海に沈んだこの街で -個人SS-

さいとういつき

蜃気楼 -コルデラ-

 かつてこの世界には、様々な色どりがあった。水温の上がり始めたこの時期であれば、光沢のある濃緑の葉のなかに咲く純白のクチナシが芳香を漂わせ、ハイブリッド・ティーローズと呼ばれる大輪の薔薇が花開く。白いなかに薄紅色のしぼりが入った夕霧に、深紅の一色で塗られたような熱情、ローズピンクの愛らしい色彩を見せるエスメラルダから、純黄色の八重咲きになったマダム・ビオレまで、その種類は多岐にわたる。薔薇にはほかにも一枝に数輪から数十輪の花をつけるフロリバンダローズや、樹高がわずか一五から五〇センチほどしかないミニチュアローズなど、おびただしいまでの園芸品種があるのだ。そのどれもが、深海では目にすることもかなわぬ艶やかさであったという。

 古い時代の色彩豊かな草花を映した図鑑のページをめくりながら、コルデラはその匂いを想像する。鼻の奥をくすぐるような甘い香りだ。世話係の七緒が持ち込んだ香水の匂いである。彼はこの図鑑と一緒に、いくつものコロンを持ってきた。これが金木犀で、こちらがオールド・ローズ、それからこれが椿になります、といった具合だ。彼は化粧をするだけでなくて、匂いにまでこだわりを見せた。いまでは草いきれの香りまで再現されているんですよ、と青臭い匂いをコルデラに嗅がせたりもしたものだ。その青年はいま、買い出しに出かけていて不在である。夜まで帰らない予定だ。

 壁一面を本棚にした部屋には、紙の匂いが充満している。古いものから新しいものまで混ざり合って、ぼやけた印象になっていた。少し大振りな木目調の書斎机を部屋の中央に置いて、そこにクッションの柔らかな椅子を添えた部屋である。本棚で仕切りを作っているから、椅子に腰かけると部屋の入り口は見えなくなっていた。ここにある蔵書のほとんどは、コルデラの両親が与えたものだ。深海から抜け出せぬ彼を憐れんで、せめてもの娯楽にと寄越したのである。

 机に頬杖をついて、図鑑にある写真の風景の続きに想いを馳せていると、唐突に呼び鈴が鳴った。時刻は午後の五時である。世話係が帰るにはまだ早い。そもそも、彼は合鍵を持っているから、呼び鈴を鳴らしたりはしない。

 突然の来客かと、席を立つ。窓のない廊下に出て玄関までの道のりをゆっくりと進み、エントランスホールに立ち入ったあたりで、もう一度呼び鈴が鳴った。せっかちな客人である。

 縁取りに彫刻飾りを施した玄関扉を開けると、一人の女が佇んでいた。少し見た具合では、なんの亜人かはわからない。それこそクチナシのように白い肌をした女で、艶めいた長い黒髪を肩におろして背中に届かせている。背はあまり高くなくて、しかも華奢だ。鰓の類いは見受けられない。薄桃色をした色無地の着物姿である。

「なんのご用で?」

 声をかけると、女は襟で口元を隠すようにして、かすかな声で応える。

「暗い深海で、道を失ってしまったもので。もう泳ぐ力もなく、どうか少しだけ休ませてはくれないでしょうか」

「ええ、どうぞ。客間でしたら、いくつかありますので。お好きにお寛ぎください」

 女を家へ招じ入れる。不思議と足音のしない女だった。

 案内したのは、二階にある客室の一つである。窓は作らず、かわりに絵画をいくつか壁にかけている。ベッドとシェルフ、それから書き物机にクローゼット、一組のテーブルとソファを用意してあった。どれも揃いの家具で、同じような彫刻で足元を飾っている。

 女は一言断りを入れてソファに腰かけると、コルデラに隣へ来るよう要求した。少しお話でもいたしましょう。

「構いませんが、どのような話でしょうか」

 わずかにあいだを開けるようにして腰かける。女に興味を抱かないコルデラであるが、だからといって気を遣わぬ理由にはならない。

 女は淑やかに声をこぼす。

「身構えないでくださいませ。ただの夢の、お話です」

 そのおり、彼女からかすかに甘い香りが漂ってくることに気がついた。七緒の持つ香水のどれかで嗅いだことのある匂いだが、それがなんだったのかは思い出せない。そんなことを考えているうちに、目の前の景色がふわりと揺らいだ。何事かと目を見張る。部屋の形はゆっくりと溶けだして、気づいたらそこは深い森のなかだった。周囲には図鑑でしか見たことのない木々が並び立ち、深緑が生い茂る。下草はほどよく刈られているから、人の手が入っていることがわかる。ゆっくりと立ち上がると、背中になにか冷たいものが入り込んだような気がした。慌てて振り返ると、百日紅が咲いていた。犯人はこれだ。

