宇宙に浮かぶ風船を掴むような話

 あれから一週間ほど経ったが、僕たちが犯した罪について問いただされることはなかった。お咎めなしというわけではないだろう。あれだけのことをしでかしたのだ。問題になっていないわけがない。しかしベッドの上でだらだらと欠伸を噛み殺すことはあっても、狂った大人たちに理不尽に寝首を掻かれたりすることはなかった。

 窓ガラスなどが割れて校舎内が危険な状態のため、しばらくの間は一時休校とする――というような旨が学校側から伝えられたのだ。台風の影響でまともに授業を受けられるような状況ではないらしい。要するに、学校を壊すなどという奇行に走った僕たちのあの夜の出来事は、何ともまあ都合が良いことに台風の所為になってしまったというわけだ。現時点では。

 

 そのため生徒らは今のところ全員が自宅学習を強いられている。遅れが出ないようリモートでの授業やある程度の課題などは出されているが、それを真剣に取り組む気には一向になれなかった。


 寝返りを打つと寝違えた場所が痛かった。


 母さんからあの話を聞かされたときから、なぜだか僕は何事にもやる気が起こらなかった。一日を無駄に過ごすことが増え、夕飯もほとんど喉には通らなかった。一回だけ家族三人で姉さんのことについて話し合ったことがあったけれど、そのときの内容はもう記憶にない。おそらくそのとき僕は頑なに口を開こうとしなかったのだと思う。自分が何か言葉を発したという記憶さえ頭にはなかったからだ。

 カーテンの閉められた暗がりの一室、窓外から聞こえる車の走行音、携帯の検索欄に表示された「自殺とは」の文字。日常は退屈と薄暗さで出来ていた。それでも彼女と通話をすることだけは、毎日欠かさずに続けていた。「おはよう」とスマートフォン越しに自分たちの声を聞き、お互いに生きていることを確認し合った。朝と昼と夜、先に気づいた方が電話をかける、そういう決まりごとで一時間ほど語り合った。


「自転車はいつ返しに行くの?」


 九月に入って二週目の夜、彼女が思い出したかのように訊いてきた。


「明日にでも返しに行こうかな」と僕は携帯を耳に当てながら言った。「時間ならいくらでもあるし」

「まあね」と彼女は苦笑した。「でも来週がいいな。その日なら私も抜け出せるから」

「なら来週の月曜あたりにしようか」


 聞いた話によると、彼女も両親と自殺のことについて話し合ったらしい。それによって親子間の仲も多少は改善されたと言っていた。詳しいことは知らないが、それはまた直接会ったときに訊けばいいと僕は思った。ベッドから上体を起こし、壁に張り付けられたカレンダーを眺める。


「それでさ、ちょっと寄りたいところがあるんだけど、いいかな?」

「……寄りたいところ?」彼女が不思議そうな声で訊ねてきた。

「うん」と僕は視線を落とす。「姉さんの墓参りに行きたいんだ」

 すると、僅かな間があった。「それなら、なおさらちょうどいいのかもしれないね」携帯から聞こえた声はいたく穏やかだった。



※ ※ ※ ※



 あと一ヶ月もすれば姉さんの命日だった。しかし僕は彼女の墓参りには一回も行ったことがなかった。墓参りに行くことで心に巣食う黒いもやが消えるわけではないけれど、行かないよりはましだと思った。

 秋分の日から三日前の、よく晴れたろくでもない夏の午後のこと。自転車を元あった場所に戻した帰り道で、彼女が僕の隣を歩きながら言った。


「この話はまだしてなかったよね」


 僕は宇宙そらに向かって手を伸ばす彼女のことを、ぼんやりと見つめていた。


「高校一年生のときかな。実はね、私たちってそれくらいの時期に会ってたことがあるんだよ」

「ぜんぜん思い出せない」と僕は言った。いくら記憶を探ろうとも思い出せない。

「クリスマスイブだったかな」彼女は歩道の脇にある、十センチばかりの石の段差に上った。「私、生きてるのが嫌になっちゃったときがあったの。もちろん今も変わらないんだけどね。そのときに、腹が立ったから衝動的に死んでやろうと思ったんだ。それで家を飛び出したときに、偶然、君と出会った」

