22 パティとアルの出会い、新たな旅立ちへ

 パティは翼をはためかせ、船を目指して飛び立っていた。


 どれだけ飛んでいるだろうか。

 まだ数分に満たないが、大きな翼を動かすのは思いの他大変な作業だ。

 思えば、パティは天の世界で飛ぶことはほとんどなかった。

 パティだけではなく、天の天使は皆そうなのだ。飛ぶ必要がなかった。

 何よりパティの体力は十分ではなかったため、息は荒く激しくなっていた。


(風が強くなってきた……真っすぐに飛べない!)


 突風が吹き、パティは流されそうになりながら、必死に翼を動かし続ける。

 だがその時点で、パティは目的の帆船にあともう数十メートルにまで到達していた。


(あれは、鳥か? いや、違う)


 アルは目を凝らして、空を揺れながら飛ぶ者を見た。

 真っ白な大きな翼に、細身で、小さな体。

 その姿に、アルは見覚えがあった。


「あの子は……あの時の天使……!」


 なぜこんなところに、という疑問が浮かんだが、そこでアルはロゼスの言葉を思い出した。誰かと会わせるためにここまで来た、と言っていた。


(まさか、天使のことか? だがなぜ?)


 アルは船の後方のデッキに立ち、身を乗り出すようにしてその姿を目で追った。


 その時、ポツリと、空から水が落ちてきた。

 雨だ。

 パティは、頭上に落ちたその雫に、冷や汗が噴き出した。


(どうしよう、翼が濡れたら重くて飛べなくなる)

 

 パティがそう思った数秒後には、雨はざあっと降り注いでいた。

 パティは風の煽りもあり、体勢ががくっと崩れた。

 今にも海の中に落ちそうだ。


「危ない!」

 アルはすぐそこまで来ている空を飛ぶ天使に向かって叫んだ。


「君、もうすぐだ! こっちへ、早く!」


 アルは続けてパティに向かって大声で叫んだ。

 パティはようやく、アルがすぐ近くにいることに気付いた。


(あ……あの人、アル! そこにいる)


 ただ翼を動かし飛ぶことに必死で、パティは船に乗っている者には気づかずにいた。雨風も更に強くなり、視界が悪いせいもあった。


 パティは、数メートルほど先の目の前にいるその少年の蜂蜜色の瞳を見つめた。

「アル! わたし――」

「さあ、こっちへ! 僕が受け止めるから、ここへ――」


 アルは風の吹き荒ぶ中、船の縁の僅かな太さの場所に足をかけ、両手を伸ばした。

 パティはアルが真っすぐな目をして、何の躊躇もなく両手を伸ばす姿を目にした途端、どくん、と胸が大きく打った。


 パティは風に流されかけながらも最後の力を振り絞り、翼をはためかせ、アルの元へと飛び込んだ。

 アルはパティをしっかりと胸に抱き止めたまま、船の縁からデッキへと転がった。

 初めて会った時と同じように、アルは、飛び込んできた天使の少女をしっかりと腕に受け止めたのだ。


 アルがパティを抱き留めた時、パティの翼は折り畳まれたが、濡れて、随分と重くなっていた。


(こんなになるまで飛んでいたのか)


「もう大丈夫だ、怖かっただろう。詳しい話は後で訊く。船の中へ――」


 アルの声は優しさに満ち、包み込むような響きでパティの胸にすとんと落ちていった。アルはパティを支え、その肩を支えてゆっくりと立ち上がらせようとしたが、パティはそれを拒んだ。

 今すぐに、パティは言いたいことがあったのだ。


「アル、わたし、あなたにお会いしたかった!」


 パティは美しい瞳で一心にアルを見つめ、アルの胸の中でぎゅっと彼の服を掴み、言い放った。

 彼女の声は震え、体は雨風に晒され冷たかった。

 しかし天使の瞳は七色の輝きで煌めき、真っすぐなその眼にアルを映している。


 ――どうしてだ。


(同じだ)


 僕もあの時の天使に会いたかった。

 心のどこかでそう望んでいた。

 なぜ、同じ思いを抱いていたのだろうか。

 ほとんど一目しか会ったことのない子に、なぜ、会いたいなどという思いが芽生えたのだろう。


(僕には、何かを望むなど、そんな資格はない)

 

 生まれは確かにメイクール国の王子で、十八になれば王となる資格を得る。

 だが本当は、僕は王になるべき者ではなく、それどころか、何かを望んだりする資格などない者だ。  


(僕は……人殺しだ)


 アルがパティの肩を支える腕は、少し震えていた。 

 アルは突如、八つになったばかりの頃のことを思い返していた。


 もう七年も経つが、瞼を閉じれば鮮明に蘇ってくる、あの暗く悲しい、己の全てを否定したくなる出来事を。



「アル、駄目だよ、それは――」


 そう言ったのはネイトだった。


 七年前、彼は親友と呼べる少年だった。

 アルと同い年の幼い彼は父親によく似た青い瞳をしていた。


 王の右腕と呼ばれる、警護部隊隊長であり、特隊長という地位を持つ、カイル・ディグラスの子息、ネイト・ディグラス。

 幼いが賢く努力家で、アルの仲の良い友人だった。


 アルはその年の頃、聞き分けの良い子供ではなく、どちらかと言えば悪戯好きなわんぱくな子供だった。

 アルはまだ早いといわれていた武器、メイクール王家に伝わる十字剣と呼ばれる、刃が十字の形ででき、中央部分に持ち手がある、変わった形の剣を無断で倉庫から引っ張り出し、庭園で試してみようとネイトを誘った。


