第17話 十日後の会敵


 命とは、喰らい喰らわれることで紡がれていく鎖である。

 喰らうものはより喰らうために進化し鎖をつなげ、喰らわれるものはより喰らわれぬために進化し鎖をつなげていく。


 では、人は?

 徒党を組み、罠や武器を作り、時として自分よりも大きな獲物をも仕留めうる。

 そう見れば、なるほど人は勇敢な狩猟者のようだ。

 畏れるものなどない、喰らう側のものであるかのようだ。


 だが、本当にそうだろうか?

 夜に火を焚き、一族みなで憩うのは、一様に夜へ抱く不安があるからではないか。

 天翔ける雷鳴に身を寄せ合うのは、届かず及ばぬ力に畏れを抱くからではないか。

 罠や武器を携え、祈りを捧げ、お互いを鼓舞し徒党を組むのは、無慈悲な角や爪牙の前に骸となったあまたの同胞たちの経験を、敬虔なまでの真摯さで受け入れてきた故ではないか。

 すべては喰らうためではなく、喰らわれぬための。命を懸けた戦いではなかったか。


 そうであれば仮に、【夜】のように静かに、【雷】のように素早く人を捕らえ、引き裂き、そして喰らう。そんな猛く荒ぶる【爪牙】を持つものが、その地に生きる人間にとっての隣人であったなら?


 罠は効かず、武器は砕け、互いに鼓舞した心の火すら立ち消えて。

 残されたのは祈りだけ。

 散った同胞への鎮魂と慚愧を包み隠すことのない、が。

 長き時の果て、人を想い、愛し、それゆえに具体のカタチを失って、誰も深く考えることのできない、へと、すり替わってしまったのだとすれば?


 真実は、時だけが知っている。

 人の子には到底耐えられぬ、幾星霜の歳月。


 己の意思によらず、そこに在り続けたものと云えば。


 物言わぬ路傍の石くらいのものであろう。


※ 


 夜であった。


 月も星も薄くたなびく雲の上。ゆえに木漏れる幽かな光さえもない無明の中には、あまたの生命の息遣いが折り重なっている。

 逃げるもの、威嚇するもの、静観するもの。息遣いは相異なれど、彼らの意思するところはただ一つの存在に収れんされていた。


 夜の密林に死をもたらす狩人。生態系の頂点に座す、猛く荒ぶる絶対者


 その様もまた、まさに【夜】であった。


 無明の中でなお黒く。動きの静かなことは月影が音もなく伸びるように。

 ちり、と一瞬。暗闇に小さな電光が走る。ほんのわずかな瞬間だけ、青白い光が巨大な獣――原生林における絶対者の輪郭(シルエット)を、宵闇に浮かび上がらせる。


 探るように、微かに鼻が鳴る。

 すでに一月近くは経過しているが、焼け落ちた木々、断ち切られたロープ、打ち砕かれた石柱と、それらすべてに微かに残る匂いの痕跡。

 かつて人が築き、人が守り、人によって忘れられ、人によって破られ侵される。同じ世界に生きるものが、それぞれの都合で引いた “境界線”。


 越えてくるのは、いつだって相手の方だ。


 ――ユルサナイ


 ちり、ちり、と。電光が漆黒の鱗と毛皮に包まれた巨躯を駆け巡り、宵闇に紅玉髄のごとき深血の眼光が尾を引いて流れる。


 鉤爪が湿った地面をえぐり取った、次の瞬間。

 密林を、赤と青の雷が駆けて行った。



 無明の岩窟の中で、唯一輝きを放つのはテンシーの翼だった。

 不可視の力場を顕現させた青白い輝きは、岩盤に描かれている古い壁画を照らしている。


 壁画には、おそらくは“勇気の儀”であろうと思しき様子が描かれている。

 一人の人間が、光あふれる高みから、暗くよどんだ下方へと降下する様。人間の体には一本のロープが付いていて、降った人間と高みとを繋ぎとめている。


 手に携えているのは槍、いや石柱メトトだろうか。黒く塗りつぶされた下方に、それを突き立てている。

 塗りつぶされた黒の周りには炎と思しき渦模様が踊り、槍を突き立てた人間は、もう一人の人間を連れて再び高みへと昇っていく。


 壁画は、そこで途絶えていた。


 もとは極彩色の壁画だったのだろうが、在るべき色は移ろう時と共に褪せ、今となっては白と黒の濃淡による表現としか見えない。

 だが、十分だった。


 「……やっぱり。“勇気の儀“は生贄の選定のためじゃなかったんだ」


 少なくとも、テンシーにとっては。


 “厄災”と人間の歴史。勇気、自己犠牲、そして生贄。これらを繋いで導き出された洞察の中で生まれた、小さな違和感。

 答えは、かつて人が刻み、描き。人が絶えてなお時の中にとどまり続けた巌の傷に記されていた。


 上古、勇気あるものが生贄となるのではなかった。勇気あるものは常に勇者であったのだ。

 だが、幾星霜の年月の中で。おそらくかつて、よほど手痛い敗北があったのだろう。

 停滞の倦みが、寄る辺なき夜が、気高き勇気の篝火を自己犠牲の涙でかき消してしまったのかもしれない。


 だからいつしか、“勇者”は“生贄”へと役を変えたのだ。

 尊崇されることだけは、変わることなく。


 いずれにせよ、テンシーの洞察は今や、ある種の確信へと変わっていた。


 「うん。これであとは――」


 ――実行、あるのみ。



――……


――……っ


――ィ……ァイ。


「……来る」


 とうに光を失っている目を、それでも自分の意思で静かに閉じて。

 全感覚を研ぎ澄ませ周囲に注意を払っていたレルルの心は、徐々に迫りくる何者かの気配を感じ取っていた。


(テンシー様、エーナイン様、なにかがこちらへ近づいています。とても強くて、大きなものの息遣いが)


