ブルーに溶けて
今思えば、「神様」なんて答えは馬鹿げている。そんなものはきっと栞の望んでいた答えでもないし、僕の回答としても満点ではないだろう。
確かに、僕は彼女を神様みたいに思っていたし、彼女は実際に神様だった。けれど、そんなのは僕の小ささを隠すための言い訳でしかないことくらい、とっくに気付いていた。
僕は栞が好きだった。そして、最後の最後、僕らが出会った場所でそれらしきチャンスは訪れていたのだ。
「私のこと、どう思ってる?」
せめて、この質問をした時の彼女の顔が見えていれば、なんて後悔する。答えに窮してうつむく僕に彼女は一瞥もくれず、目の前からいなくなってしまった。きっと、あれが最後だった。
過ぎたことを後悔しても無意味だとは言うけれど、今の僕に出来ることはこれくらいしか思いつかなかった。栞を忘れないでいられる方法を、これしか知らなかった。
「強くなりたい」と今は思う。勉強も運動も人と関わることでさえも、言い訳を繰り返して逃げてきた。僕の神様にもう一度出会えるその時を願って、強くなろうと思う。
**********
「セカイのピントがぼやけたみたいだ」と思った。
踊り場に差し込む陽向も、肌で感じる夏の温度も、昼休み特有の喧噪も、すべてが遠くなっていくのを感じた。僕の眼は、目の前の彼女ひとりを残して何も見えなくっていく。熱に浮かされたようなフラフラの脳で、僕はもう一度投げかけられた言葉を咀嚼した。
「千尋、私と付き合ってくれない?」
**********
出会いは、夕立みたいに突然だった。
中学校で意を決してバレー部に入った僕は次第に体力もつき始め、ちょっとやそっとでは風邪を引かなくなった。母親に頼み込んで塾にも通い始め、成績もクラスで三番と、かなり順調なスタートダッシュを切っていたと言っていいと思う。
小学校よりも圧倒的に忙しいスケジュールや慣れない部活の上下関係に揉まれながらも、徐々に要領よくこなせるようになっていき、部内での信頼も少しずつ獲得しはじめていた。本当に、文句のつけようもない理想の生活を送っていた。
中学生になって初めての夏休み。毎日のように部活はあるものの、午前練習が基本のためいつもよりは俄然やる気が起きる。午前中で学校から帰るという非日常感そのものが好きだった。
いつも通り、先輩に指示されるがままにネットやボールの後片付けをしていると、いつの間にか時計の針は十二時を過ぎている。時刻を確認して初めて空腹を認め、今日の昼食を予想しながら最後のボールを拾い集めた。
更衣室の扉を開けると、サウナのような熱気を顔で感じ、次いで汗臭さと土の匂いが混じった不快な匂いが鼻腔に届く。次第にそれにも慣れていき、僕もぐっしょりと濡れたユニフォームをカゴに放り込んだ。とある先輩が受験と恋愛の話を無節操に呟き、また別の先輩は際限なく監督の悪口を言い合っている更衣室で、近くにいた同級生がこの後の遊びの予定を立てていた。
「千尋、これから遊びに行かね?」
同じ一年生の一人が話しかけてくる。
「家で昼飯食べてからってこと? 何するの?」
「奏太と、駅前でボウリングでもしようって話になって。あれ、でもお前塾だっけか」
「そうなんだよ。夕方から夏期講習があって。まだ宿題やってないんだよな」
夏休みは夏期講習があるので、あまり暇な時間はない。もしあったとしても寝ているか漫画を読むだけですぐに終わってしまう。
「そっか、じゃあ空いてる時があったらまた誘うから」
「おお、悪いな」
気楽に話せるような友人も、僅かではあるが出来た。人と関わること、話すことがいかに生活を豊かにするのか気付けたのは本当につい最近だ。
まだ新品に近いエナメルバッグを肩にかけ、蒸れた更衣室を後にする。体育館と校舎をつなぐ渡り廊下を歩いていると、ペトリコールの気配を感じ、すぐに雨音がし始めた。
昇降口で靴を履き替えていると、文字通り「バケツをひっくり返したような」雨が降り始めていた。にわか雨にしてはやり過ぎじゃないかと思うほどだ。
もう少し学校にいなければならないみたいだった。傘は持っているものの、バッグに入った塾の課題が濡れるのは勘弁だ。傘立ての前に立って雨音に身を委ねていると、視界の淵に制服のスカートがひらりと見えた。
絵画みたいだ、と思った。
入道雲と夕立を前に立ちつくすその姿は、額縁に納められて美術館で人目を惹くような絵画そのものだった。
弾むようなショートカット。可憐な白い花飾り。半袖のシャツから見える健康的で白い腕は、ギリシャ彫刻のような優美さを彷彿とさせた。
僕は、この少女を知っていた。たしか、女子バレー部の一年生だったはずだ。同じバレー部と言えど、男子と女子では合同で練習することもないのであまり関わりはない。むしろ、コートの取り合いで若干仲が悪い。とはいえ、基本的には同じ時間帯に同じ体育館で練習しているので、必然的に女子バレー部の部員を目にする機会も多くなる。
練習中に遠目で眺めるだけでは気付かなかったが、この少女からはやけに青々とした印象を受ける。制服のネクタイは薄い水色ではあるが、それ以上に感じられるオーラが青い色をしているのだ。
うまく言語化できない自分にもやもやしながらも、憂鬱そうに雨を眺める姿に思わず見入ってしまった。しかし、徐々にその彼女が少しそわそわしていることに気付いた。しきりに
