重たい女と浮いた女

下之森茂

発症

目の前が真っ暗になった。

あまりのことに私は席も立てず、

うつむいて胸元を見つめていたと思う。


胸の谷間にリングをつけたペンダントが輝く。


長い間そうしていたからか、

ウェイトレスが私の隣でグラスに水を注いだ。


突然、私は呼吸もできずにおぼれ、

目が覚めたときには病院のベッドだった。


突発性とっぱつせい重力障害じゅうりょくしょうがい


診断結果に目を疑う。

私の知らない病名で、壮年の担当医も

この病気を診断するのは初めてだと言った。


「マコト・カケメさん。ね。

 この病気については私も門外漢もんがいかんでね。

 運よく専門の先生に連絡がつきましたから、

 午後から面談で時間あけといてください。」


運がよければ入院なんてしない。

私は胸の内で否定をつぶやいて首肯しゅこうした。


私はそんな医者の話をだいたい聞き流していた。

思考停止していたんだと思う。


それに足元からカテーテルが伸びたこんな姿、

できればこれ以上誰にも会いたくはなかった。


病院側から用意された個室には、

常に看護用機械人形がつき

待遇はよかったのかもしれないけど、

私は囚人にでもなった気分だった。


それから午後になって病室に入ってきたのは、

珍妙ちんみょうな出で立ちの人物だった。


病室でただ呆然としていただけの私は、

その姿に思わず目を見開いた。


立方体に8つの脚とタイヤが伸びた、

1メートルほどの高さの自走機械。


本体のあちこちに『救急』のシールが

デカデカと貼られている。


それからとても小柄な少女が入室した。

身のたけに合わない厚底靴をいている。


「こんにちは。マコトちゃん?

 はじめまして。ミカ・ルイケです。」


黒縁のメガネで、派手なオレンジ色の髪と

袖で手が隠れるほど、大きく不似合いな白衣。


「ドクターミカって呼んでもいいよ。」


ベッドの上で握手を交わした。

あまりにも小さな手で、顔は童顔どうがん

身長もあいまって中学生にも見える。


この少女をドクターと呼ぶのは躊躇ちゅうちょする。


「あたし先週まで宇宙いたんだよ。

 『スターリング』って知ってる?」


その名前は私だって知っている。


「宇宙居住区の。仕事でやりました。

 ひょっとして、住んでるんですか?」


「まさかぁ~。仕事だよ。

 でも住んでみよっかなーって思った。」


「すごい高いんじゃないんですか?」


「普通に住もうとするとね。

 マコトちゃんのお仕事は?

 おぉ、この代理店。あたし聞いたことある。」


大学を卒業して大手の広告代理店に就職し、

あらゆる企業の宣伝等を手伝う仕事をしている。


宇宙で初めてのコロニー、『スターリング』の

国内向けマーケティングも、私たちの手掛けた

仕事のひとつだった。


「私の病気ってなんですか?」


こんなところでこんな若い子相手に

悠長ゆうちょうにおしゃべりする気はない。


意味のわからない病気を治して、

さっさと退院して仕事に戻りたい。


「突発性重力障害だってねぇ。」


『だってね。』?

医者にしてはあまりにも他人事のように言うので、

私は眉をピクリと動かした。


その表情の変化をこの相手、

ミカはすぐに察して続けた。


「検査じゃなんにも出ないんだよね。

 レストランにいた人が救命の資格持ってて、

 症状から病気がすぐに分かったって話。

 午前中にその子から話聞いてきたの。

 たしかに突発性重力障害だった。」


「だから、なんですか、それ。」


突発性とっぱつせいってのは名前の通り

 前触れなしに突然発症するタイプの病気ね。

 で希少疾患きしょうしっかん、つまりは珍しい病気。

 1000万人にひとりだったけど、

 ここ20年くらいで100万人にひとりってくらい

 増えてきたねぇ。そんでもって難病。」


「難病…。」


「完治の難しい病気のことね。」


「分かってます!」


「親族は? 結婚してる? ひとり暮らし?」


「…ひとり暮らしです。

 両親は離婚してます。」


私が中学校に上る前に両親は離婚した。

母と祖父母の元で大学卒業まで過ごし、

離婚した父からは養育費を貰っていた。


そんなことをたずねられれば、

余計に病気の詳細が気になる。


難病と言われるとガンや白血病はっけつびょうを想像する。


「私、そんなに重たい病気なの?」


「重たい病気…まぁそうね。

 そんな焦らなくても。あ、お茶飲む?

 地元はここらへん?」


「違います。いりません。

 地元はイナです。」


看護用機械人形が湯を沸かし、

コップを用意している。


私はカテーテルを差し込んでいるので、

できれば水分補給はしたくはない。


「イナ? へぇ。

 近くに湖が有名なイナ?」


「え、そうです。」


「いいねー。あたしも子どもたち連れて

 またキャンプ行きたいなぁ。」


驚きは2度あった。

言葉だけでは分かりにくい地名を

ミカはすぐに言い当てた。


近くの湖は、天狗が出て人をさらうという

ウワサのあったキャンプ場だ。


それに、この童顔どうがんに奇抜な髪色をして、

いくつか年下で子持ちで医者をやっている。


醜い劣等感が私を支配する。


「飲まなくてもいいわよ。

 オートマトン。白湯さゆでいいよ。

 ぬるめでお願いね。

 えーっと40度くらいで。」


オートマトンと呼ばれた看護用の機械人形は、

白湯さゆを言われた通りに放置する。


彼女と一緒に病室に入ってきた自走機械は、

ミカの足元で機械の脚を畳んで待機している。


「まあ本題に入る前に、…へぇ、28歳かぁ。

 マコトちゃんパートナーは?

