真夜中、君の演奏は最高の特等席で
物心つく前から習い事を強要させられていたわけではない。あるときを境に母は私にクラシック音楽を聴かせるようになった。そのきっかけというのは正直なところ私にはわからないが、私が周りの大人から褒められるたびに母はそれを自分のことのように喜んだ。
幼い私にとって、いつも聴かされるのはわけのわからないクラシック音楽ばかりだった。のちにレッスンに通うことによってそれがバッハであったりシューベルトであることは知れたのだが、母がその曲のタイトルまで知っていたのかは定かではなかった。おそらくは知らないだろう。
私が知る限り、母は暴動に近い教育を娘に強いるほど厳しい人間ではなかった。どちらかと言えば奔放で品が無く、容姿が秀でているということを除けば夜の街に出歩いていてもおかしくはない装いをしていた。だから父がこんな母と結婚したことに、私は未だ理解が追いついていない。
父は厳しい人間だった。箸の持ち方や親に対する態度はもちろん、常識的なことを一つでも間違えれば必ず強い口調で指摘してくる。お前はそんな簡単なことすら覚えられないのか、と。私が門限を破って夜遅くに帰って来たときも、父はその厳しさに拍車をかけるように怒声を浴びせてきた。そして私の髪を頭頂部から鷲掴みにすると、力づくでクローゼットに閉じ込めた。抵抗したときにできた頬の痣と、抜け落ちた数十本あまりの髪が心に傷をつけた。
光のないクローゼットの中で、何度「ごめんなさい」と謝罪したのかは覚えていない。吐き出すくらい昏い気持ちになって、延々と泣いていた。
父がなぜそんなにもつらく当たってくるのか、それは娘を愛すという以前に確かな理由が他にあった。
「美月。この人がね、あなたの本当のお父さんなのよ」
小学校高学年の頃だったと思う。聴き慣れたクラシック音楽が流れる高級レストランで、母は目の前の――自分のことを弁護士だと名乗る男をそんな風に紹介した。私のレッスン代や洋服、その他もろもろの支援はこの男が行っているのだと。だが本当にその男が父親なのかは疑わしかった。なぜならその男は初めて顔を合わせたときから、私の顔や体を舐めるようにじろじろと凝視してきたからだ。十二歳にも満たない未熟な子供に、それよりも二回り上の大人が欲情していた。
とはいえ、母が私を騙すためにあの言葉を吐いたわけではないことは、なんとなくだが理解できていた。毎晩聞かされる言い争いの中でたびたび耳にした、「俺は美月が自分の子供だと聞いたから、お前と結婚したんだ」という父親の言葉。
私が誰の子であるのか、母は知らなかった。それは今の父親であるかもしれないし、もしくはあの胡散臭い弁護士の男かもしれなかった。いずれにせよ父は私を娘とは思っていないようだった。私もそう思っていた。
だからあの日、兄が私を襲ったのも、つまりは血の繋がりのない他人だったからと思えば得心がいった。
私が中学に上がる頃には、兄はすでに部屋で引き籠っていた。就職に失敗してからは惰眠を貪るばかりで、働こうとする意思すら碌になかった。それまで私立の進学校で日々を過ごし、エスカレーター式に大学まで行き着いた兄。特に成績が良かったというわけではないが、社交的で誰とでも打ち解けられていた。だから友人もそれなりにいたし、恋人が絶えたこともなかったと思う。
それは兄が世間一般で言うところのスポイルド・チャイルドだったからかもしれない。母親はそうではなかったが、父親に頼めばやりたいことはなんだってやらせてもらえたし、私と違って叱られているところは一度も見たことがない。せいぜい注意くらいのことだろう。
それゆえに膨れ上がったプライドは大きく、自分の人生は成功に満ち溢れていると信じて疑わなかった。しかしそれは、これまでの人生で奇跡的に失敗を経験したことがないというだけで、その幻想が打ち砕かれたとき兄は急激にやさぐれた。
周りの同級生たちが次々と内定をもらっていく中で、兄だけが未だ就職活動を行っているという状態だった。何の努力もなしに生きてきたのだから当然のことだった。そして兄が引き籠ったことにより母は、「あんな風になっちゃだめよ」「あなたは特別な子なんだから」とよりいっそう教育に熱を入れるようになり、父はまた過剰な暴力で私を苦しめた。まるでそれは自分たちの子供で競い合っているようで、そしてあるいはどちらが上手く私を育てられるのか争っているようで。
