第五話「食」(2)


 そんな生活をしばらく続けていた時だった。どこから聞き付けたのか、突然店に睿の親戚を名乗る男が現れたのだ。今から思えばこの男が本当に親戚であったかはわからない。子供を無計画に作りその挙句、売り飛ばすような親の親類だ。ろくな者がいるはずがない。とにかく自分は親族だから、俺の言うことに従えと煩い男の言うことを睿が聞いたのは、その男がまともな料理店にするために設備を投資してやると言ってきたからに他ならない。

 男は金は持っているようだった。何の仕事をしているのかは興味もなかったので聞かなかったが、どうせ真っ当な仕事ではあるまい。男の協力により立派な炉を造ったところで、その男は“都合良く”都の自警団に捕まった。男は最初から、美しい妻が目当てだったのだ。もちろん少しは、この店の利益のことも考えてはいただろう。しかし色欲に塗れた男の夢は叶わなかった。旅の度に訪れてくれる旅人から男の悪い噂を聞いていた睿は、密かにその旅人に都へ報告してくれるように手配していたのだ。

 それからは特に大きな問題もなく、大きな利益もなく店はまわっていた。最初は二羽のアヒルと一匹のブタだけだった家畜も、季節が巡るにつれて増えていった。卵を産むアヒルばかりが増えて、その生まれる前の卵を戴くという辛い体験も何度もした。家畜と言っても家族である。家族が増えていく、穏やかな幸せの時間。

 幸せは愛を健やかに育て、その愛が二人の間に命を育んだ。家族がまた、増えるのだ。今度は言葉の通じぬ家畜ではなく、自分達の子供。人間の子供だ。

 そんな幸せを、この龍が奪った。

 『これはお前の愛を受けた血肉』

 心の蔵にはまだ届かない。

 奪い去ったのだ。睿の目の前で。

 愛しい、最愛の存在をその見えざる“一撃”で。嘲笑うかのように。

 心の蔵にはまだ届かない。

 腹に宿ったその命は、まだ人のカタチを成していなかった。しかしカタチすら成していない短い手足で懸命に人であると示すように、その心音は強く強く睿の耳に届いたのだ。腹を脈打つ命の音。

 愛の結晶と共に生きる、そんな最愛の存在を、この龍は奪ったのだ。

 心の蔵にはまだ届かない。

 睿だけではない。龍が愛するその子供もまた、龍の被害者であった。永きに渡る憎悪の念を、睿に己の刃として託したのだ。彼女もまた、龍に家族を――自分を奪われたのだ。

 思わず睿はその手を止めた。刃を持った睿の前で、欲望を抑えられない龍が、自ら、その血肉を貪ろうと皿に手を掛けていた。手も足もなく、ごとりと横たわったその胴には、睿の愛も、龍の愛も、妻の愛も、全ての愛が詰まっている。子供となりえなかった詰め物で膨らみきったその血肉が、何よりも――龍にとっての毒≪切望≫となるのだ。

 愛しい愛しいその血肉が、龍の牙をすり抜けて、その臓腑へと運ばれる。

 心の蔵には――届いた。届いたのだ。

「……っ」

 わざとらしいまでの笑みを浮かべたその顔が、次第に青ざめる。笑みのカタチはそのままに、その額には冷や汗が並び、人のものとはかけ離れたその顎から、涎とはまた違う液体が零れ落ちる。

 人のものとは思えない、苦しみの声を上げて、龍は席から立ち上がった。血肉を貪るためにその手だけは人のそれ。胴はまるで祭りの時に人が披露する踊りのように、その豪奢な衣の背を押し上げて、毒々しいまでの緑に彩られた鱗を睿の目に晒している。

 並んだ牙から泡が零れた。びくりびくりと痙攣を繰り返すその身体をそれでも引き摺って、龍は苦しみから逃れるようにその頭を――もう人のカタチは保っていない。神話に聞く龍の姿がそこにはあった。長い髭を衣と共に垂らし、巨大過ぎる顎が円卓ごと床に落ちた。ガシャンと大皿が割れて、彩達が散らばった。

