第二話「色」(3)


「……どうした?」

 妻の不安を案じてやりながら、しかしこの惨状を見せる勇気は睿にはなかった。両手を夥しい赤で汚し、糞尿とも唾液ともつかない体液が床に滴るままになっている。処刑台よろしく板に突き立てたままの刃がギシリと、悲鳴ともつかない音を立てた。

「……仕込みはまだ、かかりそう?」

 扉越しの会話。

「……今、炉にアヒルを入れたところだ。まだ、かかる」

「……そう。野菜は、まだあるかしら? 私が、買って来ましょうか?」

 怯えた声を隠すこともなく話す妻は、相当怯えているらしい。扉越しにそこまで伝わってくるというのに、この薄い薄い扉を開けることは、最後の最後まで睿を躊躇させた。硬く閉ざされたままの扉を開けるような女ではない。

「……そうだな。またアヒルと、ブタも調理する。それに合わせて買って来てくれ」

「……わかりました」

 安堵とも溜め息ともつかぬ息と一緒に吐き出された了承の返事に、深い溜め息をついたのは睿の方だった。

「……すまない」

 罪悪感から出たその言葉は、一体何に対しての言葉なのか。自問自答しようとして、店の裏口――入り口ではなく厨房に直接繋がる目立たない扉が一枚あるのだ――から人が出て行く気配がした。

「……」

 睿は、もう一度息を吐いた。自らの中に滞留する邪な全てを、その息に乗せて吐き出すように。空になった肺で深く深く息を吸うと、血生臭い香りがいっぱいに広がった。邪を流し、そして欲望でいっぱいになった器に手を掛ける衝動に駆られる。

 ギィ……

 扉が醜い音を立てて開かれる。背中を預けたままだったので、扉は睿の身体にぶち当たって中途半端な加減で止まる。扉の隙間から覘くその顔にとても顔向けなんて出来なくて、睿はそこから動けない。

「仕込みは……終わっているのですね。“今夜”はアヒルとブタまで戴けるのですね。ありがとうございます。楽しみです」

 感情の込められていないその声に、まるで誘い込まれるかのように顔を上げる。扉の隙間から愛らしい大きな瞳が見えた。その下にぶら下がった形の良い口が、扉と同じようにギィと音を立てるかのように歪む。人の表情ではなかった。だが、龍と呼ばれるものとも違う気がした。愛されたモノだった。

 龍は表情はともかく機嫌でも良いのか、店の外で話していた時よりも饒舌であった。美しい妻が成せる技なのだろうか。あの成人男性を模った父親の龍ならいざ知らず、この性別すらも感じさせない子供の龍に対しても同じように作用するとは、睿にはとても思えなかった。

「ボクがこんなに話すのは意外? ボクは好きな相手に対しては話すんだよ?」

 子供の声が急に艶めいた。店の外でも聞いたねだるような甘い声で、睿に乞う。しなりとした細い指先が見せつけるかのように扉を撫でた。扉の縁を撫でるその指先がスルスルと下り、睿の肩に触れる。血で汚れていないその場所が、まるで清らかな場所になったかのように主張した。

「ねぇ……入れて?」

 それは、男の欲望を掻き立てる言葉だった。意味合い通りにも、揶揄的表現にも、“二人”だけの秘密の事柄にも。その全てを睿はきっと提供出来る。お客様の望む“ソレ”を、きっと睿は最高のカタチで表現出来るのだ。

 言葉に導かれるように立ち上がった。つっかえを無くした扉は風に従うように開く。見上げていたままの深紅の瞳を、今度は見下ろす。子供らしい体躯を隠す赤が、これ以上ない程に睿を誘い込む。

「ありがとう、睿」

 ごく自然に口にされた自身の名に、呼ばれた睿自身が固まってしまう。心だけでなく身体の自由すらも奪われる龍の色香に、睿ではなく料理人の魂が悲鳴を上げて砕け散った。

 まな板の上に突き立てたままだった厚口刃にヒビが入り、そして砕けた。バキリと、鈍い大袈裟な音を立てて、汚れた床に散らばる。その音と衝撃に、睿の頭から霞がたち消えた。

「……っ! お怪我はありませんか?」

 相手は龍だ。こんな人間の造った“オモチャ”程度で傷がつくとは思えない。しかしその幼き身なりのせいか、それとも情欲をそそる色香のせいか。睿の口は気遣いの言葉を口走っていた。愛しい妻にすら投げなかった言葉を、目の前の狂わしい赤に告げている。