 眉間にきゅっとしわを寄せて集中し、届けたい声を届けたい相手を強く念じる。

 強い思念は心の中で声となり、イメエジした相手の心へと伝播する。


 ――念話。


 “勇気の儀”の夜以降、テンシー・エーナイン両名の言霊の後押しを受けて開花したレルルの、本来持っていた異能の力である。


(うん、わかった。みんな、準備はよいね? エーナインの”火の手”が合図になる。それまでは、煙の中から決して出ないで)


 ほとんど時間をおかず、テンシーから同じく念話で返答があった。テンシーの声はレルルを介して心の波長を同調させていた者たち全員へ、届けられている。


(あの、テンシー様)


(ん、どうかした?)


(大きな気配に混じって、聴き覚えのない人の声が聞こえます。耳で聞いていたら、葉の擦れる音みたいに些細なものなんですけど、そんなものが心を通じて聞こえてくるのは初めてで……)


(そっか。まだ新しい力に目覚めたばかりだから、心象に雑念(ノイズ)が混じってしまうのかもしれない。どちらにしても注意しておいて。何かわかったらすぐに教えてね)


(はい、お二人ともお気をつけて。ジジのこと、よろしくお願いします)



「はあ、ほんっと、人間ってのは大したもんね。きっかけ一つでここまで伸びる能力だとは思わなかったわ。読心から開心、それに念話だなんて。放っておいたらそのうち“言霊”まで使うようになるんじゃないの、あの子」


 月影すらもない暗がり。

 からっ風のようなエーナインの声が、しっとりと漂う夜霧に吸い込まれていく。


「うん、それもこれも、エーナインがあの日一肌脱いでくれたおかげだね」


「おだまり。次あんなことさせたら今度こそ絶交よ、ぜっこー」


「あれれー、おかしいなー。聞いた話だとそもそもこの場所で放火と器物損壊をやらかして鎮守の封印を解いちゃったのは何処の誰だったんだっけ?」


「だーもうっ、いちいち蒸し返さないっ。こっちだって反省してるから文字通り一肌脱いでやったし、こうして後始末してるんじゃない」


「わかってるよ。どのみちこうしなくちゃ“新しい法”が敷かれることもないんだし。そういう意味じゃ、本当に、エーナインのやった悪いことは全部、大きな良いことにつながってると思う……エーナイン?」


「シッ」


 無明の中でも、エーナインが顔の前で指を立てたのがわかる。

 次いで、弛緩していた空気が一瞬にして息苦しいまでの緊張感に包まれたことも。


 風はない。

 だが、静かに草が薙いでくる音がする。


 光はない。

 だが、血のような紅色の二つの輝きが、無明の中で怪しく尾を引いて迫ってくる。


 気づけば、三者の距離はすでに、”狩り”の間合いにあった。


 「テンシー」


 短く。囁くように。

 ただ一言で全てを悟ったテンシーは翼を展開し、重力に逆らうようにふわりと浮上し、その場を離脱する。


 眼前に佇むソレの、香油を塗ったように艶やかな漆黒の毛皮と鱗が、力場の翼が放つ朧な光を黒く黒く照り返す。


 動きはない。闇に妖しく煌めく血玉の双眸は、夜光蝶に魅入られたかのようにどこか呆としてさえ見える。


 だが、次の瞬間。 


 ――ガアアアアアアアアアッ!!!


 全ての夜霧を吹き飛ばすほどの咆哮が、あたり一帯に鳴り響いた。

 

 <上がれ!>


 語気鋭いエーナインの言霊の補助とほぼ同時かそれより早く、テンシーはほぼトップスピードで急上昇していた。

 瞬き一回の差で、テンシーがいた場所の空気が無残に切り裂かれ悲鳴を上げる。生きとし生ける翼をもつものには決して真似できない、テンシーだけができる緊急回避のマニューバだった。


 人間の、否。

 この地に根差す全ての生き物の反応速度上限を遥かに超えた、本来ならば不可避の速攻。


 それを初めて目の当たりにしたエーナインは、うなじに小さく汗をかいた。

 それでも、


「ご生憎様、あんたの相手はこの私」


 凛と立ち、冴えた青い瞳でひたすらまっすぐ相手を見据えてそう云い放ったエーナインが、腕を掲げ高らかにぱちんっ、と指を鳴らす。


 たちまち、火の手が上がった。

 エーナインの手に宿り、彼女だけに付き従う、青白く煌めく永遠グブレイジアンの火。


 火のないもう片方の手で、腰に佩いた剣を抜いて。

 闇を破る輝きに目を細める“厄災”めがけ、古びた剣を突き付けて。


「ここから先は狩りの巷。獲物は多いわ、嬉しいでしょう」


 普段の人間味あふれる明るい声とは程遠い。

 歌うようでいながらもどこか底冷えするような霊気を纏って。


「ケど、残念。今宵狩られルのは、あンたの方、ヨ」


 切れ長の青い目を見開き、糸の切れた操り人形のような無機質さで小首をかしげ。


 漆黒の巨躯と赤髪の武姫のシルエットが、揺らぐ焔の中で交差する。




 かくして、両者は会敵した。



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