退院
祖母が一人で歩けなくなったのは退院してからだった。
祖母の退院の日、伯母と一緒に幸助は脳神経外科に呼ばれた。入院中にした検査の結果を聞くためであった。祖母は伯父が先に家へ帰してしまっていた。診断の結果は聞かされないらしかった。
「これだけご老人になられて、一日寝っ放しにしていると、平均で十三パーセントずつ筋力が落ちますから、杖をついて歩けるとしても、それ以上の回復は見込まれません。でもこの歳でまだ歩けるというのはすごいことです。それから肝臓の方ですが――」
医者は肝臓にゴルフボールぐらいののう胞を見つけたと言った。
「これですが――」
レントゲンの黒地の写真に白い骨や臓腑の形が、青白く光っている。
「ここです。この濃い塊がのう胞、つまり血の塊です。これがあって、消化不良を起こされているみたいですね」
「それは、どうなるんでしょうか――」と伯母が訊ねた。
医者はこのまま膨れ上がるか、その前に、と話した。
話していた医者が目配せをすると今度は別の医者が出てきた。
「この脳の方のCTですが――」
医者は脳の断面の写真を刷った紙を出してきて、左右両方の脳みその前頭葉の辺りを指して〝ここ〟〝これ〟と言うのだけれども、何がここで何がこれなのだろうかと幸助は思うのである。
「では、抗ヒスタミン剤を処方しておきますから、毎食ごとに飲ませて下さい――」
伯母は病院の帰り、車を動かしながら話した。
「先生の言ってること分かった? 先のお医者さんは外科から来てたみたいね。後に話したお医者さんは脳の所に影が見えるっていうけど、――全然分からなかったね。一応、文科省から賞をもらえるぐらいの権威みたいだけど」
「そう――。分からなかった。と言うかあんまり見てなかったね、僕は」
「駄目じゃない」
「何にしてももうこれから面倒を看ないといけないんでしょう」
「そうね――」
医者の診断は余命半年だった。幸助にはそれだけ分かれば充分だった。そして幸助は頭の中で繰り返していた。
――あと半年。あと、半年。
福祉介護師の人を呼ぶと、要介護とか、要支援とかそれに数字をつけて言うのである。伯母が親父の代わりにこれからの話をしていた。
「大変ですね。まだこれだと要支援6なのでヘルパーはつかないのです。――これ、一応、介護グッズのカタログです。」
それだけ話して福祉介護師は帰った。
「福祉介護制度なんて、いい加減なものだよね。杖ついて歩けるって言ったって、人が見てないといつ転ぶかわからないのに」
「でもそういう決まりなんだから、仕方ないわよ」
「だけど面白いねこのグッズ、なんか安っぽいカタログだけど、祖母さんのその貰った杖、脚が四つに分かれて四点で支えるから、フラつかないんだね」
「よく考えられてるよね」
伯母はそれだけ言って、昼食を作った。――祖母と私の分まで。
「今日もお風呂に入れて、寝かせてあげてね」
「はいよ」
祖母が退院してから夜は幸助が祖母の世話をした。昼間は伯母が訪れて祖母の世話をした。彼は気負わずに昼間は大学に行くことができた。
「何かあったら連絡すれば良いからね」
「わかった。ありがとう」
「いいえ。――じゃあ今晩は、作って冷蔵庫にあるから、あれ食べてね」
伯母はそれだけ言って出て行った。
祖母は寝室で寝ていた。しばらくは放っておいて、幸助は食事にした。
夜、祖母が起きて来た。彼は食卓で大学の課題をこなしていた。
「お腹がすいたわ」
「夕ご飯あるよ。伯母さんが作っていったから」
「そう――?」
祖母に夕食を用意したが、箸を持つ手がぎこちなくなっていた。幸助は自分の分もご飯を出して食べようとしていたが、その様子が気になった。
祖母は箸をクロスさせて米を掴み、口にやろうとしたが、頬にあたって米がこぼれた。
「持てないの?」
「なんかね! なんかね! 上手く持てなくなっちゃったのよ」
幸助は箸を持ち直させてどうにか掴ませようと教えたが駄目だった。もう手が利かなくなっていた。
彼は自分の食事は一度諦めて、祖母を食べさせた。
「美味しいわ」
食べ終わるとすぐ祖母はトイレに行くと言い出した。祖母は立ち上がるのも困難そうにしていた。幸助が腕をつかんで支えて歩けるようにした。ついでに食べ終えた食器を洗いかごに突っ込んでいるうちに、祖母は彼から離れて一人でトイレに向かってしまった。彼は怖くなって、食器を水に浸してからすぐにあとを追った。
廊下の突き当たりには窓があり、夜の街灯が漏れて祖母の傾いた後ろ姿の輪郭をくっきりと浮かばせた。それが左右に揺れながら便所へ跛(びっこ)を引いている。
祖母は便所の段差を跨げなかった。幸助は祖母を追って支え、トイレの前で持ち上げる。入れて、待って、手を洗わせ、それから風呂場へ連れて行った。
夜の風呂場はまだ肌寒かった。また熱を出されてもかなわないので、幸助は手伝って服を脱がせることにした。祖母は上手く足を浮かせられないので、片方の脇を掴んで洗濯機に手をつけさせた。
「左足から上げて」
彼は祖母を支えながら、左足からズボンも下着も一気に抜きとった。右足も同じようにし、上の服も脱がせてしまうと、祖母の服を籠に放った。そのまま祖母を入らせて、服は明日また伯母が来て洗うからと思って、そのままにして食事にした。
幸助は一人になると落ち着かなかった。一人で祖母が風呂に入れるだろうか、そう思いながらご飯も咽喉を通らなかった。
祖母が風呂からあがると幸助はまた、風呂場まで行って、祖母の洗い終わった身体を拭いた。
「すみませんね」
「はいはい、じゃあ、寝る支度しましょうか」
「さっき起きたばかりよ。まだ朝でしょう?」
「何言ってるの、もう夜、寝るんだよ?」
「寝ないわよ。騙さないでよ」
呆け始めたのかと思った。
その日どうにか祖母を寝かせた。彼自身、お風呂に入ると日にちが代わっていた。それから机にかじりついて、深夜新聞配達が来る手前まで大学の課題に向かった。
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