「大丈夫です。それよりも、貴方こそ……大丈夫ですか?」

 龍が上目遣いに睿を見上げてそう言った。それは問い掛けと言うにはあまりに生々しく、そして妖艶で。舌なめずりすらも見せつけて、その魅惑に満ちた赤く紅い唇が問う。

 大丈夫? 大丈夫なものか。商売道具の刃は砕け、愛しい妻は外に買い出しに行った。丹精込めて育てた血肉達は、あと二回も来店されたら底を尽きるだろう。妻が買い出しから帰って来たら、野菜の調理を始めなければ。料理人の魂の刃が、砕けてしまったのだ。愛しい女が帰って来たら。アヒルはあと二羽だ。野菜も臓物も手で千切り、香ばしい繊維は嚙み切れば良い。子供はきっと、柔らかい。愛しい赤が、目の前にいる。

 小柄でしなやかな身体が睿に押し付けられる。ぎゅっと睿の胸に納まった龍は、ねだるように見上げてくる。その口から零れる言葉が、やけに甘い響きを持っていた。寄り添うような、異質。

「包丁、ダメになっちゃったね。ボクの刃を使ってよ。ねぇ、お願い。ボクで切って。ボクで殺して。ボクでその怯える獣達の肉を断って、愛しいモノ達の命を奪ってよ」

 龍の手が首元に伸びたとわかった時には、睿の唇に龍のソレが押し当てられていた。頭を直接掻き交ぜられるようなその流れに、睿は立っているのが精一杯だった。

 その流れは、力の本流だった。人間同士の情欲とはまた違う。純粋なる力の本流だった。きっと龍に見初められた人間は、こうやって天上の力を手に入れるのだろう。永遠のように感じた一瞬の繋がりから解放された時には、頭の中には新たな霞が浮かんでいた。

 ぼんやりしてしまっていた睿の手を取って、龍が己の尻の辺りにその手を誘導する。するとそこには目に見えない感触があった。

「龍の尻尾だよ。ボクらは人間に姿を変える時、必要のない部分は見えないように隠してるの」

「龍の……尻尾」

 天高く聳える山々を悠々と泳ぐ、長い身体の龍の姿。それこそが彼等の真の姿であった。蛇のように長い胴をうねうねとくねらせて、そんな動きすらも優雅に魅せる天上の生物。

 彼等の身体には各々に、人では敵わぬ力を宿している。その口からは灼熱の炎を吐き、その髭には天候を操る力が。その手にはどんな城壁だろうが粉々に打ち壊す破壊の力が。そしてその尻尾には、どんな岩すらも両断してしまう刃があるのだった。

 まるで絹肌をなぞるように、睿はそっとその感触を手で楽しむ。撫で上げるように先端までするりと指先を走らせると、龍がゾクリとする程妖艶な笑みを見せた。チクリと感じた指先にも、すぐには目をやれない程に心を占領する笑みだった。

「ボクの刃、受け取ってくれる?」

 龍の言葉に睿は反射的に頷いていた。その様子に龍はにこやかに笑ったまま、睿の指先に手を伸ばす。見えざる尻尾をなぞったままの睿の手を口元に持ってくると、細く滴った赤き血ごと、その指を形の良い口に含む。

 睿の微かな血を味わいながら、龍はその刃≪尻尾≫を睿の口に突き込んだ。喉を破るギリギリの位置で楽し気にその動きを止めると、刃で傷付き血の滲んだ睿を見上げて極上の笑みを浮かべた。

 そのしなやかな身体から伸びるにしては太い尻尾だった。中華包丁の代わりと言われるだけはあるその厚さで睿を傷つけないように、龍はちゃんとその動きを制御しているようだった。だが、それにしても悪戯が過ぎる。

「涎でベタベタ……ボクは美味しかった?」

 歪な笑みを浮かべながら、龍が睿の喉から尻尾を引き抜く。そして睿の顔の前で、見えざる尻尾が血しぶきを上げて落ちた。

 身体から切り離されたその尻尾の先端は、文字通り“包丁”そのものの見た目だった。龍から離れた瞬間に目に見えるようになったそれを、睿は握り、目を瞑る。これは自分のための刃だった。

 柄のところが少し緑がかった黒に染まったその刃は、まるで愛しい赤の分身のようで。

 愛しい。愛しい赤。

 先程と同じく、まるで愛の行為のように愛しく、その刃を舐め上げた。つるりと舌の先が傷ついて、愛しい刃に己の汚れた血がまぶされる。

「美味しい……愛しい……赤……」

 炉の炎が弱くなった。そろそろパリパリの肉に包まれた血肉が出来上がる。

「嬉しい。龍は龍の刃でないと傷つけることは出来ないから、この刃を大事にしてね」

 本当に嬉しそうに笑うものだから、睿は子供の言葉を深く考えられないままでいた。小さな頭を撫でてやると、どろりと香しい血を流したまま、龍は愛らしく小首をかしげた。切断した尻尾に痛みはないようだ。

 愛しいその笑顔が、どうかずっと続けば良いのにと思う。流れる赤が、その頭を、肩を染め上げる。

「この店にある血肉が全てなくなった時、その刃でボクを切り刻んで。約束だよ、愛しい睿」

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