 そこでふと思い至った。「もしかして、夜の海に飛び込もうとしてた、あのときの?」

「そう。それだよ。やっと思い出した」


 僕にとって、夜に出歩くことは珍しいことではなかった。それは両親へのささやかな反抗でもあったのだが、その日は少しばかり違った。

 姉さんが死んで、僕は感情の対処の仕方がわからなくなっていた。どうすればこの気持ちは落ち着くのだろうと思って、あてどなく彷徨っているうちに辿り着いたのが海だった。別に飛び込んでやろうという思いでそこに訪れたわけではない。しかし、飛び込んだらどうなってしまうんだろう、という思いは絶え間なく僕の頭に巡っていた。

 そうやって思いを巡らせているとき、少し離れた場所で、僕と同じように海を眺めている人がいた。おそらくそれが彼女だったのだろう。そのときは視界が暗闇で覆われていたため彼女の顔はわからなかったが、わからないからこそ、僕たちはお互いに語り合うことができた。

 特に心に残るような明確な話があったわけではなかった。僕が彼女の相談に乗って、彼女が僕の相談に乗る。それだけのことだった。ただ、そのおかげで少しは楽になることができたのだから、意味がなかったなんてことは絶対にない。


「それからさ、学校とかですれ違ったときとかに、視線を送ったり軽いジェスチャーを送ってみたりしたんだけど、夕はぜんぜん無反応だった。気づいてたのは私だけだったみたいだね」

「ごめん」、と僕は素直に謝った。「あのときは色々と思いつめてることが多かったんだ。だからいちいち人の顔とか声を覚えたりする気力がなかった。もちろんそれは、今も変わらないんだけど」

 彼女がくしゃっとした笑みを見せた。「今度からはちゃんと覚えるんだぞ」。そして石の段差から小さく飛び降りると、空に浮かぶ太陽をおもむろに眺めた。「あのさ。これってひょっとすると、何かの縁だったりするのかな……」

「どうだろうね」僕は斜め下を見ながら言った。「僕は、あまり縁とか運命ってものは、信じないようにしてるんだ」

「ふうん……そういうもんかあ」そう言って彼女は何かに納得していた。「なら、この話は聞かなかったことにしてよ」


 運命というものが本当に存在するものならば、それを作った神様はきっと意地の悪いやつだ。誰かが出会ったり、誰かが結ばれたり、誰かが死んでしまったり、そういうものがあらかじめ定められた出来事であるというのは、とても陳腐で、とても悲しいことのように思える。だから僕は信じない。

 僕たちが運命なんて言葉を使うのは、何かを諦めるときと何かを願いたいときだけのことだ。この法則性のない人生に意味を見出したいときだけ、僕たちはそれを運命と名付ける。


 でもどうして、人間には死ぬことが定められているんだろう。



※ ※ ※ ※



 蝉が鳴いていた。

 僕は姉さんの墓の前にしゃがみ込むと、その場所を濡れた雑巾で掃除した。以前もここに誰かが来ていたようで、汚れという汚れはあまり見当たらなかった。それでも僕は彼女と一緒に墓を掃除した。彼女は何も言わずに手伝ってくれた。

 手桶に清水を汲むと、それを墓石に浴びせた。そして花立にカーネーションを添え、お供え物を並べてから線香をあげた。線香のつんとした匂いが鼻先を掠める。


「お姉さんはどんな人だったの?」


 彼女が僕と同じようにしゃがみ込みながら、訊いてきた。そういえば、彼女には姉さんが死んでしまったという事実しか、まだ伝えていなかった。


「優しい人だった」


 僕がそれだけ言うと、彼女の口元が僅かに綻んだ。

 姉さんは優しい人だった。たぶん、僕が思っているよりもずっと、優しい人だった。しかしそれ以外の彼女の性格について記述することは、今の僕にはできない。彼女が僕の居場所になってくれることはあっても、僕が彼女の居場所になろうとすることは一度もなかったからだ。

 あの頃の僕は誰かに縋ることでしか生き方を見つけられなかった。それもあるいは仕方がないことなのかもしれない。しかし僕が一度でも姉さんの居場所になってあげられることがあったなら、また未来は違っていたかもしれないのだ。そう思うとたまらなく悔しかった。


 今さら何を償おうという気はない。そうしたところで事態は好転しないし、むしろ今よりもひどい状態になる可能性だってあった。だけれどこれだけは言わせてもらいたかった。あの頃そばにいてくれた彼女に、あの頃の僕を救ってくれた彼女に、ムーンダストの花言葉を込めて。


「姉さん、今までありがとう」


 たったそれだけのことだ。


 

