第四話「贖」(2)
睿の心からの請いは、しかし子供の望みを叶えるものではなかった。龍を殺すには龍の刃が必要で、その刃を通すまでに弱らせるには龍の血肉が必要だった。
「父は強大な力を体現したような、龍の中でも力の強い部類の存在だから。ボクの手足くらいでは、きっとその身体を弱らせることは出来ない。ボクの身体の中心である、父の魂を写した心の蔵を捧げてやっと、その身を一時的に抑え込むことが出来る」
この子供の唯一とも言える願い。それは父親という存在の死に他ならない。そのためには死にたくはないという気持ちを抱きながらも、その身を灼熱の炉へと投じなければならないのだった。
「罪を焼き尽くす焔に晒されても、ボクのこの身体は絶命することが出来ない。だからどうか、この命の最後の瞬間を、睿……貴方の手で終わらせて欲しい」
愛しい子供の小さな手が、睿のそれに重ねられた。そのまま手を重ね合ったまま、愛の儀式のようにその首へと誘う。指先に触れる柔肌は、人のそれ、ではない。龍の鱗をその下に隠した、人を模した歪。
ちらりと最愛の存在へと視線を投げた。長年睿の人生に、正解を与え続けてくれていたその存在は、冷たくなった今でも睿の道しるべに変わりはなく、その瞳を開けたまま横たわっている。光を亡くしたその瞳に、それでも睿への確かな愛情と、そして望みが映っていた。
「……わかった」
睿は“要求を受け入れた”。小さな身体を台から下して、夫婦のための寝具の上に運んだ。随分柔らかさの足りないそれに子供を座らせてから、睡眠も休息も必要としなくなった自身の身体に溜め息をついた。
睿の身体は間違いなく、龍の寵愛を受けていた。それは果たして父親からなのか目の前の存在からなのかはわからない。だが、確かに睿の身体は、人の域を超えようとしていた。その愛しい刃を振るうための存在に、造り変えられていく。そこに人間らしい感情も、心身の疲労も必要はない。狂おしいまでの、極上への追及のために必要な、『愛』と『酷』と『美』があれば良いのだ。
冷めきった平坦な心の奥底で、最愛の者を亡くした自分が泣いていた。しかしそれすらも霞の蓋に覆い隠される。酷く鈍い殺意だけが残る。これは――復讐心、というやつだ。子供と話すまで、わからなかった。あまりに濃い霞のせいで、進むべき道を見失っていた。
薄い布地を子供に纏わせて、睿は横たわったままの妻の身体に歩み寄った。
『これはお前の愛を受けた血肉』
契りを交わした唇に指先で触れる。硬直して冷えたその肉の感触に構わず、そのまま顎へ、首へ、そして衣越しに腕から腹へ向かってなぞっていく。女性らしいふくらみの下、腸の表皮に指先が行き着いた。
『これはお前の愛を受けた血肉』
確かな愛を交わした二人には、天からの贈り物が授けられた。愛しい妻の腹に宿りしその命は、もう鼓動を止めている。覆い護るその身体からの愛が途絶えて、小さな命はもがき苦しみ、そして息絶えた。まだ人のカタチすらしていない、小さな小さな命だった。
――子を殺した。殺された!
胸に圧し押せるその感情に、睿は台の上に置いたままだった刃に手を伸ばして、耐えた。己の中の欲望に耐えるために、愛しいその刃の柄を強く強く握りしめる。塞がりかけていた手のひらの傷が、また開くことさえ厭わない。
――子をあいつに! あいつに殺された!