 地に伏した巨体を見下して、睿の心はまだあの頃の――幸せな二人の時間を彷徨っていた。そうしなければ頭にこびりついたあの霞に、心が持っていかれそうだった。

 日に日に大きくなる腹を摩って、妻は幸せそうに睿に微笑んでいた。

 子供の名前は何にしようだとか、着せるための服を用意しなければならないだとか、どちらに似た子になるだろうかと嬉しそうにはしゃぎ、そうかと思えば産むためには他者の力を借りなくてはならないだとか、伝染病には罹らないだろうかとか、赤子のための料理なんて作れないと顔を青くしていた。

『料理は、俺が作るよ』

 あの時、睿はそれだけ答えた。答えるべき問いが多すぎるのが、彼女の少ない悪い部分だった。そんな一気に問い掛けなくとも、一つ一つ答えてやるというのに。何度言っても変わらないので、その頃の睿はそうやって、いくつもの問いのうちの一つにだけ回答するようになっていた。いつでも答えてやれるから。時間なんていくらでもあるのだから。そう思っていたのだ。

 料理以外は完ぺきな妻だった。料理は睿が作れば良い。そんな些細な問題は、二人には必要なかった。必要なのは、時間だった。少なくとも睿にとっては。答えを面倒に思い、先延ばしにした自分への後悔だ。

「これは俺の愛を受けた血肉だ」

 睿は泣いていた。己の中の感情が、その雫に全て落とし込めているとは思えない。だがそれで良い。今は、溢れる感情を少しでも減らして楽になりたい。そう、楽になりたいのだ、俺は。

 答えを先延ばしにしたあの日の後悔から、目の前で最愛の存在を奪われたあの瞬間から、愛おしいと思えた子供の切望を真の意味で止めることが出来なかった自分から。

 龍の口から鮮やかなる赤が零れ落ちる。睿は刃を持ったままだ。

――やはり、そうなのか。

 愛おしい存在と結ばれることも出来ずに、その命が尽きるまで生き続けなければならなくなった。美しい存在をその手にしようとすればする程、歪なカタチに歪んでしまった。愛を乞う手がいつしか刃を、その手に強く握っていた。己の愛を捧げれば捧げる程、その憎しみの刃は研がれていった。

 龍が苦しみに床を踊る。のたうつようにその腹を天上に晒す。それが望みだと言うように、無防備に、そして堂々と。

 龍の腹は歪に膨らみ、脈打っていた。睿の仕込んだ料理≪毒≫の効果が、龍の身体を弱らせる。とくんとくんと、音が聞こえるようだった。

 それは赤子の龍だった。引き摺り出された人のカタチを成しえないものに、人を模した存在を落とし込んだのだ。男を写した少女を写す。その赤子は、間違いなく睿の愛を受けし血肉だった。

 小さな小さな心の蔵が、龍を絶命に導く音≪声≫を発した。どくんどくんと、力強く。

『チ……チ……ウ……エ……』

 酷く耳障りで暖かな音が混ざる。生命の喜びに違いないその音は、いつかの睿が面倒がったその瞬間を攫う。

――伝えなければいけなかった。

 自分がいかに愛していたかを。料理だけが全てではなかったのだと。

 彼女はわかっているはずだった。しかし、最後の最後に睿は彼女に報いることが出来なかった。料理を優先するあまり、彼女の命を奪われてしまった。後悔が、実ることはないのだ。

 そうでなければ死して尚、彼女が望むはずはなかったのだ。食材の声を聞くのが料理人だ。睿には彼女の愛しい血肉が、何を望んでいるのかわかっていた。妻は自身が龍に提供されることすらも、睿のために望んでいたのだ。

――俺は……

 謝罪の言葉は出さなかった。それは自身が死んでから、直接伝えることだと思ったからだ。強く強く握り締め過ぎて、愛しい刃から誰のものかもわからない赤が滴っている。

『チ……チ……ウ……エ……』

 龍の腹から聞こえるのは、彼が真に望んでいた誘いだ。

 龍の口から零れ出た赤に、睿の顔が写っていた。鮮やかなその血だまりは、とても鮮明に睿の表情を写す。落とし込んだ男と、その顔は同じだった。

 腹からの愛しい声に誘われるように、龍はその尾を――自身の腹に突き立てた。

 “自ら選んだ”その結末に、しかし生物の本能からか、龍の身体は抗うように尾から逃げようとのたうつ。死を望んだ男を落とし込んだ子供の願いは、その男の願いに他ならない。

