第二話「色」(1)


「愛しい父に、極上の肉を食べさせて欲しい」

 それは子供の我儘であり、親への愛情の言葉でもあった。

 いやに食欲≪情欲≫を誘う子供の身体を思わず抱き返しながら、睿は働きの悪い頭を回転させる。

 この子供は龍の子供だ。それはきっと間違いない。人間には朧気にしか感じ取れないその異端さも、山々や家畜達は敏感に感じ取っている。

 龍とは自然、そのものなのだ。天地を破滅に陥れるも、天候を自由に操るも、他の生命を弄ぶように滅ぼそうとも。龍は神に最も近く、それでいて最も地に近い支配者なのだ。

 龍は本来、子供は成しえない。しかし、この目の前の子供は、正真正銘龍の子供だ。腕の中に人間の感触などあるはずもなく、心地の良い温もりと柔らかさに、睿の口の中は涎に塗れていた。龍の色香は睿にとっては、格別な食欲をそそるものだった。

 自然が気を立て、風が止んだ山道で、“二人”はきつく抱き締め合った。まるで愛を語るかのようなそれは、お互いの真意を知るための抱擁で。そこに愛や欲がなかったところで、暖簾の向こうの愛しい存在はきっと眉を吊り上げるに違いなかった。

「……貴方は、帰らないのですか?」

 言葉を選んで睿は問い掛ける。貧しい生まれであると自覚している睿にとって、龍の子供は天上の人に等しい。高貴な者に対する礼節など持ち得ていない睿にとって、この龍は子供といえども、時間を共にするだけでも緊張が走る相手であった。

「父は御眺めの刻に入りました。幼いボクはまだその御業は行えません。龍としての『肉』はあれど、龍としての『力』はまだないのです」

 感情の籠らない声で子供はそう言うと、睿の手を取り店の中へと誘おうとする。頭の中がぼーっとするのは辺りに漂う霞のせいだろうか。山深い位置ではないにも関わらず、何かを隠匿するかのように白き意思が根を下ろしていた。

 これは目隠し。甘き甘き味付け。

 暖簾の向こうからの視線を感じ、睿はやっとのことで抱擁を解いた。はたして解いたのか解かれたのかはわからない。とにかく急に気温が下がった山道で、睿は静かに息をついてから言った。

「お父上の来られる時間はわかりますか? 料理の仕込みがありますので」

 店内にてお待ちください、と続く言葉は出なかった。龍の子供はただ、その大きな瞳で睿を見て言った。

「お前の愛を、受けねばならぬ」

 譫言のように告げられた言葉が、睿にぶつけられる。無感情の瞳の下から放たれたそれは、睿の耳を犯し、心の蔵を掠めとるようにして心の奥底まで滴り落ちる。

『これはお前の愛を受けた血肉』

 囁きとも悲鳴とも、ましてや愛の言葉とも取れぬ、酷く歪な声がそう言った。脳に直接響いたその言葉が、睿の手を強く握らせる。子供の手を握ったその手は、妙に熱くて震えていた。

 血肉を愛するのは料理人としての性で、咎だ。愛情込めて育てたアヒルを絞め殺したその手で、子供の手を強く強く握りしめている。まるで絞め殺すのが当然だとでも言うように、その手は強く握られ、その愛らしい瞳は歪に細められた。

 暖簾が揺れる。咎めるように揺れる。

「……どうぞ、こちらへ」

 硬く結んだ手をそのままに、暖簾を潜る。そして極上のお客様に席を勧めると、厨房にて食器を洗っていた愛しき妻に一言声を掛けた。

「こちらの方はお父上をお待ちになるようだ。俺は仕込みをしてくるから、お前はこの方のお相手を頼む」

「ええ。わかりました」

 男がいないことが原因だろうか。妻は自然な笑みを浮かべて了承する。その顔に安らぎと、罪悪感からの安堵を覚え、睿は一人厨房の奥へ続く扉に手を掛けた。

 壁よりよっぽど薄い扉を閉めてから、睿は小さく溜め息をついた。そのまま剥き出しの地面にずるずると腰を落とす。

 引きずり込まれるかと思った。

 子供相手とは思えぬ深い闇に。

 異常な癖による情欲とはまた違う。人が人としてあるために必要なもの。獣となり下がる劣悪なる感情の渦に、危うく引きずり込まれるところだった。

 それは『食欲』であった。まがりなりにも人に姿を似せた存在相手に、自らの中に湧いた欲望は食欲であった。

 色素を、いや生気すら感じさせぬあの肌を、細腕を、叩き折り、炙り、削ぎ落したい。艶やかな黒髪を垂らすその頭を砕き、中身を啜りたい。大切な器に守られたそれは、きっと極上の味だろう。美しき深紅の瞳には、その一部始終を見せつけていたい。

 そんな奇人とも狂人とも思える思考に流されそうになるのもきっと、あの子供の深紅の瞳のせいに違いないのだ。龍は、その者の欲望に反応する。そして惹かれる。

 ずるずると足が崩れ落ち、地面に座り込む。身体と同じように心も底まで崩れ落ちるかのようだった。言葉にならない――してはならない声を押し殺し、睿は汚れたままの手で己の顔を掻き毟った。

 龍の姿を収めるこの目が憎い。指先を瞼に食い込ませるようにして、眼球をその汚れた指先で触れる。

 龍の香りを嗅ぐこの鼻が憎い。形が変わるぐらい指に力を入れて押し付ける。汚れた指から腐った血肉の香りがする。

 龍の声を拾うこの耳が憎い。手入れをしていたはずの爪先が、柔らかい耳朶に薄っすらと傷を残す。感情すら感じさせぬその声音が、心の奥底で恐怖と不安を煽る。

 龍と言葉を交わすこの口が憎い。この喉の渇きが血肉への飢えに感じて、汚れた手と知りつつその奥底に突き込む。酸の匂いすら感じぬ程に、香しい血肉を求める、獣のような欲望を渇望する。

 いやいやをするように首を振る。扉に片耳がついた時、扉越しに鈴の鳴るような声が聞こえた。これは愛しい者の声だ。あの人ならざるモノの誘うような音色ではない。

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