 そこで気がつく。いましがたまで隣にいたはずの女の姿がなくなっている。部屋と一緒に溶けだしてしまったのかもしれない。

 帰り道を探さなければならないと思って周囲を見回したところで、開けた場所が目についた。空から光が差し込んでいる。あの場所にはいけないだろうという考えとは裏腹に、足は自然と明るい場所へと向かっていた。

 まもなく顔に強い日差しがかかる。腕で目元に影をつくって、いずれ訪れる頭痛を覚悟したが、一向にそのときはやってこない。次第に光に目が慣れて、景色が明瞭になる。

 一面に薄紫色のウチョウランが咲く草原だった。周囲は樹林に囲われているが、それでも広い。中央に赤い毛氈を広げて傘を立てたのがあって、そこに女が一人腰かけていた。あの白い女だ。

 歩み寄ると、「あら、いらっしゃい」と声がかかる。どうぞ、お座りになって。

 促されるまま腰を下ろすと、今度は女からにわかに近寄ってきた。コルデラのすぐ隣に寄り添い、胸元に手を置く。視線をおろすと、彼女と目があった。

「繊細なおからだ」

「冗談がお好きなようですね」

「冗談ではありませんのよ? さあ、ほら、目を閉じてくださいな。そのまま、深呼吸をして」

 従うものかと思っていたのに、からだは女の言葉のとおりに動いてしまう。まるで彼女に乗っ取られたかのようだ。目を閉じて、深く息を吸い込む。草花の香りがからだを満たす。青々としていて、ほんのりと水気をはらんだ匂いだ。

 目を開けて。言われたとおりにすると、次には目前に幅の広い川が横たわっていた。ごうごうと音を立てて水が流れている。

「さあ、行きましょう」

 女がコルデラの手を取った。一瞬、彼女の未来が見えてしまうのではないかと身を強張らせたが、なにも起こらない。頭痛もないし、まるで夢のようだ。

 促されるままに立ち上がり、そろって川へと向かう。一歩踏み入ると、夢とは思われぬほどに冷たく、凍えそうなほどであった。深海の水も冷たいが、この川はそれ以上にひんやりとしている。

 一歩、一歩、深みへと入り込んでゆくからだを、コルデラはぼんやりと眺めることしかできなかった。それ以上は進んではならないと頭ではわかっているのに、どうしてもからだが言うことをきかない。

 まもなく腰元まで水に沈むというところで、女に握られたのとは反対の手を何者かに捕まれた。振り返ることもままならないコルデラは、そのまま強引に後ろへと引っ張り倒された。川に溺れるように視界が暗転する。

 気がつくと、客間のベッドのうえに仰向けに寝かされていた。視界の隅では、七緒が不安げにコルデラの顔を覗き込んでいる。

「……。なにが、あったのでしょう」

 ゆっくりと半身を持ち上げながら、寝起きのようなかすれた声で言う。七緒はすぐには答えなかった。

「まずはおからだを休めてください。食欲はありますか?」

「あまり、ありません」

「でしたら、これだけでも」

 七緒が差し出したのは、小さなチョコレートである。市販の、誰でも入手ができるようなものだ。口に入れると途端に溶けだして、不思議とからだが温まった。

「蜃が来ていたのですよ」七緒が言う。「あなたを自分の棲み処へと連れ込もうとしたんです」

「蜃?」

「大蛤のことです。ありもしない幻を見せます。そうやって、気に入った人を連れ去っていたようです。あなたが無事でよかった」

 七緒はほっと小さく息を吐き出し、椅子から腰を浮かせる。

「お風呂を立ててきます。まずは温まって、それからお夕飯にしましょう。チョコレートは置いておきますから、好きに食べてください」

 ベッドのサイドテーブルに小さな箱状のケースを置いて、部屋を出て行く。その背中を見送り、コルデラは女に引かれた手を眺めた。指先が冷えて、かすかに震えている。けれど、それとは逆の手はどういうわけか温かい。

 チョコレートをもう一口。また少し、からだが解れてゆくようであった。

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