ふと、左手に持った傘に目を移した。塾があるとは言っても夕方からではあるし、特に急ぐわけでもない。これだけ激しいにわか雨ならばすぐに止むだろう。
けれど、それでも踏み切れない理由はやはり僕の心の弱さだった。
俯いたって問題は解決しない。けれど、目の前の現実から目を背ける手段を、僕はそれしか知らない。
ああ、まただ。これじゃ今までと何も変わらないじゃないか。胸がキリキリとしだす。クラクラする頭に、突然誰かの声が再生される。
『君はもう、大丈夫だよ』
遠くて優しい声だった。誰にかけられた言葉か思い出そうとしても、なぜか記憶の糸口が掴めない。想い出としては存在しているはずなのに、期限切れのファイルみたく読み込めない。
それでも、その声に背中を押されたのは確かだった。
「あ、あの!」
急な大声にびっくりしたのであろう。それとも、人がいるとはおもっていなかったんだろうか。びくっと肩を震わせ、こちらをまじまじと見つめる。
「良かったら、つ、使いませんか。これ」
そう言っておそるおそる傘を差しだした。紺色の地味な傘なんて嫌がるだろうか。女の子はもっとファンシーな傘しか使わないのだろうか……。そんなくだらない考えがすごい速度で生まれては消えていき、一瞬がとてつもなく長く感じられた。
「え、えっと、男バレの人……だよね?」
反応が思っていたのと違っていたのに加え、認知されていたことに驚いて思わず固まってしまう。けれど、ここまで来たらあとは野となれ山となれだ。
「そ、そう。なんだかそわそわしてるから、早く帰らなきゃいけないのかと思って」
すると、彼女は恥ずかしそうに目を逸らした。
「私、そわそわしてた……?」
「ちょっとだけだよ?! いや、だから傘を使いたいのかなって……」
嬉しさと申し訳なさをごちゃ混ぜにしたような表情で、彼女は数秒の間考え込んでいた。雨の勢いを確認し、僕の差し出した傘に目を向け、また地面を見つめる。やがて、雨がまだ続くと判断したのか、短く息を吐いて僕に言った。
「ごめん、借りてもいいかな」
その答え方には先ほどまでのいじらしい様子は少しもうかがえず、むしろはっきりとして芯の通った印象を受けた。ああ、これが本来の彼女の姿なのだろうなと直感する。
「もちろん。はい、どうぞ」
「ありがとう! 来週、必ず返すから!」
お礼を言いながら、彼女は傘を片手に金曜日の夕立へと走り出していく。夕立の中を駆けていくその姿を目にして、改めて芸術的だな、と実感する。
彼女が走り出していくと、残された僕は踵を返して教室へと向かった。そこで雨がやむまで塾の課題を進める算段だった。階段を一階分登り、自分の教室に入ると、窓からは練色の光が差し込んでいた。狐の嫁入りってやつだ。
雨足もいつの間にか弱まっている。光が雨粒を照らして弾ける光景に目を奪われた僕は、しばらく窓の前から動けないでいた。
それからというもの、不思議な縁で僕らはだんだんと関わり始めた。翌週の月曜日に傘を返された際には僕が部活が終わるまで生徒玄関で待っていたらしく、お礼のクッキーと共に感謝を何度も述べられた。そして、そこで名前を初めて知った。
「そういえば、どうして急いでたんですか?」
「あの時ね。実は、まだ幼稚園児の弟を迎えにいかなくちゃならなくて。夏休み中は午前中までしか預かってくれないのよ。いつも私が迎えに行くんだけど、きまって弟が最後だから、たまに心細くて泣いてることがあるの。だから、なるべく早く行きたいじゃない?」
「すごいや。同い年とは思えないくらいしっかりしてますね。軽く感動しちゃいました」
「そう言ってくれると嬉しいけどね。でも、昔からそうだったから」
夏休みが終わっても、廊下ですれ違うと挨拶を交わすようになり、部活の休憩中に給水場で会うと喋ったりもした。なにより大きかったのは、僕が仲良くしている同じクラスの女友達と、その彼女が友達だったということだ。その影響で、彼女がウチのクラスに来るようにもなり、時々その女友達を交えて三人で話すこともこともあった。ゆっくりではあるが、僕らは着実に、そして丁寧に距離を縮めていった。
いつの間にか僕の敬語が取れ、互いのことを名前で呼ぶようになり、冗談も言い合えるような関係になった。あまりにもその過程が自然で、いつの日から、なんて何も覚えていなかった。
「千尋、私と付き合ってくれない?」
そして今、僕は告白されているらしかった。
僕の知識と今までの見聞が正しければ、これは多分「告白」だった。お気に入りの異性を自分のものにしようとする行為。
セカイのピントが彼女だけ残して響いた「付き合ってくれない?」の言葉も、初めて見る渚沙の表情も、何もかもが分からなかった。体がふわふわして、謎の汗が背中を流れるのを感じた。
ややそっけない言い方ではあるが、渚沙の顔は茹でたこくらい赤くなっていたし、さっきから一向に目が合わない。いつもとはまったく異質な空気が流れていた。
こんな時、なんと言えばいいのか僕は知らなかった。親も先生も友達も教えてくれなかったことだ。だから、何も分からずに答えた。
「うん。いいよ」
世界の色が、また一段と青くなった。
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