突然ふき出して、笑い出した。
「な、何を笑うんです!」
俺が責めても彼は背を逸らせて笑い続け、しばらくおなかを抱えて体をよじらせていた。でもやがて栄さんは俺の方を向き、「すまねえ、すまなかったよ」と言ってくれた。
「おめえはからかいがいがなくって困るぜ。お師匠がおめえを放すわけがねえやな、おめえほど甲斐甲斐しい亭主もねえからよ」
「えっ…」
俺はそれまで栄さんをちょっと睨んでいたけど、彼がやっぱり俺を応援しようとしてくれたことがわかって、すぐにお礼を言おうと思った。でも、その間がなかった。
「じゃあよ。またな」
そう言って栄さんはすぐに、薄暗がりの人ごみにまぎれて、消えて行ってしまった。
「あっ、栄さん…」
そこで俺は、家に帰るのがずいぶん遅くなってしまったことにも気づいたので、あわてて長屋の木戸まで駆けて行き、夕闇に背を押されて家へ入った。
「ただいま。遅くなって悪かったね」
俺は漬物屋と豆腐屋の包みを畳へ置いておいて、上がる前に畳の端に腰かけて、足を拭く。
栄さんには「癖でこのしゃべり方しかできない」と言ったけど、おかねさんの前では少しずつ言葉遣いを崩して様子を見ながら、俺は敬語以外でもしゃべるようになっていた。
「ずいぶん遅かったじゃないのさ。どこで油売ってたんだい」
俺は確かにちょっと遅くなったけど、おかねさんはなかなかこちらを向かずに、ちょっと言葉を尖らせていた。
「ちょっと栄さんに会って、話をしてたんだよ」
「栄さん、ねえ。ほんとかねえ」
おかねさんは鏡台の前であちらを向いて、そんなことを言った。それは呆れているようにも取れたけど、口をすぼめて言ったような声音だった。
彼女の背中は丸まっていて、肩は前に垂れ下がり、首は心持ち斜め下に向いている。
“もしかして…帰りが遅かったから、ちょっとすねてる…?”
俺はそれがわかってくるとおかねさんが可愛くて仕方なくなって、さっきまで考えていた心配事なんて、消し飛んでしまった。そして、胸がふくらむように、俺は嬉しい気持ちが湧いてきた。
“彼女にどんなことを言おうかな。あんまり恥ずかしがらせたら怒られそうだけど…、でもやっぱり…”
「本当だよ。おかね、こっちを向いて」
仕方なくといったようにおずおずと振り向くと、おかねさんは俺を切なそうに睨み、「なんだい」と言った。
「うん、すごく綺麗だ」
すると彼女はあっという間に真っ赤になってしまい、また前を向いた。
「ごまかしたりなんかして」とか、「油断のならない人だね」なんておかねさんは言っていたけど、その間で俺はおはちから茶碗にごはんをよそって、お漬物と、買ってきたお豆腐を皿に盛り付けた。
つづく
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