Post-Break
「いいけど……明日、会社あるんじゃっ」
突然の提案に詩音は、やや戸惑った顔をしてるが、あんなことがあった後で一夜を1人で過ごす心細さからか、完全に拒否をする素振りではなかった。
「有給使う」
「で、でも……」
「明日リーにしないといけない話もあるしな」
俺がいなかったらどうなっていたか。あいつにはきちんと落とし前をつけさせる。もしかしたら、明日このカップルは別れることになるかもな、と思いながら息を短く吐いた
「……」
「泊っていい?」
「うん……」
詩音は申し訳なさそうな顔をした。
「シャワー借りて良い?」
「あ、うん。……奥の左側の扉にあるよ。タオルは引き出しに入ってる」
気まずい空気を打破するようにして浴室に向かった。衣服を脱ぎ、中に入った。浴室の壁には柔らかなピンク色のタイルが敷かれ、微かな湿気が空気に包んでいた。蛇口をひねると、勢いよくシャワーが出た。お湯の音と立ち上る湯気が部屋を満たし、一時的にその場の緊張を流してくれた。
うちのとは違う。他人の家のシャワーなんていつ以来だろうか。鏡の下に並べられている、いかにも女子の使うシャンプーやコンディショナーに手を伸ばし、香りを嗅いでみた。甘い石鹸の香りがした。
よく詩音は俺の家に泊まりにくるが、それは「俺たち」の家であるからで、俐一が詩音の彼女だからである。でも今は……。
花の香りのボディソープを泡立てる。泡が肌を優しく撫でるとふと、詩音のことが頭をよぎった。気の知れた仲だからといって、今回のように詩音の家に俺が単独で泊まるとなると、何も思わないものが無いというわけではない。どこかで、詩音のプライバシーに触れているような、そんな感覚が拭えなかった。
シャワーからあがり、トランクス1枚になった俺は、脱衣所にあるドライヤーで髪を丁寧に乾かしていると、背後から詩音の声が静かに届いた。
「髪、下ろしてる嘉一君久しぶりに見た」
「あぁ、ワックス取れるとこうなる」
「あの……着替え……私のだと小さいよね」
詩音はTシャツのようなものを鏡越しにこちらに見せてきた。それは、見るからに女物だし小さかった。ピンクだし。
「破れるかも」
「それは困ったな……。どうしよ」
「いいよ、着ないでこのまま寝る」
「え、今暑いかな?」
「いや、だいたいいつも寝る時こんな感じだし」
「そっか……」
「詩音は風呂は?」
「あ……うん。入ってきても良い?」
「あぁ、じゃあ俺は出るわ」
詩音を脱衣所に残して部屋に戻り、部屋に一人になった。脱いだシャツを畳んで部屋の隅においた。同様にしてズボンも折り畳む過程の中でポケットの中に手を入れると紙切れが入っていた。
『イエルテって、●かいちに似てるよね!』
嘉一と漢字で書こうと試みたが、上手く書けなかったんだろう。上部に加という字が書かれた上から丸く塗りつぶされた丸の横に、ひらがなで俺の名前が書かれている。お世辞にも上手とは言えないこの字は秋によるものだ。漫画を返してもらった時にページに挟まっていた。弱いものいじめをする輩を
無造作にノートを切り取ったような歪な形の紙きれだが、俺はこれを丁寧に4つに畳んでポケットに入れて、時折ポケットの中に手を入れてはその紙切れを撫でている。なんでこんなもん、持ち歩いてるんだろうな。気に入ったものを日頃から肌身離さず持ち歩くのは俐一もそうだっけか。あいつがいつも持ち歩いているボロボロになった画集が目に浮かんだ。
程なくして詩音は風呂から出たようで、ドライヤーで髪の毛を乾かしている音が聞こえてきた。
俺はそんな音を耳の奥に馴染ませながら、俐一に再度電話をかけてみたが、俐一が電話に出ることは無かった。
詩音が戻ってくるとテレビをつけて適当に雑談しながら過ごしたが、自然とあくびが出てきたタイミングで詩音は寝るかと問いかけたので、頷いた。
「……ごめん、今布団とかなくて……私のベッド使って良いから」
詩音は自分のベッドを指さした。
「良いよ、その辺で寝るから」
「でも……」
「詩音は明日仕事行くんだろ、ちゃんとベッドで寝ておけよ」
「私も休む」
「とりあえず、ここは詩音の家なんだから自分のベッドで寝てくれ」
意地でも譲らない姿勢でいると、詩音はあきらめてくれた。
