殺せよ
「祖母さん。病院は楽しいかい?」
「つまらないわ」
父は医者と話していたので、幸助は祖母と向き合っていた。病院内はところどころで停電していたが、院内の発電機で医療機材だけは動いているようだった。病棟では患者のうめきや、荒い呼吸などが聞こえてくる。あの津波から灯りがなかったからその声は余計に気味の悪く、どことなく嫌な気分にさせられるところだった。老人たちが廊下の手すりに捕まりながらゆっくりと歩いて行ったり、医者がせわしなく廊下を駆けて行ったりするのだが、祖母のいる病室は大人しいものだった。向かいのベッドでは呼吸器をつけた老人がこちらを見つめて、ずっと苦しそうにしている。人間の汗の臭いと、はらわたが腐ったような臭いが、消毒液の匂いと混じって、息が詰まりそうな空間であった。
「調子は?」
病床の脇に椅子を置いて座ってから祖母の着替えのある箪笥に目をやっていた。
「まあまあだわね」
「今度、孝道のところに行くよ」
「あら、タカちゃん元気?」
「わからない――、わからないけど、」
幸助は祖母が孝道を心配そうに言うのを何故だか狼狽する形で応えた。それは何か忘れていたことを思い出した気がしたのだったが、それがいったいどういうものだったのか、彼にはわからなかった。
「親父のところに連絡があったんだって」
「そう――」
彼は祖母の小さな返しと一緒に一息ついて、祖母の方に向き直った。
「母親ともめたらしいよ」
「いやねえ」
祖母は病院のベッドに横たわったまま天井を見ていた。
「お母さんは、――それで、どうしてるの?」
「さあ?」
「タカちゃん、まだ馬やってるのかしら?」
「らしいよ」
孝道は中学に行かなくなってから、競馬にのめり込んでいた。日曜、祝日はたびたび府中まで足を運んでいた。
「早く家に帰りたいわ」
「明後日出られるって」
「そう――?」
幸助はは親父と病院を出た。
「だけど太いなあ、祖母さん。祖父さんが入院した時こう言ったんだぜ〝こんなの世話できない〟って。それで祖父さんやる気なくして、可哀想に。それが自分となると〝家帰せ、家帰せ〟だもんな」
「残酷だねえ。――それより明日、孝道のところ行くの?」
「あ、ああ、行くぞ。――何だかアイツ、母親から手切れ金に二百万も貰ったって言ってるし」
「それ、俺の学費だろう?」
「そういうことになるんだろうな。母親が別居はじめた時に、俺に突きつけた通帳なんて、スッカラカンだったからな――。まぁ、何にしても駄目なんだろ、アイツら」
競馬は、高校に一年遅れであがってからも続いていた孝道の唯一の楽しみだった。しかしよくなかったのは、金をすってくるたびに荒れることだった。孝道が母の家事を責めはじめたのはこのころからだったから、競馬をしながら孝道は荒んでいったのだろう。それで京子はヒステリーを起こすようになった。彼女は孝道を怖がってお金を渡した。それを幸助は知っていたが、見て見ぬふりをしていた。そのころ彼は大学受験をひかえていた。頭の中で彼は自分のことの方が心配だった。しかし孝道が荒れて、京子がヒステリーを起こすたびに、幸助は家のことに段々と引きずられていった。
そうしたことが続いて、父と京子は別居するようになった。
「お母さんは明日から家を出るって」
ある晩父がいきなりそう言ったのだ。その時幸助は言いようのない怒りを覚えていた。けれどもそれが孝道に対してなのか、京子に対してなのかはっきりとしない、言いようのない怒りだった。
そしてある日、祖母が幸助を部屋まで呼んだ。彼は祖母の部屋まで行ってお菓子をもらった。
「久しぶりだね。干菓子なんて」
「そう――」
「爺さんのでしょう」
「そう、仏さんもう要らないって――」
「じゃあ頂きます」
そのころまだ祖母は元気にしていて、自分で立ったり、歩いたりもしていたし、毎週通っていた医者に行くのも、買い物に行くのも、自分で生活のあれこれは全部出来ていた。
「タカちゃん、大丈夫?」
「知らない――」
祖母は気遣っていたのかわからない。孝道の話をしたがる祖母を軽くあしらって幸助はその干菓子を食らった。黙っていると、祖母も何もできないふうにしていて、テレビに見入っていた。あの時の幸助にとって孝道の話は気が重かった。
京子が家に全く寄らなくなってから、孝道は荒んだ精神を母親にぶつけられなくなった。孝道はひとり喚くようになり、夜遅くまでひとり部屋に籠って時々暴れまわるようになった。
――なんだよ、なんなんだよ! ふざけるなよ!