躾、というにはどこまでも間違いだらけなことだった。
時間が経てば少しは楽になることもあるのかもしれないと、そんな風に思っている時期もあった。しかし私を取り巻く不合理はむしろ悪化の一途を辿るばかりで、ついには兄さえも私に牙を向けるようになったのだから救われない。
中学生になってから、およそ二年間だ。
周りが寝静まった真夜中に、兄は私の部屋に侵入して、私の身体を幾度となくまさぐった。最初は服の上からだった。熟睡している私を起こさないように慎重に触っているようだったが、次第にエスカレートしていくその行為にけれど気づかずにいられるわけがなかった。
恐怖で身動きが取れなかった私はじっとそれに耐えていて、ただ声を押し殺すことしかできなかったのだ。そして一年が経った頃には自重というものはほとんどなくなっていた。兄は私の服を慣れた手つきでたくし上げると、そのとき露出した白い柔肌を、首筋からくびれにかけて舌で撫でていった。空いた手は太腿と臀部の辺りをいやらしくなぞり、視線は目の前の身体に釘付けだった。
こんなことをされてもまだ抵抗できない自分が、情けなかった。この男が他人だという事実も、怯えに打ち勝てない原因なのかもしれなかった。
ただ、それでも一線を越えることだけは死んでも阻止したかったのか、兄がその下半身を晒した瞬間に私は声を上げていた。
「――嫌ッ!」
強く押しのけられ、兄はベッドから転げ落ちた。それから驚愕した顔で私を見つめると、そこにあられもない姿の妹が映ったからだろうか、ふと我に返ったように「違うっ、違うんだ俺じゃない!」と慌てて部屋から飛び出していった。
取り残された私は、脱がされた服を胸元に手繰り寄せ、静かに泣いた。
心はとっくに壊れていた。生きている実感もこのときにはすでになく、異性に対してこれ以上ないまでの気持ち悪さを覚えていた。そしてそれは自分の身体を傷つける要因ともなった。
上半身を重点的に傷つけていたのは、ただ単にそこがやりやすかったのもあったし、周りに気取られないための小さな知恵でもあった。しかしそれが全身に広がるのも時間の問題だった。こんな風に男を誘惑するためだけにあるような身体は必要ない。日に日に育っていくその果実を、成熟する前に醜く切り刻むのだ。
そうやって自分を痛めつけると心が軽くなった。たぶん、死んでしまえばもっと楽になれる。自分を愛しすぎた母も、義務的にしか娘を育てなくなった父も、欲望に逆らえなくなった兄も、私が死んだところで悲しんではくれないだろうけど、私がいなくなれば少しは生きやすくなると思う。
だから、どうか自由にさせてください。
もう、あなたたちに迷惑はかけないので。きっと、悪いことをするのはこれで最後にするので。どうか――。
「準備はいい?」
私がそう声をかけると、陰鬱な雨をじっと眺めていた彼は、ゆっくりと振り向いた。
「もちろん」金属バットを片手に持ちながら、私の隣まで歩いてくる。「蒼山さんこそ、準備はできてるの?」
私は彼が選んでくれた半袖のワンピースを抱きしめ、うん、と小さく肯いた。このワンピースに包まれているだけで、何も怖くなかった。そう思えていることがすべての答えだということもわかっていた。
聡明に生きろだなんて誰が言ったのだ。拡声器を持って思い切り叫んでやりたかった。この世界には賢く生きること以外にも正しいことはあるのだと。
土砂降りの雨を背後に、私たちは視線を交わして肯き合った。もう後には引けない。止まることはできない。私が昇降口のドアに鉄パイプの先端を向けると、彼は同じように金属バットを前方に突き出した。それから私たちは手に持ったそれらを大きく振りかぶると、勢いよくガラスに叩きつけた。叩きつけてしまったのだ。
甲高い、悲鳴のような音が響き渡った。
※ ※ ※ ※
僕は今、とてもいけないことをしている。台風の日に海へ行くくらい不謹慎で危ないことを、僕たちはしている。