胸を支配するその絶叫に、頭の霞が擦れた声で反論する。
――これからあいつの子供を殺す。喉を突き殺し、絞め殺し、手足を切り落とし、舌を引き抜いて、腸を引き摺り出し、殺す。灼熱の炉に放り込む。
冷え切った腹の中に温もりを探す。どこをどれだけまさぐっても、その指先に温もりを感じることは出来なかった。
――喉を突き殺し、絞め殺し、手足を切り落とし、舌を引き抜いて、腸を引き摺り出す。
手のひらから滲み出た赤が、まるで紋様のように妻の腹を汚した。擦れ擦れに汚されたそれは、睿の食材であり、贖罪だった。
固く閉ざされた唇に、己のそれを重ねる。これまで何度も交わしたその行為。たった一度の“罪”によって、酷く鋭利な冷たさに変わったそれに、睿は涙を零しながら何度も何度も重ね合わせた。
――龍に食材を。
極上のお客様は、きっともうすぐ現れる。薄い扉を隔てた向こう、暖簾を越えたその先に一陣の風が吹いた時、最後の血肉を貪りに、その男は現れる。
男はこれが最後だと告げていた。それは勧告であった。この期を逃せば男はもう、この店には現れない。
力の入らない人間の身体は重いということを、睿はこの時初めて知った。最愛のその身体を流れる涙もそのままに、処理のための台の上に載せる。丁寧に、優しく寝かせてから、その身体はやはり美しいと感嘆の溜め息を吐いた。
――龍に食材を。
自らの血によって汚れたことにすら気が回らない頭で、これまで何度も繰り返した手順を一から確認する。
喉を突き殺し、絞め殺し、手足を切り落とし、舌を引き抜いて、腸を引き摺り出す。落とした部位は添え物として、別の料理に使用する。美しい姿形を出来る限り留めながら、彩を添えて提供する。
――龍に食材を。
愛くるしい瞳が睿を見ている。その目にはもう、感情は籠っていない。手に持った刃がどくりと震えた気がした。
灼熱の炉は罪深き焔を抱え込んでおり、時折そこから零れる橙色が、煙と共に睿の心を急かすのだった。
龍の姿を収めるこの目が憎い。指先を瞼に食い込ませるようにして、眼球をその汚れた指先で触れる。
龍の香りを嗅ぐこの鼻が憎い。形が変わるぐらい指に力を入れて押し付ける。汚れた指から腐った血肉の香りがする。
龍の声を拾うこの耳が憎い。手入れをしていたはずの爪先が、柔らかい耳朶に薄っすらと傷を残す。感情すら感じさせぬその声音が、心の奥底で恐怖と不安を煽る。
龍と言葉を交わすこの口が憎い。この喉の渇きが血肉への飢えに感じて、汚れた手と知りつつその奥底に突き込む。酸の匂いすら感じぬ程に、香しい血肉を求める、獣のような欲望を渇望する。
――龍に贖罪を。
人の体温からかけ離れているその肌に左手を添えて、睿はその刃を振り上げた。
灼熱の炉から黄金色に焼き上がった身体を取り出す。
ぬらぬらと艶めかしく光るその表皮は、飴糖水の成せる技だ。食欲のそそるその色合いを出すのは、睿の技術ならばどんな血肉に対してでも容易い。
命を奪われた後の身体の処理をすることは、睿のなかの料理人の魂がおこなった。哀しみに泣く感情も、憤怒に燃える感情も、そこにはなかった。睿は料理人であった。
やけに切れ味の良い刃を腰に下げ、その身体を厨房へと運ぶ。手のひらの火傷が更に酷くなったが、表面的な痛みなど、もうどうでもよくなってしまっていた。調理の際の血とも自身の血とも取れるそれが、飴に溶け込むかのように染みる。
厨房のまな板の上に身体を横たえた時、暖簾の向こうに一陣の風が吹いた。春の安らぎとは程遠い、山の頂から吹き付けるような冷気。人の心すらも凍り付かせるような霞を引き連れて、龍は最後の暖簾を潜った。
「……今夜もまた、期待していますよ」
含みすら持たせたその言葉は、最後の日も同じ言葉から始まった。この龍は、『期待している』のだ。
この空間の円卓に座り、隣に子供がいないことにすら気を回すことはしなかった。不満も不安も何も抱かずに、龍は睿の馳走を待っている。今夜こそはと約束された、極上の血肉を。
睿は龍を卓で待たせて、挨拶も返すことなく作業を続ける。焼き上がった肉を彩るための野菜を刻み、その間にスープに火を通す。
愛おしい刃のおかげで彩りはすぐに完成する。皿にそれらを敷き詰めてから、スープの加減を見るために大鍋を覗き込んだ。油が浮かんだ透明度の高い液体の表面に、料理人の姿が写る。
そこには罪に歪み、命に疲れ切った男の顔が写っていた。己の罪を受け入れた上で、その先を求めた男の顔だった。
充分に火の通ったスープを注いで、まずはそれを龍の前に運ぶ。今日は特別な料理だから。この龍に提供する、最後の料理だからこそ。今宵の主役は最後に提供すると決めていた。
血の滴る手のひらもそのままに、極上の味を並べていく。主役はまだだ。まだ。最後にその喉に通さなければならない。極上の愛を受けた血肉を。
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