 あ、同性でも異性でも構わないけど。」


私は首を横に振る。

肯定できないから。


胸元に沈むペンダントを見た。


発病した日、あの時に私は6年間

付き合っていた男性から別れ話を持ちかけられた。


「広告代理店での仕事はあちこち移動する?」


「え、はい。」


「そう…。それは大変ね。

 会社とは連絡取った?」


「治るまでしばらく休めって。」


「じゃあ休業手当かな。

 傷病手当の申請もできるか。

 加入してる保険会社に連絡してみてね。

 それから障害者給付。」


「そんなにこの病気って深刻なんですか?」


「難病って言ったよね。

 あれ? 言ってなかったかもだけど。」


オートマトンが用意した白湯さゆをミカに手渡した。

受け取ったミカはコップに指を突っ込む。


「おぉいい感じの温度。で、

 突発性重力障害は症状が必ず慢性まんせい化するの。」


ミカはコップを私に向けた。


「ちょっとこれ持ってみて。」


「飲みませんよ。」


目の前で指を突っ込まれた白湯さゆなんて、

絶対に飲みたくない。


ベッドからお尻を少しズラしてコップを手にする。

ミカが目を見開いてこちらを観察して、息をつく。


「重力障害。マコトちゃんのは

 〈ヘビィ〉って呼ばれるのだけど。

 発病したとき、ウェイトレスの持ってきた水が

 マコトちゃんの顔に吸い寄せられて張り付いて、

 呼吸ができなくなったの。」


「そんなことってあるんですか?」


「それがこの病気。重力障害ね。」


ミカはコップを指差した。


「なにも起きないじゃないですか。」


「マコトちゃんのは突発性だもの。

 いまはなにも起きなかった、ってだけ。

 再発は今夜か、はたまた明日か、来月かも、

 ずっと来なくても確認された中だと

 最長でも1年経って再発した事例もある。

 さっき言った通りこの病気は確実に慢性化する。

 今現在も原因不明で治療も不可能。

 そうなるともう普通の生活は送れなくなるの。

 想像してみて。」


想像できない。

私は首を横に振る。


「距離は片腕1本分くらい、

 体重の1割くらいがマコトちゃんに

 引き寄せられるの。引力いんりょくってやつね。

 マコトちゃんの体重がぁー…うん…

 だいたい60kgキロと仮定して、仮定ね。

 体重の1割は、水だと質量6リットル。

 6リットルはペットボトルで想像してね。

 それが身体全体に張り付いちゃうの。

 お風呂やシャワーを浴びようものなら、

 単純におぼれるわけよ。

 できるのはちょっと濡らしたタオルで

 身体を拭くぐらい。頭かゆくなるよね。」


丁寧に話してくれてはいるけど、

私は病気を自覚してないので理解しようがない。


「さらにお手洗いも大変。

 便器の和洋を問わず、おトイレの水が

 お尻から身体をって全身に。

 ずっとカテーテルってわけにもいかないし。」


想像するとゾッとする話だった。


「だから海外ではストーマにする人が多いね。」


「ストーマ? ってなんですか?」


「ひとりじゃおトイレができないから、

 お腹のここらへんにね、

 人工の排泄はいせつ口を増設するの。」


ミカは腹の左右前面をさすって場所を示した。


尿管にょうかん回腸かいちょう大腸だいちょうなんかを切って

 その端をお腹から出すの。写真見る?」


想像に怖くて、私はすぐさま首を横に振った。


「でも排泄はいせつ口を増設すると、

 お腹じゃ括約筋かつやくきんを使わないから

 排泄はいせつがコントロールできなくなる。

 パウチって呼ばれる袋を身体に取り付けて、

 生活しなくちゃいけない。」


「え? 待ってよ! 私は普通でしょ?」


手にしたコップの白湯さゆが私に張り付くなんて、

そんな不可解な現象は起きていない。


「いまは、ね。」


突然、あなたはこれから障害者になります。


なんて言われても信じられない。

しかもこんなオレンジ頭の医者に。


「病気じゃないなら、いつ退院できるの?」


「手続きすれば今日には退院できるよ。

 ただ病院側としても

 再発の可能性の高い患者を

 野放しにはできないから、

 あたしが呼び出されたの。

 そんでもし退院するなら、

 この子を常に同行させる必要がある。

 それに同意したらいいってさ。」


「なんですそれ。常にっていうのは?」


「24時間。お風呂も、トイレも。」


「やだ! そんなの。」


「もちろんプライバシーは守られるよ。

 会社の情報も取得することはありえないし。

 これはただの救命道具だと思って。ね。」


ね。ってなに?

私の不安をよそにミカのはにかむ顔は、

妙な愛らしさがある。憎たらしささえ覚えた。


その日の夕方、私は退院した。

同意書にサインしなければ、たぶん…

ずっと病院暮らしだったかもしれない。

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