第二十五話 病





おかねさんの家を出てから、俺の乞食こじき人生が始まった。


俺は初めの晩は神田明神に勝手に宿を取らせてもらったけど、やっぱり神田には居づらかったので、浅草に居を移した。


とは言っても、やっぱり神社の境内や橋の下で寝起きをし、やっと見つけたお茶碗を一つ持って、家々を回り、食べられるものや、お金を少しずつもらったりしていた。


勤め先を紹介してくれるという「口入屋くちいれや」にも行ってみたけど、「素性の知れない者を人に勧めることはできないんでねえ、悪いが帰ってくれ」と、冷たくあしらわれてしまった。





おなか、すいたな。昨日はどこに行っても何ももらえなかったから、おからにもありついてない。


お米なんか食べられなくてもいい。おからでも、粟でもいい。とにかく何かが食べたい。


おなかがすいた…。


俺はそんなことを考えながら、その日も浅草寺の裏手にごろりと横になって、もうだいぶ暑くなってきた町の隅っこで眠った。








江戸の町が真夏になる頃、俺は少し風邪を引いたようだった。


それはそうかもしれない。ろくに食べずに毎日何十軒もの家を歩き回って、一日中暑さに体を晒しているのだから。


でも、そんなことには構っていられず、俺はその日も食べるものを得るために、人々の軒先を目指した。


「何もないよ」


「お願いします。大根ひとかけでもよろしいのです…」


この上なくみじめな気分だった。物乞ものごいとはこんなに辛いのか。


「そんなところに立ってたら邪魔ですよ。早くどっかへ行っとくれ!」


俺が訪ねた家のおかみさんは、そう言って戸を閉めた。


わかっている。江戸時代のほとんどの人々には、施しをしてやる余裕などない。





足が重い。体の具合が悪い。もうずいぶんお風呂に入っていないし、自分の体が臭うのもはっきりわかった。


“ああ、情けないな。でも俺が未来から来た以上、どこかに奉公ほうこうするわけにもいかないし、俺はこの時代の仕事のやり方なんか一つもわからない。写し物の仕事だって、おかねさんがもらってきてくれたもので、俺一人じゃどこからも仕事なんかもらえない…”



でも、俺にもう少し勇気があれば、そこらで働いている人にやり方を聞いて仕事をし、それを勝手に売り歩くかなんかして、自分で働いて得たお金で生活することもできただろう。もちろん、そうした方がよかったに違いない。


でも俺には、その勇気を出すための希望がなかった。自分が未来から来たからではない。



おかねさんに、とうとう受け入れてはもらえなかった。



彼女と別れてひと月ほど経った今でも、いいや、今の方がむしろ俺は気持ちが落ち込んで、とてもじゃないけど、前に進むために仕事をするなんてできなかった。


“このまま俺は、一人で死ぬかもしれない。もしまた行き倒れて、今度は死んでいる俺を見つけたら、彼女は少しでも悲しんでくれるだろうか…”


俺は、“生きていきたい”なんてもう思っていなかったのかもしれない。






真夏のある夜、俺はかっぱらってきたむしろの上に横になり、橋の下で唸っていた。その頃の俺は品川に生活する場所を移していて、知っている人など誰も居なかった。


知り合いも居ないのは心細かったけど、それ以上に、原因不明の病が俺を追い詰めていた。



息が苦しい。咳が出る。高熱も出ていた。それに、全身に蕁麻疹のようなものができていて、かゆくてしかたない。



結局俺は眠られないままで夜を明かし、朝になっても唸り続けていた。


朝の日差しが橋桁の下に居る俺の横っ面を照らして、眩しくて仕方なかったけど、もう首をひねる余裕もなかった。俺が吐く息はどんどん熱くなっていく。


“これはもういけないだろうな。俺もここまでか”


自分が死のうとしているのだと感じ始めた頃、俺の目にはひとりでに涙があふれた。


“もう一度彼女に会いたい。ひとめでいい。そして、死んでいく俺を彼女に見守っていてもらいたい”


そう思っていると、川辺のあしを踏んで誰かがこちらに近づいてくる足音がした。でも、俺はもう目を開けられなかった。


咳は出るのに、ぐったりと力が抜けて重たくなった俺の体は、自分で火傷をしそうなくらいに熱くて、俺は夢の中に居るように、目の前に彼女の顔を見ていた。


夢の彼女は、俺のことを覗き込んで心配をしているように悲しそうな顔をして、俺は“もう一度、おかねさんの笑い顔が見たかったな”と思っていた。


その夢で彼女は俺をゆすぶってから何かを叫び、俺は誰かに優しく抱きかかえられるような心地がした。



“ああ、仏様が迎えに来たのかな。天国と地獄なら、どっちがいいんだろう”