校舎内の窓ガラスを片っ端から割って歩いた。順番など決めず、目についたガラスどもを僕たちのどちらかが率先して叩き割ってゆく。その衝撃で銀色の破片が至るところに飛び散り、廊下の床にぱらぱらと疑似的な雪を降らせた。
割れた窓からは横殴りの雨が降り注ぐ。僕たちは雨に濡れながら水浸しになった廊下を闊歩し、そして床に散りばめられた破片を大袈裟に踏み鳴らした。
ぴちゃん、ぴちゃん。ぱりん、ぱりん。空虚なトンネルに響き渡る、僕たちの堂々とした足音。彼女はその、暗闇に侵されたトンネルを先導するように、僕の手を引っ張った。やわらかい手のひらの感触に心臓を高鳴らせながら、僕もまた彼女についていく。
普通に憧れていました。皆みたいに普通に生きてみたいです。でもその望みが叶ってしまえば、なんだか窮屈で息苦しくなりそうなのでやっぱり嫌です。生き方なんかに、正解はあるのでしょうか? 黒板につらつらと書き記した言葉は、僕たちの心にひどく浸透した。痛くて泣き叫びたいくらいに浸透していった。
だからこそ彼女はそこで、自身のちっぽけな悩みを僕に打ち明けたのかもしれない。「私の最近の悩みはね、寝不足で、おでこにニキビができちゃったこと」。晒された額には、蚊に刺され程度の小さなできものができていた。
「珍しいね」、と僕は笑った。そして彼女の前髪を左右に掻き分け、額全体を空気に当てる。「でも、そっちの方が人間らしい」
「褒め言葉?」
褒め言葉、と僕が返せば、彼女はおでこを丸出しにしたまま笑った。濡れた髪と濡れた服から滴る雫が、僕たちの教室に音のない音を立てる。
悪いことをしているという罪悪感による高揚と、彼女に対するこの想いが胸の動悸を早まらせていた。もしも僕が彼女に好意を寄せていなかったら、この狂わしくて悩ましい動悸を何とたとえるだろうか。それこそ安直で馬鹿らしいたとえなのだが、これはもしかすると不治の病なのかもしれない。どんな名医も薬も、そして神様だって治せやしない底なしの病。恋は、死に至る。
けれどこれじゃあ死ぬ以外に道はないじゃないか、と僕は不覚にも笑ってしまった。
彼女は屋根のない渡り廊下を踊りながら歩いていた。まるでバレエダンサーのようにくるくると回り、雨に打たれながらしなやかな指先を天に掲げる。水を吸ったワンピースが白いパラソルとなって透明な飛沫を上げた。
僕は校舎に侵入してから今まで、彼女のその美しい姿をただ眺めているだけだったのだけれど、渡り廊下を渡り切ったところで何を血迷ったかムーンウォークを披露してみせた。
それを見た彼女は腹を抱えて笑っていた。「初めてにしても、下手くそすぎない?」
「そうかな? 自分では上出来なんだけど」
「点数は上げられないね」厳しい先生だった。「でも、私の特別授業を受ければ特別に点数をつけてあげる」
「ぜひ、受けさせてください」と僕は言った。
うむ、と彼女は肯くと、僕の胸の辺りに背中をくっつけた。それから手を顔の横に持っていき、「ん」と何かを待った。僕はどうしたらいいのかわからず戸惑った。とりあえず抱きしめてはいけないことだけはわかるのだが、そうしていると「フォークダンス」と彼女がつぶやいた。
フォークダンスなんて、中学生以来だ。差し出された彼女の手に、僕は自分の手をそっと重ねた。先程まで重い鉄パイプを持っていた所為か、その手は微かに震えていた。そこからは彼女の体温や脈拍が流れ込むように伝ってくる。
どこか懐かしい思いに駆られながら、気づけば二人きりのフォークダンスが始まっていた。彼女が鼻歌で「オクラホマ・ミクサー」を歌い、雨音が伴奏となる。一歩前へ出て、一歩足を引く。そんな彼女に合わせて僕もまったく同じことをしてみせた。しかし不慣れが過ぎたのだろう。「んー、及第点!」、彼女にはそう言われてしまった。合格はできたからよしとするか、と僕は思うことにした。
そして僕たちが行き着いたのは音楽室だった。金属バットと鉄パイプはどこかに捨ててきてしまったので、窓は割ることはせずにそのまま開けた。弾丸のような雨と共に凄まじい風が吹き込んでくる。
彼女はピアノの椅子に座ると、手招きで僕を呼んだ。「八尋。こっちきて」
