第6話
「今日はまたいっそうお疲れですね」
なじみの小料理屋で待ち合わせた文乃が言った。
「そう見えるかい」
「ええ。だいぶんお疲れの様子に見えますよ」
「今日の撮影にはアクションみたいなのはなかったから身体の疲れはそうでもないのだけどね。ストーリーの中で時間的に離れたシーンを次々に撮るだろう。それも撮影の都合で順番が決められるから、あとから撮るシーンが時間的にもあとのシーンとは限らないんだ。今撮ってるのがストーリーのどこのシーンなのかを確認してそのときの状態に持っていく。それがもう異様に神経を使う」
「そういう撮り方は初めてでしたっけ」
「初めてではないけどね。今回の人物はストーリーの中でけっこう変化するから難しい。最初は何もわかっていないのが次第に状況がわかってくる、と見せかけて実はむしろこいつだけがすべてをわかっていて、最初から全部芝居だった、みたいな複雑なアレでさ」
「主人公ですものね」
「そうなんだ。主人公をやるのにはその作品を背負って立つみたいな責任感は必要だろうと思ってたけどね。主人公ってのは作品内で変化するから難しい、それもこんなふうに時系列に並んでない撮影だと異様に難しいというのは初めて知った」
「そういう役をやるとあなた自身も役者として成長できそうですね」
「その前におかしくならなければな」
おれは手元の男山をひと舐めした。この店は日本中からうまい酒を集めて来ている。おれはたいてい男山を注文し、文乃はおれが何を選ぼうとかならず同じものを飲む。
文乃が手元の厚焼き卵を箸で切り取って口へ運ぶのをおれは眺めた。文乃があやつるとなんの変哲もない飲み屋の箸がなにか神聖な道具のように見える。透き通るような白い指が暗い色の箸を導き、卵の柔らかな黄色を切り取る。その所作を眺めながら酒をすする。なんという贅沢だろう。
「おいしいですよ」
おれの視線に気づいて文乃は卵の乗った皿をおれに勧めた。
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