俺はそんなことを考えながら、自分を手放した。








目が覚めた時、俺は布団の上に横になり、薄い上掛けまで掛けてもらっていた。


“死んだにしちゃおかしいな”


そう思って起き上がろうとすると、誰かが俺の肩を布団に押し付けて止めた。


「目が覚めたんだね。でもまだ動いちゃならないよ。もう少しでお医者が来るから」


その声で俺はびっくりして、半開きほどに寝ぼけていた目を見開き、目の前に居た“彼女”の顔を、かすむ目でなんとか見ようとした。


声ですぐにわかったけど、それはやっぱりおかねさんだった。



“嘘だろ。こんなことってあるのか…?”



俺はすぐに両目に涙があふれ、嬉しさで一気に有頂天になりそうだった。


「おかねさん…?なぜ…」


そう聞くと、おかねさんは悲しそうに横を向き、浴衣の袖で目を押さえて、しばらく何も言わなかった。でも彼女はしばらくして気持ちの昂ぶりがおさまったらしく、涙の染みた袖口を隠して、俺に笑う。


「おかねさん、私を探して下さったんですか?それに、お医者様を呼んだなんて、それは申し訳が…」


俺がもう一度起き上がろうとすると、おかねさんは今度もやんわりと俺を引き止め、床の上に戻してくれた。


「起き上がっちゃならないっていうのに。お前さん、病の中なんだから、じっと寝てなくちゃならないよ。ああ、本当に見つかってよかった…」


それで俺は、“おかねさんは俺を追い出しはしたものの、やっぱり心配になって、探してくれていたんだ”と知って、また泣きそうになった。


“これは夢じゃないんだろうか。俺に都合がいい白日夢じゃないんだろうか?”


「お前さんを追い出したなんて、今になってみればあたしはどうかしていたんだよ。許しとくれ、堪忍しておくれ…お医者が来るまでの辛抱だよ。まあお前さん、あたしのせいでこんなになっちまって…!」


おかねさんは袂でまた涙を拭い、「手拭いを替えるからね、ちょっと我慢しておくれな」と言って、俺の額の上ですでにぬるくなっていた水布巾を取り換え、「何か欲しいものはあるかい?」と優しく聞いてくれた。


俺は勇気を出してどうにか心を打ち破り、こう言った。


「なんにもいりません。私はここに戻ることができるなら、他にいるものなんかないんです」


「もちろん、帰っておいでな。あたしはあの時正気じゃなかったんだよ。お前さんを追い出すなんてさ…ごめんよ、許しておくれね」


おかねさんは泣きながら笑って、そう言ってくれた。







それから夕刻になって一人、お爺さんのお医者さんが来たけど、お医者さんは、「流行り病だから、本人の体に任せることしかできないだろう。よく食べさせてやりなさい」と言うだけで帰って行ってしまった。



俺は全部で四人の医者に診てもらったけど、結局どれも同じ、「流行り病は本人が耐えて過ぎるのを待つしかない」と、皆同じ答えを返すばかりだった。




医者がみんな帰って行ってから、おかねさんは悔しそうに泣いて、俺の額をさすった。


「医者なんてみんな不人情なもんだねえ。「流行り病だから仕方ない」なんて言ってさ…。安心しなよ、よくなるまでは、あたしが面倒をすっかり見るから…」


「ありがとうございます、すみません」


「いいんだよ謝らなくて。それをするのはあたしの方さね…」






それから数日して俺は熱が下がり、でも右目の上に大きな痘痕あばたが残ったようだった。それがどんな病気かは知らなかったけど、どこかで聞いた症状だなとは思っていた。


でも、俺がなっただけなら、よかった。おかねさんにうつしたりしたら大変だ。




それなのに、俺はある朝、何か大きな物音で目が覚めた。しばらくそれと気づかなかったけど、だんだんと意識がはっきりしてくると、それは誰かが咳をしている声だったとわかった。


ゴホッ、ゲホッ、ゲホッ!


俺がびっくりして隣を見ると、横になっているおかねさんの顔も首も赤い発疹で覆われ、彼女は激しい咳で息も継げずにいた。



「おかねさん!」







つづく

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