 彼は己の死を望んでいた。愛する我が子に殺される。そんな未来を夢想していた。いつしか歪に歪んだ愛の結末を、奪われることで完結しようとしていた。

「子供は……親のもの、なのか?」

 自らの終焉を子供に託した龍。はした金のために売り飛ばした睿の親。子供の命があるとわかっていながら守れなかった睿自身。皆が皆、親と呼ぶにはおこがましい。

 龍は自ら死ぬことも出来た。睿の親は自らがもっと働くことも出来た。睿は子供のために龍を拒否することが出来た。しかし、しなかった。皆が皆、しなかったのだ。己の身が可愛いあまり、その自己愛が周囲を傷つける。

 突き立てられた己の刃から離れようとする龍の腹から、人のカタチの手が伸びた。それは一対の腕であり、白く艶めかしいその姿に、睿の涙が更に溢れた。

 優しい母の抱擁のように、無垢な子供のじゃれつきのように、その腕は龍の尾を抱き、引き込んだ。共にいるのが自然なのだ。それが真のカタチであると、見るものに諭すように静かに穏やかに。その腕は尾をゆっくりと腹へ、自身へ引き込んでいく。

 横たえられた龍の目が睿を捉えた。その瞳は、最初はわざとらしいまでの笑みに歪み、そして愛らしい感情の浮かばない光を宿し、そして――

「……っ! す、すまな……っ」

 それは一瞬だった。優しい包み込むような光で、睿をその光は見詰めていた。見詰めてくれたのだ。それこそが許しであった。握り締めたままの刃からは、もう滴るものは感じなかった。

 言い掛けた謝罪の言葉を飲み込むと、睿は龍に歩み寄った。もうその体躯は抵抗を止めて、零れ落ちる命の流れに身を任せているようであった。

 突き立てられた尾の、深い緑の鱗に触れる。触れただけでその指先に、チクリと小さな警告を感じた。滑らかに見えるその鱗には、他者を寄せ付けぬ棘があるのだ。まるでそれが神に仕向けられた心の武装のようで、睿には龍という存在に今まで抱いていた考えを改めるべきだと思えた。

「……人間、よ……望みは、叶った、か……?」

 龍の口から流れた言葉が、一体誰に向けたものなのかはわからなかった。

 虚ろな赤き瞳は睿を写しこそしているが、もう何かを見えているようには思えない。突き立てられた尾に、睿は手を改めて掛ける。爛れた手のひらに鱗が食い込むが、それを無視して力を込める。

 龍にトドメを刺すのは、睿の役割だとわかっていた。きっと放っておいてもそのうち、時間は掛かるだろうがこの龍は死ぬ。孤独の闇に堕ちる。だが、それにトドメを刺すのは睿でなければならなかった。

 自身の死を願う龍の望みを聞いたから。その望みを口にしたのは龍の子供であった。しかし睿はその子供の奥底に、その深紅の奥底に、欲望に堕ち狂い助けを求める赤を見つけた。子供の声は、男の声であった。

 己を落とし込んだ存在に、その存在ごと己の死を望んだのだ。睿にとっての復讐は、子供にとっての復讐で、その意味するところは、大いなる存在の自殺であった。龍もまた、楽になりたかったのだ。その心の切望が、睿へと導いたとも今なら思える。

「俺の望みは……一つだけだ」

 龍は人間の大半の望みを叶えることが出来る。しかし龍も生物だ。天なる存在ではない龍に、人の命は扱えない。睿の切望は愛する妻の再生だが、それはこの場の願いではない。妻にはこの世ではなく、あの世で謝罪をすると決めている。

 美しい妻の姿を深層に焼き付けたこの心で、この世を生きなければならない。生きるためには『夢』や『希望』が必要で。おそらく普通の人間ならば、そこに『愛』なんてものも入ってくるのだろうが、あいにく睿の心には愛はもう満ち足りてしまっている。

 睿には『夢』があった。今はどこにいるのか、果たして生きているのか死んでいるのかもわかない友人の『夢』であったものが、いつしか睿にとっても夢になっていた。今は亡き妻も、いつしかその夢を応援し共に歩んでくれていた。

「……馳走の、礼に……最後の願いを、聞き……入れ、よう……」

 龍の口元が穏やかに歪んだ。それを笑顔と受け取った睿は、血に塗れた龍に願いを伝えた。

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