 十字剣は投げて攻撃する武器だった。

 投げ方により剣は飛び方を変え、攻撃方法を変える。

 またそれはブーメランのように、投げた持ち主の元へと戻ってくる仕組みの物だった。

 しかし一歩間違えれば、投げた当人ですら死と隣合わせの、危険な剣なのだ。


「大丈夫だ、ネイト! 見ていて――」


 アルは幼い無邪気さで、その危険な剣を投げてしまった。


 しかし投げた十字剣はアルの手元には返らず、ぐるぐると勢い良く回転しながら目の前の友人の首を切り落とし、アルのすぐ手前の地面にぐさっと刺さり、ようやく止まった。


 今思い返しても、それは悪夢としか思えないような出来事だった。

 その後のことをアルはよく覚えていない。


 血溜まりの中で倒れたネイトと、ひゅうひゅうと鳴る乾いた風の音は鮮明に記憶に残っていた。

 放心状態で立ち尽くしていたアルは、どれだけ時間が経っただろう、どこからか駆け付けた使用人数人のうちの誰かに抱えられ、マディウスの元へと連れて行かれた。

 使用人は素早く後処理をし、数時間後には城の庭園には血の跡さえなかった。


 ネイトは葬式も行われることなく、カイルがひっそりと埋葬をしたらしかった。

 息子の死後、カイルは毎日、日課のようにネイトの墓に足を運んでいたが、涙を見せることはなかった。


 マディウスもカイルもネイトの死を悲しんでいたが、アルを責め立てたりはしなかった。その事故は一部の者のみが知ることとなり、秘密事項となったのだ。


 カイルは未だに王の傍らに仕え、アルに対する態度も以前と何一つ変わらなかった。それが尚更、アルには辛かった。


 カイルに人殺しと罵られ、罵倒されていれば幾らか心は救われていただろう。

 あるいは王子としての権利を剥奪し、罰を与えてくれと心底願った。

 しかし、アルの願いは聞き入れられなかった。


 自分はメイクール国の王子として生き、生き恥を晒されることも王としての道を閉ざされることもなく、民からは憧れと羨望の眼差しを注がれるばかりだった。

 アルはその事故の後暫く打ちひしがれ、悲しみと己に対する憎しみに身を焦がすような日々が続いた。


 いっそ死んでしまいたいと、何度思ったことか。

 しかしそんな時、教会から訪れた巫女が言った。


「死ぬことは許しません。アルタイア王子、あなたは生きなればならない。そして誰よりも強く尊い、この国の象徴である王となるのです」


 ――死ぬことは許さない。

 その言葉がアルを救った。


(そうだ、死ぬくらいで許されるはずがない。僕は死ぬことすら許されない)


 アルはようやく、一筋の微かな光を見つけたのだ。

 己の役割と言っていい。

 ネイトの望むような王に、また彼の住みたいと思う国を作るという決意を胸に抱いたのだ。

 自分の幸福を顧みずに。いや、幸福など与えられるべきではない。

 だから避けて通ってきた。

 自らをずっと戒めてきたのだ。

 誰にも悟られないように、ただ良き王を目指し、そのために生きてきた。


 それなのに、パティはアルの腕の中にすっぽりと収まり、アルの心に感じたことのない感情を満たしてゆく。

 まるで何度もそうしてきたかのように、パティは心地よさそうに、アルの瞳を覗き込んだ。


「アル、王もカイルも、あなたに会ってくれと――、そして共に旅をするようにと言ってくださいました。だから、どうか、わたしを連れて行ってください」


 アルは茫然とパティを見つめた。

 天使の瞳は迷いなど微塵もなかった。


 再び、アルに疑問が生まれた。

 息子の命を奪ったアルに対し、カイルは恨み事一つ言わず、従い、またアルを思って行動をする。


(どうしてだ、カイル? なぜそんなことをするんだ。本当にそれがあなたの願いなのか?)

 アルの不安を打ち消すように、パティはにっこりと笑った。


 ――そうだ、わからない。

 カイルの本心はずっとわからないままだ。


 しかし今は、この子を遠ざけることなどできない、とアルは思った。

 アルの心の中にはびこる毒が溶けていくように、温かな光が差し込む。


 望んではいけない。

 だがこの天使の少女は、神から与えられた祝福そのもののように、突如、アルに戸惑いと安らぎと、不確かではあるが、一種の希望に似た光を運んできたのだ。


「分かった。共に行こう。僕も君にまた会いたいと思っていた。その理由を僕も知りたい」

「あ、有難うございます。とても、嬉しいです」

 天使ははにかんだように笑み、つられてアルも笑みを刻んでいた。


「僕の名はジュノンアルタイア・ロード・メイクール。先ほど呼んでいたように、アルでいい。君は、何という名だ?」


 アルは着ていたマントをパティにかけ、よろめく彼女を支えて立ち上がらせた。


「わたし、パティと言います。風の天使パティ。地上に降りることをずっと願っていました」

 夢見るようにパティは言った。

 パティのブルートパーズ色の髪が風に舞い乱れた。


 アルはパティを支え、マントが風で捲れないように彼女の肩を押さえて、船内へと誘導した。

 アルは、訪れたことのない国に天使を連れて行くことに不安を感じていたが、それ以上に、安らかな心地でいた。


(旅の間だけだ。そうだ、その少しの間だけ)


 ――この子のそばに。

 天使の祝福を受けることを許してくれ、ネイト。


 パティは無邪気に笑んだ。

 しかし彼女は不意に気がついた。

 アルもパティを見て微笑んでいたが、その柔らかな瞳には深く傷ついた者の持つ悲しみと穏やかな優しい光が揺れ動いていた。


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