※ ※ ※ ※



 ふとした成り行きで寄った昔懐かしい駄菓子屋で、僕たちはラムネ瓶を二つ買った。彼女はそのラムネ瓶を入道雲の映える青空にかざすと、陽の光に透かすように小さく傾けた。からん、とビー玉が転んだ音がした。


 人のいないバス停を通り過ぎると、潮の香りと夏の匂いがした。


 僕たちにとってこの街で唯一誇れる場所があるとするならば、海が近いということくらいだろう。それ以外に特筆すべきところは見当たらなかった。しかしそのおかげと言っては何だが、ただ無造作に生えるだけの雑草や、白昼の日差しにのぼせ上ったアスファルト道路、遠く微かに窺える群青色の空と海までもが、ことさら美しく見えていた。


「人生に美しさを求めるなら、あまり派手なことはいらないね、やっぱり」


 彼女が掲げていた腕を下ろした。そうだね、と僕は肯いた。

 それから自分たちのラムネ瓶を近づけると、祝杯でも上げるかのように小さく打ち合わせた。


 夏が終わろうとしている。



※ ※ ※ ※



 学校には、それから一ヶ月も経たないうちに登校できるようになっていた。

 久しぶりに登校するということで若干の緊張を覚えながらも、僕は覚悟を決めて玄関の扉を開けた。不思議なもので、僕たちが壊したはずの昇降口や廊下などの窓ガラスは、跡形もなく綺麗に修復されていた。床にこべりついていたロケット花火の煤も、校庭に投げ出されていた机と椅子も、黒板に書き記されていた僕たちの心の叫びも、まるでそれが何かの間違いだったかのように綺麗さっぱりと正されていた。


 教室の扉を開ける。いつも通りに胃が痛くなった。けれど、ちらりと視線を向けてくる者はいても、僕のことを好奇や軽蔑の混じった視線で見てくる者は誰一人としていなかった。

 学校が休みだった間はゲームに勤しんでいた、と隣に座る男子が誇らしげに語っている。お前馬鹿かよ、それを揶揄う友人がいる。授業が遅れた所為で受験勉強に支障をきたした、と将来に不安を抱く女子がいる。部活の練習ができなくて憂鬱だった、と腹を立てる背の高いやつがいて、終わっていない課題を今終わらせようとしているのろまなやつが数人いて、当たり前のようにがやがやと騒ぎ合う誰かがそこら中に溢れていて、でも、廊下側のいちばん前の席――彼女の席だったはずのその場所には、誰も座っていなかった。


「あれ、そういえば、蒼山さんって今日、学校来てないの?」

「お前知らないのかよ」と誰かが言った。「噂になってんじゃねえか」

「噂?」と男子の一人が訊ねる。

「ほら、あれだよあれ、なんだっけか」と誰かが言った。「蒼山さん、家庭の事情で転校することになったらしいぜ。というか、学校に来てないってことは、もうしちまった後かもな」

「え、まじかよ」驚きの声が隣から聞こえた。


 息が詰まった。僕はそれを、このとき初めて知った。

 彼女は何も言わずにどこかへ行ってしまった。昨日の夜までは確かに彼女の声を聞いていたのだ。電話越しにおはようを言って、おやすみを言い合って眠りについた。両親との仲も良好だし、君は何一つ気にすることなんかないよ、彼女はそう言って僕を安心させた。それもこれも何もかもが嘘だったのだろうか。

 

 教室に入ってきた担任の教師が開口一番にこう言った。今、この場にいない蒼山は家庭の事情で転校することになった、もうこの教室で授業を受けることはないだろう、と。家庭の事情とは何だろう。そのことについては誰も教えてくれなかった。あるいは誰も知らないのかもしれなかった。

 話は休校と夏休みの課題に移った。

 しかし聞こえてくる言葉はどれも当然のように僕の耳元をすり抜けていった。一時限目の授業が始まってもそれは治まることはなく、むしろ僕の心を無理やりに締めつける言葉の呪いとなった。そのあいだ僕は蹲るように頭を押さえ続け、窓外の景色を眺めることで襲い掛かってくる呪縛をやり過ごした。


 休み時間に入って数分が経ち、雑音から逃げるように教室を出る。


 そしておかしな点に気がついた。いや、もともと僕はそれを奇妙に思っていたのだ。なぜ自分が普段通りに学校へ登校できているのかということを。

 僕はあの夜、確かに学校をめちゃくちゃにした。それは人の仕業としか言いようのないものなのに、学校側はすべて自然災害によるものだと決めつけた。

 やけにあっさりとしすぎている。あるいはそれが彼女の転校と何か関係があることなら、僕はきっととんでもない馬鹿だった。裏で行われていることに気づかず、のうのうとこの場で頭を抱え続けているのだから。


