鯨よりも深く
新巻へもん
傷心
「はあ」
ため息を一つ。今日何度目のため息だろうか。すぐそばに置かれた年代物の扇風機に向き直る。キコキコと音をさせながら首を振っていた。ボタンを引っ張って首振りを止め、年代物の扇風機の前に顔を据える。
「あ~あ~~」
秒速340メートルで美央の口から飛び出した声はブーンと回る羽に跳ね返されて震えるような音となって帰って来た。あほくさ。小学生かよ。バチンとスイッチを押して扇風機を止める。
午後のベタなぎ。波の音も聞こえない。元々生ぬるい空気がじっとりと体にまとわりつく。しばらくするうちにシャツが張り付き、額からつうっと汗が滴った。祖父母の家のある鮫島は湿度が高い。南国ふうな白い砂浜とヤシの木が点在する風景は見ている分にはリゾートっぽいが、その中に身を置くとただひたすら暑いだけだった。
知り合いも少ない離島。ホエールウォッチングが鮫島の観光の目玉だったが、夏休みのたびに帰省に同行させられている美央にとってはいまさら珍しいものでもない。綺麗な砂浜はあったが、小学生の時分ならいざしらず、高校生にもなって、朝から晩まで海で泳いでいるというわけにもいかなかった。
彼氏の翔太が一緒なら話は別だ。波打ち際で遊んだり、熱帯魚を追いかけて泳いだりしているだろう。そして美央は現実に引き戻される。ああ。もう彼じゃないんだ。昨夜メッセージアプリで送られてきた言葉はまさに青天の霹靂だった。最下段の吹き出しの中で「俺達別れよう」の文字が強烈な衝撃となって美央を襲う。
何度かメッセージの応酬があったが、ごめんの一言を最後に返事が来なくなる。座卓の上に置いてあるスマホが鳴動しても、クーポンの配信やアプリの更新通知だけ。今日もスマホとにらめっこをしている。ただ、一縷の希望を抱いて、着信があるたびに一喜一憂するのが嫌になって、電源を落として1時間になっていた。それで、この暇っぷりだ。
あまりの暑さに台所の冷蔵庫の上段を開けてみたが、中には製氷皿に入った氷しかない。無性に冷たくて甘い物が欲しかった。アイスが食べたい。それは心と体、どちらが欲しているのだろう? とりあえず、アイスを食べるには漁港近くの中島商店まで出かけなければならない。美央は帽子を被りサンダルをつっかけると外に出た。
殺人光線と化した太陽の直射を浴びて美央はぐらりとする。数歩歩いて道路に出ると今度は地面からの照り返しが容赦なく襲ってきた。背中を丸めてとぼとぼと道を歩く。頭がぼうっとするが、かえって翔太のことを考えずに済んで良かった。15分ほど歩いて、ようやく中島商店にたどり着く。
日よけの下のアイスの保冷ケースから棒付きのバニラアイスを取り出し、店のおばちゃんに代金を払った。元は青空のような色だったと思われる色あせたプラスチック製のベンチに腰掛けて、アイスの包みを剥く。一口かじると甘さと冷たさとバニラの香りが広がった。
あっという間に表面が溶けだして、棒を伝って手を濡らす。名残惜しいが慌てて食べた。食べ終わってしまうともうすることがない。これからまた暑い家に戻るのもおっくうだった。夕方になれば風が出て涼しくなる。美央は港の近くの場違いに真新しい建物に向かって歩き出した。
昨年竣工した船客待合所の中には文明の利器エアコンが設置されている待合室がある。自販機とベンチ、パンフレットラックがあるだけの部屋だったが、とりあえず多少は涼しい。環境に優しい温度設定ではあったが、外気よりは湿度が低かった。美央はふうっと吐息を吐く。今日の便が出て時間が経っているので、部屋には誰も居ない。
汗が引くとベンチに座って適当な観光パンフレットの1枚を手に取った。大自然の神秘に癒されよう、などというコピーの文字が躍っている。涼しさに頭が働きだすと、どうしても翔太のことが頭をよぎった。あれだけ好きだと言っていたのに……。体を丸めて膝小僧を抱える。そして、漏れるため息。
なんとなく不安は感じていた。一緒に出掛けるたびにボディタッチが増え、翔太は抑えが効かなくなりつつあった。まだ早いとの美央の言葉に翔太は他のカップルももう済ませていると主張する。
「俺のことを好きじゃないのか?」
「好きだけど、それとこれとは別」
美央の口からまたため息が出る。お互いが分かりあえているというのは幻想だったのだろう。本当に好きだったのにな。確かに最近は翔太とのやり取りが面倒になっていた部分もある。結局は翔太の中にあるのは単なる性衝動なのではないか。嫌になるとまではいかないけれど、不満が少しずつ芽生えてもいた。でも、こんなに突然に破局を迎えるなんて。
係員がやってきて戸締りをはじめる。それに追い立てられるようにして船客待合所を出た。日が傾き、海にオレンジ色の道が出来ている。少し出てきた風に誘われるようにして美央はビーチに向かう。道路際の防波堤の上に座って、感傷的な気分のままに夕日を眺めていると声をかけられた。
「ねえ。暇?」
「俺らこれからバーベキューやるんだけどどう?」
「結構可愛いじゃん」
美央の周囲を大学生らしい3人組が取り囲んでいる。ビニール袋にチューハイや肉のパックなどが入っていた。
面倒だなと美央は考える。祖母からナンパ目的の学生の相手をするんじゃないよと釘を刺されていたんだ。そっけなく結構ですと断るもしつこく食い下がって来る。
「まあ、ちょっとぐらいいいじゃん」
「なんだ。ノリ悪いなあ。ちょっと美人だからってさ」
周囲の男たちの目の中に翔太と同じようなぎらつきを見出して、美央は身をすくめる。これは本当にまずい。周囲を見渡すが、黄昏時の道路には人の姿はなかった。男の一人が美央の手を取る。美央のTシャツの襟もとに視線を送りながら、男たちは懐柔するような笑みを浮かべた。
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