「ん、何か演奏でもしてくれるの?」僕は彼女の隣に立つ。それから黒と白の鍵盤をぼうっと見つめていると、
「ここに座って」と彼女が腰をずらし、椅子に半分だけスペースを作った。言われた通りに座ってみる。僕の腰が彼女の腰に密着する。肩もぴったりと触れていて、お互いに顔を向ければ唇すら触れそうだった。
「……何をすればいい?」と僕は訊いた。
「八尋はね、そのままでいいよ」と彼女は鍵盤に指先を添えた。「私の演奏を、特等席で聴かせてあげる」
少しだけ弾きづらそうに見えたけれど、それでいいような気がした。イヤホンを二人で共有するのも、一つの本を二人で読むのも、本当は一人でやった方が楽なことは知っている。音楽はよりクリアに聴こえるだろうし、本も一段と読みやすくなるのだろう。しかしそういう無駄な行為にこそ、意味があるような気がした。彼女と二人ならなんだって色づいてゆく。
外から降り込んでくる雨が鍵盤を濡らす。それはこのグランドピアノが窓際に近い位置にあったからだ。音楽室には僕ら二人だけしか存在しておらず、視界の端に並べられたいくつもの椅子は、すべてが空席だった。
僕は息を呑む。彼女の演奏が始まった。音楽室の黒いカーテンが風で吹き上がり、ショパンの「
※ ※ ※ ※
そのピアノの旋律が、しばらく経ってからも頭の中で鳴り響いていた。
僕たちは持参していたロケット花火に火をつけて、それを心ゆくまで廊下に放った。ぴゅーん、ときてれつな音を上げて飛び去っていく花火が、暗がりの廊下を一瞬だけ淡い橙色に染めていく。床に散乱したガラスが光を反射して煌めき、またすぐに色を失ったかと思えば、追いかけてきた花火によって再び光り艶めいた。何本もの槍が火花を散らして通過していく様を、すごい、と言いながら彼女が見つめている。
僕もそれを見据えながら、少しだけあの頃のことを思い起こしていた。辺りに立ち込める煙で視界が霞む。
姉さんの顔がどんなだったのか、僕はもう忘れてしまっている。揺れる長い髪と、暖かに笑う口元だけは見えていて、でもそこから上半分は、破られた写真のように見切れている。
初めて僕たちが対面したあの日、僕は不安に押しつぶされて死にそうな顔をしていたのに、姉さんだけは喜色に満ちた顔で笑っていたように思う。新しい家族。それは姉さんが言った言葉だった。母親と二人きりで暮らしていた僕は、同じく父親と二人きりで暮らしていた彼女と、その日を境に新しい家族になったのだ。
しかし、どんなに取り繕っても僕たちは他人だった。いや、そう思っていたのは結局のところ僕だけだったのかもしれない。
一度だけ、僕は父さんに怒られたことがある。声が小さい、と母さんに小一時間ほど説教され、それでも僕が煮え切らない態度を取っているときのことだった。
他の
そしてあの日、母さんは急に泣き出した。僕の反抗的な態度にとうとう耐えられなくなったのか、はたまた母親になるにはまだ若すぎる年齢だったためかはわからない。ただ誰かに泣き縋ってしまうまでには母さんも弱い人間だった。
「お母さんを泣かせるんじゃない」
温厚で口数の少ない父さんが、声を荒げるようにして怒鳴りつけてきた瞬間だった。僕は玄関の隅に追いやられ、肩を殴られた。顔や腹を狙うのではなく、何度も殴られたのは肩だった。それが父さんの気遣いだったのだとしても、僕は泣きながら怯えていた。
目の前の男が誰なのかわからなかった。何の確認もなく一緒に暮らすことになって、自然と家族みたいに振舞わなければいけなくなって、どうして自分はこんなところで見知らぬ他人に殴られているのだろうかと、計り知れない恐怖に身が持たなかった。
その日の夜、僕は布団をかぶりながら蹲っていた。じんじんと痛む肩を押さえて、すすり泣くことしかできなかった。それでも僕が逃げ出さずに何とか生きてこれたのは、きっと姉さんがいてくれたからだ。
「夕くん、大丈夫だよ」
そう言って僕を抱きしめてくれた姉さんは、いつでも僕の味方だった。特別に何かを施してくれたわけではない。
「これから頑張ろう。お姉ちゃんも一緒に頑張るから」
ただそれだけ、たったそれだけのこと。言葉をかけるだけの些細な優しさが、しかし僕の胸には仰々しく響いてしまった。