 不意に、廊下の先から女子たちの話し声が聞こえてきた。クラスメイトの女子三人だ。その中の一人は僕がよく知っている人物だったが、構わずに僕は通り過ぎようとした。しかしそのときだった。


「さっき、美月が職員室にいたんだよね」

「うそ」と女子の中の一人が言った。「どういうこと?」

「なんていうか、最後の挨拶に来てたみたい。私もはなし訊いてみたんだけど、急いでるからって途中で遮られて――」と、言いかけた直後だった。


 僕はその女子の目の前まで近づき、「それって本当?」と真剣に訊ねていた。静寂が広がる。彼女は壁際に追い詰められる形で戸惑っていた。

 それを見かねてか、誰かが僕の手を強く引っ張った。


「八尋くん、来て」


 え、と僕は声を上げる。そのまま階段の踊り場まで連れていかれ、いきなりあんなことしちゃだめだよ、と軽い説教を食らった。


「ごめん……でも、知りたかったんだ。美月がどこにいるのかを」

「わかってる」


 眼前で腰に手を当てていた折原莉子は、僕のその言葉を聞いてふっと微笑んだ。


「追いかけるんでしょ?」


 僕は下げていた視線を上げた。そのつもりだった。


「今なら間に合うかもしれない。先生にはわたしが伝えとく。だから八尋くんは、気にせずに行っちゃって」


 後ろに回り込まれ、背中をぽんっと押された。僕は少しよろけながらも、ありがとう、と言った。

 まさか彼女にそう言われるとは思わなかった。あのとき、僕は彼女に最低なことをしたというのに。彼女は何でもない風に笑っていた。それが強がりからくる笑顔なのかはわからないが、その笑顔が、僕の気持ちを少しだけ楽にさせてくれたことは確かだった。


 階段を勢いよく下る。僕はなりふり構わずに全力で走った。周りの視線を気にすることもなく、昇降口を突っ切って通学路だった場所をひた走った。

 彼女がどこにいるかなんてわからなかった。でも、それならば街中まちじゅうを駆け回るくらいはしてやると僕は思った。辺りを見回し、どこにもいない彼女を探す。そして河川敷に架かる大きな橋を半分渡り切ったところで、ふと足を止めた。

 息切れを起こした呼吸を整えて、頬に伝った一筋の汗を拭う。

 目線の先には、あの頃よりもいくぶん短く、だけれど何の変わりようもない黒髪を靡かせる一人の女の子がいた。胸の底から熱い思いが迫り上がり、思わず声が出そうになった。


 果たして、彼女はそこにいた。



※ ※ ※ ※



 彼女はいつかのときみたく欄干に寄りかかっていた。そして僕の存在に気がつくと、驚いたように目を見開き、こちらに体を向けた。


「そっか……、バレちゃったのか」

 僕は声を張り上げた。「どうして、どうして何も言わずにいなくなっちゃうんだよ」

「ごめんなさい」と彼女は悲しそうな顔をした。それから僕のところまで歩いてくると、「理由を話してもいいんだけどさ」と目を合わせて言ってきた。「その前に、ちょっとだけ私に付き合ってよ」


 ちょっとだけ、と彼女は僕の服の裾をつまんだ。言い返したい気持ちはあったが、当然のことながら僕が彼女の頼みごとを断れるわけもなく、言われるがままについていくことになった。

 向かったのは映画館だった。そこで僕たちは隣り合わせで座り、何も語らずに映画が始まるのを待った。

 あなたは死にたいと思ったことはありますか? とてもありふれた問いを投げかける映画だった。なんてことのない。なんてことのない物語。それを一頻り眺めた後はサイゼリヤでランチをした。

 彼女はいったい何がしたいんだろう、と思ったが、たぶんそこに意味はなかった。

 それから僕たちはアウトレットパークの隣にある遊園地に行った。家族連れや子供用のアトラクションの多い、昭和レトロな遊園地だった。その場所には唯一大人だけでも楽しめるような、県内最大級の観覧車があった。彼女はゴンドラの外に見える東京湾を眺めながら、「忘れられない一日になりそうだね」と言った。

 本当にそんな気がした。やっていることは今までと何も変わらないのに、そこから見える景色はどこか印象深く映った。街を見下ろす彼女に、いつの間にか、僕は指で作ったファインダーを当てていた。