孝道は家にいても何もせず、競馬の中継ばかりを見るか、時々、ぶつぶつと呟いたかと思うと、突然の旺盛に笑いだしたりして家の中を歩き回っていた。
――お前らのせいで、お前らのせいで。
と、くり返し言ったり、肩がこって仕方がないという口実で、風呂を何時間も占領した。
寝室でクローゼットを開けて衣類をしまっている幸助と父がいた。
「あれをどうするつもりだ」
父は、仕事から帰ってもイライラしながらその話ばかりしていた。
「それを俺に聞くの――。」
幸助は無責任な父親を隣に見て絶望を初めて感じた。
「それは俺がどうする問題じゃないでしょう? 孝道がああなったのは、俺のせいじゃないんだから」
幸助も高校と予備校を行き来する中で、毎晩受け入れなければならないストレスを感じながら、なんの慰めにもならない話をされて苛立った。
「あんなの、どうにもならねえじゃねえか」
幸助は父に何の考えもないことに唖然とした。信じられないという思いで、前身の毛が逆立つような焦燥を覚えた。
「どうにもならないって言ったって、しっかりやってないのはアナタたちでしょう? だいたい昔から孝道が俺のことを避けてきたんだから、いまさら俺が何か言うなんてこと、できないよ」
「おまえ、冷たい奴だな。――あんな夜中まで起きて叫んでたら、近所迷惑じゃねえか」
「そういう問題じゃないでしょう――」
「そういう問題だ」
――近所迷惑、幸助はその言葉をもう一度胸の内で繰り返した。父の考えはずれているように思えた。彼にはそうとしか思えなかった。このような粗暴な言い方で言うセリフとしてはひどくくだらない言葉だった。孝道の問題を近所迷惑だからという理由で解決できる訳がないのはわかっているはずであった。現にそうした口論は母親が出て行ってから孝道と何度も繰り返してきたことだった。
「孝道を黙らせるのは確かにそうだけど、孝道にそれをいってもわからないんだから意味無いでしょう。アンタがそうやって怒ってばかりいたらなんにもならないよ」
「俺が悪いって言うのか? アイツをああしたのは母親だろう。毎月毎月、勝手に通帳の金渡して――」
父は誰かに責任を押し付けたいのか、幸助や母親を問題にした。幸助は誰が悪いとかの宛もない話をされることが一番気分が悪かった。父が前に母親としたような責任のなすりつけ合いみたいな言い分を続けることで、その不毛さが孝道の問題をどうでもいいという気分が父から幸助へ伝わり、彼はその不毛なやり取りをどこへ解決に持っていくべきなのかいつも迷わなければいけなかった。けれども父に何を言おうとも、それは父の考えに当てはまることとは違っていた。
「アイツを説得するのは俺からじゃ無理だよ。そういう話は母親としてくれよ」
「母親がアテになると思うか? 俺が孝道に言ってことだって全部否定して甘やかしてばかりきたんだぞ」
「どうせ怒りながらそういうこと言ってたんだしょう?」
「なに? どうしようもねえ奴らだ、アイツもお前も。あんなことしてたらそこらじゅうから白い目で見られるんだぞ」
「明日があるのに、毎晩毎晩そんな話して、自分でどうにもできないんだったら、何で子どもなんて作ったんだよ。そんなに世間体のことが気になるの? 孝道をどうにかしなきゃいけないのに、それを問題にしてたってどうしようもないだろ――。今まで孝道自身のこと放っておいてああなったんだから、アンタらの育て方が間違いだったんだよ。
――もう殺せよ。その方が早いよ。」
「バカ、黙れ。アイツに聞こえるだろう」
「関係ねえよ。先寝るから、黙ってくれよ」
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