第3話
席に戻って仕事をしていると、午後になって横山がやってきた。
「まだいたか。ちょっとお茶、どう?」
横山はパーティションごしにおれを覗き込みながら手でカップを口につけるしぐさをして見せた。
おれたちは無言のままエレベータで地表へ降りる。このビルは地下で地下街と繋がっていて、そこには若い人たちが愛用するカフェスタンドみたいなものもあるから意外と一階で降りる人は少ない。おれと横山が降りた後、地下へ降りて行く数人がエレベータに残った。
おれたちはビルから出て近くの裏路地沿いにある古い喫茶店に入った。元号が二つ前のものだった頃からある古い店で、いつ行っても空いているのにつぶれることなく今も営業している。扉を押し開けるとドアベルが響いた。一歩入るなり横山は右手でピースサインを作って店員に見せる。店員が頷くのを見届けておれたちは奥のテーブル席に陣取る。すぐに店員が水を持ってやってくる。水を差しだす店員に横山が頷きかけると店員も頷いて去っていく。メニューも必要なければ注文さえも必要ない。馴染みという現象があらゆる工程を簡略化したことによって入店から退店まで一切の会話を必要としなくなった。おれと横山も向かいあって座ったまま黙っている。おれたちが黙っているのは、ほどなくさっきの店員がコーヒーを二つ持ってやってくることがわかっているからだ。数分ののち、銀のトレーに黒光りする小ぶりのカップを二つ乗せて例の店員が戻ってきた。店員はおれたちの前にコーヒーを差し出すと、空になったトレーを胸に抱いて頭を下げた。トレーは細かい拭き傷で埋め尽くされて鈍い光を放っている。その輝きがここで客を見守ってきた時間の長さを物語っていた。
おれと横山は揃ってコーヒーを一口飲む。流行のカフェスタンドなんかで飲むコーヒーよりもだいぶ淡泊な味だ。苦みも酸味もほどほどで味自体にインパクトはまったくない。ただ、店の壁や床、テーブルや椅子などあらゆる部分に沁み込んだコーヒーの香りと混ざり合って、味は何割増しかになって記憶される。ちっともうまいコーヒーではないのに思わず「うまいな」と言いそうになるのだ。
「ひとつ思いついたことがあるんだ」
カップをテーブルに置きながら横山が言った。おれは目で先を促す。
「聞いたことあるだろ、デジタルヒューマン」
「デジタルヒューマン? あのリアルなコンピュータグラフィックスのことか?」
「そう。今じゃ実写映画でも当たり前のように使われてる。例えば俳優がサイボーグの役を演じて顔や体がばかばか開いて中から機械が出てくるとかいうシーンは、最近じゃ合成じゃなくて全部CGなわけだ。ああいうのは俳優を立体的にスキャンしてCGにする。皮膚の表現とか表情の動きの再現なんかが進歩してて、ほとんど実写と見まがうような映像が作れる。死んだ俳優が出演してたり、実在の俳優でもえらい若い姿で登場したり、場合によっちゃ年取った俳優とその人の若いころが共演したりもする。ああいうのはみんなクソリアルなCGだ。その手の超リアルな人間のCGがデジタルヒューマンとかバーチャルヒューマンとか呼ばれる」
「たしかにそういう技術のことは聞いたことがある」
「それがここ数年でどんどん進歩してるんだ。一昔前までは専門の設備を使ってかなり緻密にスキャンしないと実現できなかったのが最近じゃ普通のカメラで撮影したような画像を集めてそこから作ったりもできる。必要な画像の枚数もどんどん減ってきてるんだ。画像と画像の補間をさ、機械学習ってやつで経験的にやるわけだ。そうすると少ない画像からでも立体を再現できる。これまでよりもお手軽に、しかもこれまでよりも優れたクオリティのものが作れる。それに、声もちょっと前までは難しかったのがここ数年で一気に進化した。フォルマントモデリングとかその手の技術の結晶だな。今やオンライン会議で別人に成りすまして会議に出るようなことだって可能なんだぞ。実際の顔の動きをその場で検知してデジタルヒューマンに転送しながら、マイクから入ってきた音声を合成した音声に差し替えたりすることもできる。合成音声ったって一昔前のロボットボイスみたいなのとはわけが違う。ちょっと聞いたぐらいじゃ人間の肉声と聞き分けられないようなリアルさなんだ」
「そうなるともはやカメラの前に現れたのが誰かなんてまるっきりわからないってことか」
「むしろそんなことにはもう意味がないってことになるだろうな。こうやって向かいあってコーヒーを飲むことだってどんどん減ってて、画面越しのやり取りが増えてるだろう。そうすると相手がどんな奴かってことはもうわからないわけだ。名乗ってる通りの人物かどうかなんて確認しようがない」
「人間が別の誰かになりすますこともできるし、それを人工知能にやらせれば自律的に動くデジタルヒューマンも作れるわけか。もはや人造人間だな」
「実体はないが映像には映る。それを存在すると言うかどうかは人によるだろうがな。映像にだけ映る人造人間ってことだ。もう映像なんてものに信憑性はないってことさ。ありもしないことをいくらでも映像にできる」