 そんなことをしているうちに、空の向こう側から茜色の光が滲みだしていた。


 僕たちは船着き場をとぼとぼと歩いていた。そして歩いた先に見えたのは夕焼けに染まる海岸だった。数年前まではここに、海中電柱と呼ばれるものが海上に連なっていたが、撤去されてからは哀愁漂う海岸がさらに物寂しくなってしまったように見える。それもこれも、僕たちにとってはどうでもいいことだったのだろうけれど。

 錆びれた柵の前で立ち止まると、彼女が遠くを見つめながら口を開いた。


「両親が離婚したの」


 波が堤防を打ちつける音がした。


「私は母親の方に引き取られることになった」と彼女は言う。「これから東京で暮らすことになるんだって」

「だから、転校することになったのか」と僕は納得した。

「うん。みんなに挨拶しようと思って学校にも行ったんだけど、なんだか勇気も出なくてさ」


 彼女が学校の制服姿だったのも、おそらくはそれが理由なのだろう。


「前々から離婚することは決まってたの。それは君にも言ったよね。でも、今回の一件がその決め手になったみたい」

「今回の一件」僕はつぶやいた。「やっぱり、僕に隠してたことがあったんだね」

「あからさま、だったかな」と彼女は言った。上手く隠してたつもりだったんだけどな、とは言わなかった。「まあ、それも当たり前か」


 海鳥が朱色の風景を背に飛んでいた。幾つもの黒い影があてもなく遠方に消えてゆく。おもむろに視線を下ろしてみると、文字の部分が擦り切れている「立ち入り禁止」の看板が見えた。


「あの日、学校を壊した後の帰り道で、何事もなく私たちは別れたよね」

「うん」と僕は肯いた。逃げることも隠れることもせず、ただ自分たちが報いを受けるのを待った。

「でもね、そのあとに私、学校に連絡したんだ。私が犯人ですって」


 風が吹いた。まるで悪いことを悪いことではないと窘めてくれるような優しい風だった。「親にも言ったの」と彼女は頬を撫でる髪を指先でよけた。

  

「それで校長先生と教頭先生、あとはお父さんとお母さん、私を含めた五人で話し合いをすることになった。やっぱりお父さんはすごい怒ってた。お前の所為でこっちがどれだけ迷惑してると思ってるんだって。お母さんも、呆れてものが言えないみたいだった。弁償するために必要なお金が、うちにはなかったから」

「でも、僕たちがあの日犯したことのすべてが、自然災害の一言で片づけられた」と僕は言った。「君の所為にも、僕の所為にもならなかった」

「それには理由があるの」と彼女は答えた。「全部打ち明けたんだ、私。これまでのこと、全部。そしてこの体の傷をさらけ出して、あなたたちの所為でこうなったんだよ、ってちゃんと伝えた」


 そしたらどうなったと思う? と彼女が訊いてきた。


「どうなったの?」と僕は訊き返した。

「学校側はこの事件を隠蔽することに決めたの。仮にも私はこの学校の優等生として通ってたから、そんな人間が学校をめちゃくちゃにしたなんてことが露呈したら、世間からどう見られるかわからない。お父さんとお母さんも、自分たちの立場が危うくなると思ったんだろうね。自分たちの所為で娘がこんなことをしたと知れたら、これから先の人生はきっと生きづらいものになるから。だから全員が揃って保身に走った」


 驚くことではなかった。体裁を気にするばかりでいるこの現代社会で、それはさして珍しいことではないんじゃないかと僕は思った。


「でも。私は別に、自分一人が罪を着せられることがあってもいいと思ってたんだ。結果的には私も君も咎められることはなかったけれど、今もそう思ってる」

「全部、自分一人で抱え込もうとしてたんだね」と僕は言った。


 彼女は何も言わなかった。ふっとやわらかに微笑んだだけだった。


「嘘ついててごめんね」


 その間も波のさざめきは僕たちの耳に深く入り込んでいた。

 これは僕が勝手に思っていることだから、何の確証もないことだ。しかし、彼女が僕のために罪を被ろうとしてくれていたのなら、それを信じたかった。

 否定するつもりはない。彼女の正しさは僕の正しさだった。そして僕の正しさは、彼女の正しさでもあってほしかった。


「実は僕も、君に嘘をついていたことがあるんだ」

「え?」と彼女が振り向いた。

 僕は微笑みを返し、続けた。「一緒に自殺するっていう目的で君の共犯者になったけど、最初から死ぬつもりはなかったんだ。初めは好奇心だった。たぶん、死んでしまった姉さんと、君を重ね合わせていたんだと思う」