あの頃、僕のことをわかってくれるのは彼女だけだった。周りの大人たちは定められた正義を振りかざすばかりで、自分たちだって間違ったことをしているくせに、それを認めることができずに歪んだ思考を押しつけてくる。そんな善人ぶった彼らのようになることを、僕はたぶん恐れていたのかもしれない。
とはいえ、だから死のうと思ったわけではない。ありていに言えば、僕はただ、大切な人を失って途轍もなく悲しんでいたというだけなのだ。
※ ※ ※ ※
火遊びを終えた僕たちは、くたびれた体を引きずりながら屋上の踊り場まで辿り着いた。ちょっと待って、と言って彼女が合鍵を取り出す。それから屋上の扉を開けると、手招きして外に出ていった。
黒雲の向こうに雷鳴がとどろいていた。青白い光が街を覆い、雨で隠されていたはずの建物がほんの数瞬またたいた。彼女はその光に誘われるように、ゆっくりと足を進めた。雨が全身に重くのしかかっていた。屋上の地面や、高いところに設置された高架水槽、周りを囲う手すりなどに落ちた大粒が、大きく鮮烈な音を立てて冗談のように僕たちを濡らしていた。
やりたいことはやり終えた。愚痴を言いまくって映画を観尽くした。お金は使い切ったし、見たい景色もありあまるほどこの瞳に収めてきた。
しかし前を行く彼女の背中は、狭くてちっぽけなこの街よりもうんと小さく見えていた。当たり前なことではあるけれど、こんなときに限って僕たちはまだ、死にたくないと願ってしまっている。
「待って」
手すりに手を置いた彼女のことを、僕は引き留めていた。
ふいを突かれたように、彼女は振り向いた。その頬にはたくさんの雫が滴っていた。雨の所為だろうか。握った手の震えが、恐怖から来る震えだという確信が、僕にはあった。
「……どうして、そんなに悲しそうな顔してるの?」
「悲しくないよ、」と彼女は強がるように言った。思わず震えそうになる声を必死に抑えているようだった。
そして俯くと、少しの間を置いて、泣き笑いにも似た顔で僕を見上げる。
「嬉しくもないけどね」
静寂。雨はまだ盛大に降り続けていた。
僕たちはもう、引き返せないところまで来てしまっている。苦しくて、叫びたくて仕方がないこともお互いにわかっている。だから死ななくちゃならないのだと、彼女は言った。
だけれど僕は、気がつくとそれを否定していた。
「無理に、死のうとしなくてもいいんだよ」
彼女の唇がショックを受けたように震える。
「じゃあどうすればいいの?」彼女は僕の胸元に手を添えて、その衣服を力強く握りしめた。「私たちは今日のためにこれまで色んなことをやって来たんだよ。悔いのないようにってここまで生きてきて、嫌なことにもさんざん耐えてきた。でも私、この先もそれに耐えられるのかわからない」
まるで叫ぶかのように吐き出された彼女の声には、ときどき嗚咽が交じっていた。
「嫌なの。全部嫌なの。……私がいなくなれば、私がいなければ、きっとみんな、幸せになれるはずなんだ。お父さんもお母さんも、お兄ちゃんだってそう。私がいたから家族は壊れた。私さえいなければこんな風にならなかった。私はね、本当は誰にも必要とされていない人間なんだよ」
僕は、黙ってそれを聞いていた。過ちを犯さなくて済んだということを例に挙げるのならば、あるいは僕も、彼女の言う幸せになれる人間のうちに入っているのかもしれなかった。
「それに、こんなことをして、もう笑って生きていけるわけ、ないでしょ」
僕たちは学校の窓ガラスを割り、教室の黒板に落書きをし、椅子や机をそこら中に放り投げ、あまつさえ廊下でロケット花火をした。これらのことが露呈してしまえば、僕たちは当然のことながら社会的に抹殺されることになるのだろう。それは死ぬのと同然のことだった。
けれど僕に、後悔なんてものはなかった。もともと死んだように生きていた人間なのだ、この先の人生が最悪なものになったところで、何も変わらないし知ったことではない。この先、本当に死んでしまうことがあるのなら、その前に僕は彼女ともっと同じ時間を過ごしていたかった。
だからというわけではないけれど、これから彼女には、僕のわがままに付き合ってもらおうと思う。