「恐ろしい話だな。それで、茅ヶ崎時夫もCGなのか?」
「だとしたらどうかって話だよ。思考実験みたいなものさ。おれの目でも映画を見ただけじゃそれがCGなのか実写なのかはもうわからん。メイキングでCGだと明かされてるやつを見たって正直わからん。わかるのはこの俳優はこんなに若くないはずだとか、もう死んだはずだとか、こんな映像は実際には撮影できないはずだとかそんなことぐらいだ。そういうあからさまに疑わしい要素があればわかるけど、茅ヶ崎時夫はどう見ても今の田神なわけで、ぶっちゃければおれはあれが田神自身だと言われる方がまだ信じられる。でも可能性として、あれが田神じゃないんならデジタルヒューマンって可能性はある。舞台挨拶とかそういう生身で登場するイベントに出てこない限り、あいつが実体を持たないという可能性は否定されない」
おれは黙った。あれがそんな手の込んだCGだとして、そこまでしておれの偽物を作るのにどんな意味があるんだ。おれじゃない誰か別の俳優にやらせれば済む話で、架空のおれを捏造してあんな俳優をでっちあげるのにはコストがかかるだろう。おれにはそのコストに意味があるとは思えなかった。
「どうもわからないな。なんでおれなんだ?」
「それはおれにもわからん」
横山はそう言うとコーヒーを一口飲んでから続けた。
「それよりおれが面白いと思ったのはさ。もし茅ヶ崎なんとかがCGだったとすると、他の俳優はどうなのかっていう話よ。俳優だけじゃない。テレビに出てるような芸能人。実在しないCGだけのやつもいるんじゃないか?」
「まさか」
「なんでまさかなんだ。ありえるだろう。少なくとも技術的にはできる」
「できるけどそんなことをやる意味は?」
「CGでしか存在しないタレントなら不祥事を起こさないだろ。麻薬で逮捕されることもなければ下半身が暴走して騒ぎになることもない。変態行為や暴力沙汰でイメージダウンすることもないし、もっと言えば病気や事故で突然スケジュールに穴をあけることもない。安心してコマーシャルにも使っていただけますよ、ってなことにならないか? なるだろう。絶対に不祥事を起こさないタレントだぞ。そりゃおまえ、金出すところはいっぱいあるんじゃないか。出演俳優が不祥事を起こして映画やCMが打ち止めになるようなことって何度もあったろう。あれの損害を考えてみろ。それにデジタルヒューマンなら中傷されて鬱になったり死んだりすることもない。なによりCGとの親和性が高い。当たり前だよな、自分自身がCGなわけだから。つまりCGの背景の中で演技をさせるのに、複雑な合成なんかをやる必要がないんだ。全部CGの中で完結できる。その上年齢性別体形顔、なんでも自由自在ときたもんだ。そんな無敵のタレントがいたら普通のタレントより高くたって使うんじゃないか、デジタルヒューマン」
「そう言われると大きな価値があるような気がしてきたよ」
「そういう俳優を作ってプロモートするプロダクションでもやれば儲かるんじゃないかって気がしてくるだろ。おれごときが思いつくんなら既にやってるやつがいてもおかしくない。そうだろ」
「そうだな。でもそれにしてもだよ。なんでおれなんだよ」
「そこだけは本当にわからん。まあでも田神はいわゆるイケメンじゃないがそこそこ男前ではあるし、あんまり若すぎないし、映画的に需要のあるポイントではある。アイドル俳優上がりのアラサー俳優なんて演技力や声で使い物にならないやつが多いだろ。まともなアラサー俳優は層が薄いっていう事態はありそうな気がするぞ。そうするとそこらに入り込んだスカウト的な連中が良さそうな人材を調べあげて、まあ興信所みたいなところが協力したりするんだろうけど、注目した人物を追いかけるわけだ。いろんな角度から盗撮して集められる資料は集めてプロフィールもろとも盗み出す。あるいはそういう情報を盗み出して売るような闇業者があるのかもしれないな」
「人一人丸ごと盗むのか」
「情報だけだけど言っちまえばそういうことだな。とはいえ盗まれた方だって別に死ぬわけじゃない。田神にしても現に今までと変わらずに暮らしてる」
「今のところはな。でも茅ヶ崎時夫がもっとどんどん露出し始めたらそうも言ってられなくなるぞ。そもそも副業だって言われて会社をクビにでもなったらどうする。おれは茅ヶ崎時夫じゃないんだからあいつがもらうギャラは受け取ってないんだぞ。クビになったらおしまいだ。それにおれを丸ごと盗みやがって、あいつは何の罪にも問われないのか?」
「あいつがデジタルヒューマンだとしたらあいつ自身はただのデータに過ぎないからな。あいつの罪は問えないけど、あれを作ってる連中はなんらかの罪には問えるだろう。わかりやすいところでいえば肖像権の侵害あたりだな」
おれは頷きながら残っているコーヒーを飲み干した。
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