 それから僕は、少しだけ姉さんのことについて語った。姉さんが半年ほど前に自殺してしまったこと、そのことでずっと心の中にしこりがあったこと、そして死んでしまう前は彼女が僕の居場所だったということを。


「そう、だったんだ……」と美月は声を沈めた。

「でも、途中から、君を死なせないためにはどうすればいいのか、ってことを考えるようになってた。このまま明るい日々を過ごしていけば、もしかしたら思いとどまってくれるんじゃないかとか、それがだめなら、やっぱり君を引き留められるのは僕じゃないんじゃないかとか、思ったりしたときもあった。……好きだから、君には死んでほしくなかったんだよ」


 僕がそう言うと、はっと息を吞み込むような声が聞こえた。

 僕たちは今、確かに生きている。しかし、それは延命と言っても差し支えないことだった。あのとき、屋上で彼女が生きることを決断したのは、僕に死んでほしくはないと願っていたからだと思った。それが達成された今、彼女には何一つ生きる理由なんてなかった。なぜなら彼女は、もともと死のうとしていた人間なのだから。


「まだ、死のうとしているわけじゃないよね?」と僕は訊いた。


 その問いに答えは返ってこなかった。

 転校をするということを口実にして、僕から離れるつもりなら、それはたぶん間違ったことだった。

 彼女のことだから、自分がそばにいることで、かえって僕が不幸になってしまうとでも思っているのかもしれない。そして僕に気づかれないところで、誰にも気づかれないところで、ひっそりと死のうとでも思っているのかもしれない。どれも不確かなことばかりだけれど、そうだとしたら、彼女はとんでもなく馬鹿だった。だから僕は言ったのだ。「美月、大丈夫だよ」と。


「これから頑張ろう。僕も一緒に頑張るから」


 それはかつて姉さんが言ってくれた言葉だった。その言葉が、どれだけ僕の救いになってくれたかはわからない。だから、少しでも彼女の救いになればいいなと思った。

 

「君が長生きする理由は、僕が作るから」


 僕はそう言って彼女の手を握った。しばらくして、その手はゆっくりと握り返された。彼女は泣きそうになるのを堪えて、それでも歪んでしまう顔を隠しきれていなかった。震えた唇のまま、


「そんなこと言われたら、死にたくなくなるじゃん」


 そう言った。両目から、堪えられなくなったものが次々と落ちていった。まるで雨の日の雨樋みたいに溢れて止まらなかった。


 僕たちの生きる世界は短くて狭い。短い時間ときの流れに縛られていて、新しい場所に視野を広げようとするとどうしようもなく怖くなる。でも彼女がいてくれるなら安心できる。

 どうしてだろうか。

 不思議だな、と僕は思う。思い返すと、あっという間に過ぎ去っていたはずのこの三ヶ月間はとても長く感じられた。それはたぶん、何も成せなかったあの頃の人生より、彼女と過ごしてきたこの何でもない日々の方が心に残るものが多かったからだ。

 これまで、自分がどれだけ無駄な時間を過ごしてきたのかを改めて理解した。でも彼女がそばにいてくれるなら、その無駄は無駄ではなかった。


「空って、こんなに綺麗だったっけ」


 手を繋ぎながら、僕たちは目の前に広がる景色を眺めた。

 夜に移りゆく夕暮れ時の空が、鮮やかなグラデーションを残して瞳の奥底に映り込む。海や堤防には未だ残照が降り注いでいて、見上げればずっと先に星の瞬きがあった。僕たちは取り残され、まるで世界の狭間にいるようだった。

 やがて景色は移り変わり、血のように真っ赤だったはずの空はすっかりと夜の色に染まっていた。光と影のコントラストにぼかされた僕たちは、その瑠璃色の風景と一体となるように溶けて混ざり合った。

 工場が煙を吐いている。幾つもの煙突やコンビナートを抜けた向こう側に、彼女が移り住むという東京の街がある。少し寂しくなるかもしれない。それでも時間は待ってくれない。たとえ何があろうと、夜は明けるし、雨は降る。

 ならば永遠に明日なんて来なければよかった。

 ずっとこのままでいたかった。時間さえ止まってくれれば、ずっとこのままでいられるのに。

 そんな風に、僕たちはありもしない奇跡を追っていた。

 


※ ※ ※ ※



 そしてようやく夢が覚める。


 彼女が死んだと知らされたのは、それから数日が経ってからのことだった。

 

 

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