「ごめんね。あの、せめてこれ、毛布……」
「ありがと」
毛布を受け取って、床に敷いた。詩音は心配そうな顔をしていた。この子は気を使いすぎた。いつもこんなんでいたら、絶対疲れるだろ。俺は毛布の上に横になって天井を見上げた。
「……」
「……」
豆電球の電気の中、目を閉じても目が冴えて眠れなかった。それは詩音も同じようで、何度も寝返りを打っているのが分かる。無意識に詩音の呼吸音に耳を傾けてしまっている自分がいた。
「ったく、こんな時になにやってんだろうな、リーは」
天井に向けて放った言葉。
「今回のことは私の責任だし……連絡が取れないのは、多分、何か理由があるんだと思う……」
小さい声で返事が返ってきた。
「どうだかな。あいつは自分が都合悪くなると、普通に連絡無理したりするから」
詩音からの返事はなかった。
少し意地悪な言い方をしてしまったかと、自分の言ってしまったことに後悔しかけたその時、詩音の方から、か細い嗚咽のような声が聞こえてきた。
「え、大丈夫?」
思わず起き上がる。
「ごめん、ごめんね……」
両手で目元を拭う詩音は大粒の涙を流していた。小さいを丸めている。咄嗟に詩音の隣に座って、小さい体に手を回した。今のは完全に俺のせいだ、最悪。
「ごめん、さっきのは冗談だから」
体を震わせながら泣いている詩音。その様子を見ていると、詩音は俐一のことが本当に好きなんだろうと思った。でも、僅かに自分に預けられた体重から、良からぬことを想像してしまう。今腕の中にいるこの女を抱いたらどうなるだろう、と。
そのままベッドに押し倒して、強引にシャツをたくし上げてその膨らみに触れたら――。詩音はどんな顔をするだろう、どんな声を出すだろう。そして、それが起こった後、俺たちの関係はどう変化していくだろう。俐一はどう思うだろう。
ばかか。
こんな時になんてことを想像してしまっているんだ。俺の嫌な癖だ。いつも絶対にありえないことを想像してしまう。
これは願望でもなんでもない。妄想を押しやって、俺は詩音の背中をそっとさすった。
「深呼吸して」
「う……うん」
呼吸の速度がだんだん落ち着いてくるのをただ待った。
「大丈夫?」
「うん……ありがとう」
詩音がおとなしくなったところで、俺は手を離して毛布のある場所に戻った。必要とあらば助けるが、俺は今上半身裸なのだ。ここはやはり身体的な距離を保つべきだと判断してのことだ。
「やっぱ……リーのことが好きか?」
「うん……俐一君は……すごく、優しいから」
「そっか」
あんなことがあっても、まだ好きなんだ。
別に妬ましいなんて思わない。だたただ、こんなことがあったのにまだ好きでいてくれる彼女を持っているなんて、俐一は幸せ者だな、と思うだけだ。
ポケットに入った紙を取り出して豆電球の明かりを頼りにもう一度見た。
破れかかった紙の端が指先の振動で微かに揺れる。なんでこんな動作をしているのか自分でも分からない。でも、こんなボロボロで汚い字で書かれた紙でも、自分にとって価値のあるものだというのが分かる。
今回は大事な人が困っていたから守っただけ。
でも俺は、詩音のことを恋愛的な意味で好きではない。
周りにも、詩音が好きなんだろうと今まで誤解されてきた。でもそう思われたならそう思われたままにしておく方が都合の良いことだってあったから放っておいただけだ。
確かに俺は詩音のことをよく見てきたと思う。でもそれは、あいつが詩音のことを好きだったからだった。
好きな人の好きな人を意識するのは自然なことだろう。
――――――――――――――
あの時、俐一からその存在を聞かされて、少し期待してしまった自分がいた。でも同時に怖かった。また情が芽生えて、おかしな自分になってしまうんじゃないかって。封印して閉じ込めておきたい存在である自分がまた出てきてしまうんじゃないかって。だから、会わない方が良いと思っていた。
「よお、嘉一」
「……西村」
青いウェアを羽織った西村は病室の入り口に立って俺を見ていた。身体が大きくなり、声も低くなって少し大人びているが面影はあの頃ままだった。
「久しぶりじゃん」
「そうだな」
会いたくなかったのに。不愛想にため息をついてみせるが、内心では懐かしさに心臓の奥がじんわりと温かくなる感じだった。