「逃げようか」僕は、そっと彼女に笑いかけた。「二人で一緒に」
え、と彼女が目を見開く。「……逃げる?」
やりたいことをやり終えたというのは噓だった。愚痴はまだまだ言い足りなくて、映画は過去のものまで全部を観尽くしたかった。お金を使い切ったというのも嘘だし、見たい景色はこの世界にはまだありあまるほどに残っている。
そしていつだって僕たちは、死にたいのに死にたくないなんて、そんな矛盾を抱えて生きている。
「海外でもどこでもいい」僕は彼女の頬に手を添え、そこに滴る涙を拭った。「誰にも見つからないところに、二人で逃げよう」
「……海外は、難しいと思う」彼女は不貞腐れたように目を伏せていた。
「じゃあ、ここよりもずっと遠い、田舎にしようか」
「田舎は嫌い」
「田舎もきっと悪くないよ」と僕は笑った。「空は澄んでるし、川も透き通ってて綺麗だ。この街みたいに濁り切った工場煤煙を吸うこともないだろうし、周りに住む人たちはとびきり優しい」
「でも」と彼女は首を振る。「どうやって生きていくの? 十分なお金もなければ住む場所もない。野宿なんて嫌だよ」
「住む場所とお金は、僕が頭を下げて探すから。働ける場所も、住める家も」
「おかしいよ。私なんかのために、そこまで」
「君のためだから」
僕はいつのまにか、彼女の濡れた髪を丁寧に撫でていた。それから頬に張りついた髪を払いのけると、ふと彼女が下を向いた。羞恥で顔を背けてしまった、というわけではないようだった。彼女は唇を引き結ぶと、今度は堪えられずに大声を上げて泣いてしまった。堰を切ったようにぽろぽろと熱い涙がこぼれ出す。
どうすれば泣き止むのかと思って、僕はまた涙を拭ったり、頭を撫でたり、彼女のことを抱きしめたりしてみたのだが、効果はなかった。
ややあって、彼女は鼻をすすりながらその場に座り込んだ。僕も同じように、手すりを背もたれにして、彼女の隣に座り込んだ。
「ていうことはさ……」と彼女が窺うように、訊いてくる。「八尋は、私と一緒に暮らしたいってことだよね?」
「え?」僕は素っ頓狂な声を上げてしまった。家を借りて、働いてお金を得るということだから、突き詰めれば最終的にはそういうことになるのかもしれない。「うん」と僕は肯いた。
「でもね、それには問題があるの。それも一つや二つじゃなくて、たくさん」
「たとえば?」
「私と暮らすなら、朝ご飯は毎日ちゃんと食べること」
僕が働いて、彼女が家事をする。一緒に暮らすならそういうことになるのだと彼女は言った。朝が弱い僕には難しいことだったが、問題はない。
「それで?」と僕は訊いた。
「ペットは二匹。犬と猫。犬は散歩しなきゃだから、君は仕事帰りに、私と一緒にまた外に繰り出さなきゃいけないの」
「犬の散歩くらい、どうってことないよ」
「すれ違った人にも挨拶しなきゃだめだよ? この街とは勝手が違うんだから」
長く住んでいれば、もしかしたら夫婦と間違われることがあるかもしれない。夜は恐ろしいくらいに静かだから、別々の部屋で寝ることは避けた方がいい。雨の日は映画観賞をすることが絶対で、たまには海に行くのもよかった。
そうやって彼女が提案してきたものを、僕は問題なくすべて受け入れた。
僕たちはしばらくの間、鼓膜を圧迫するような雨音に身をゆだねていた。くだらない空想に胸を膨らませた今しがたの余韻を楽しむように、振り続ける雨を全身に浴びて、じっくりと時間の流れに身を任せる。
「ねえ」
と声が聞こえた。彼女が僕のことを見つめていた。その長い睫毛には一粒の雫が乗っていて、ゆっくりとまばたきをするとぽたりと滴る。
「逃げちゃおっか」
僕もおもむろに目をまばたかせた。
もしも明日世界が終わるとするならば、僕はきっと、彼女と一緒に死ぬことを選ぶ。話をして、何でもない風景を眺めて、いつまでもこの時間が続けばいいのにと思う。
でもそれは、決して今ではない。僕は窮屈な喉を目いっぱいに開かせて、「そうしよう」と言った。今さらになって、自分たちの手が繋がれていることに気がついた。
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