「骨はどうよ」
「昨日手術だった……ちょっと突っ張ってる感じあるけど、痛め止めも飲んでるし大丈夫」
「へぇ、痛くないの?」
西村はこちらまで歩いて来ると、ゆっくりと手を伸ばし鎖骨の下ら辺の大胸筋あたりに触れてきた。
「触んなって」
反射的に振り払うが、西村は手を止めなかった。
「まじでマッチョじゃん」
西村はまっすぐ俺を見ていて、なんとなく避けることができなかった。
「……」
「あ、抵抗しなくなった」
「うぜぇ……」
「嘉一、モテるだろ?」
今まで幾度となく言われてきた言葉だ。でも今回はなぜか胸に響いてしまった。
「なんで? モテそうに見える?」
「そりゃイケメンでマッチョだし。しっかし全然俐一とタイプ違うよな」
「そうだな、俺はリーとは違う」
当たり前だ、同じにされたくない。そう思って生きていた。今では体格も髪型も違うし、双子だと言って初めて気が付かれるレベルにまでなっているのではないかと思う。
「あー、聞いてるかもだけど、俐一と昨日飲んだんだ」
「へぇ」
「俐一、詩音と付き合ってるんだってね、ビックリしたよ」
西村から繰り出される「詩音」という言葉。
あの時よりキーは低くなっているが、その音にツンと何かに刺されたような気分になった。
「……みたいだな」
まだ詩音のこと好きなんだ。相変わらず分かりやすすぎる。
どうせ俺に会いに来たのもそれを聞きに来たんだろう、と思う。間は空いたものの、幼馴染というのはこういうのが何となく分かってしまう。
「……嘉一は彼女できた?」
「別に……」
「悔しくねーのか?」
「なんで?」
「だって俐一にはいるじゃん、彼女」
「どうでも良いよ。別に困ってるわけじゃないし」
「そうじゃなくてさ……詩音取られちゃって悔しくないの?」
あぁ、まただ。
詩音、詩音、詩音……。心にひどく響く。西村は俺が詩音のことが好きだと勘違いしてる。
「西村は悔しいのか」
「あっはっは。なんか詩音はさぁ、俺の妹と何となく似てるから放っておけない感あるんだよね」
西村の妹の紗枝は俺もよく一緒に遊んだ。控えめで優しいところは確かに詩音と似ているかもしれない。
でも、西村が詩音に抱く感情は兄妹に抱くソレ、ではないだろ。
「紗枝は元気?」
「あー……まぁぼちぼちかな。盛岡病院で入院したり、退院したりを繰り返してるよ」
「盛岡、か。ここじゃねーのな」
「病院と言えど専門分野が違うからなぁ……今日も勤務終わったらそのまま見舞いしてくる予定」
西村は今度、詩音と俐一を含めた幼馴染4人で遊びたいという旨を言ってきた後、呼び出しが入ってすぐに去っていった。
4人で遊びたいなんて、ただ詩音と会うための口実だろう。西村と詩音を引き合わせたくない、という感情と、西村とまた遊べるという期待が入り混じって複雑な心境だった。
でも俺はある出来事をきっかけにして西村への懐疑の念を抱くことになる。
それはファミレスでのお会計の直前、西村が忘れ物を席に取りに行ったついでに、詩音の飲み物に刺さっていたストローをハンカチに包んでバックにしまうのを見てしまったからだった。久しぶりの再会で舞い上がってどうにかなってしまったのか。あきらかに普通では考えられない行動に、あの光景は夢だったんだと自分に言い聞かせたこともあったが、心の奥では違和感が拭えず、忘れることなんてできなかった。
詩音からの電話で、西村の顔が過っていたが、案の定という感じだ。
――――――――――――――
「嘉一君にも好きな人いたんだね」
詩音の声が柔らかく部屋に響いた。
「あー、まぁな。でも蓋を開けたら実は悪い奴だったしもう好きでもなんでもねーよ」
「悪い人だったんだ……」
「あぁ、あやうく警察沙汰になるくらいにはな」
これで良かったんだ。俺は誰かを守るために、ここにいるんだから。私情に引っ張られてたまるか。悪い奴は制裁されるべきだ。
これが俺の正しさだ。……そうだろう?
これはもう済んだこと。
次に進むんだ。
どうせ守るなら、助けるなら……
次はあんたのヒーローになりたい。
紙切れをズボンに入れて詩音に背を向けて目を閉じた。
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