第4話 長兄ジャスティン

 普段は自制心の塊のようなジャスティンの思いがけない行動に、ミネルバは目をしばたたいた。

 無意識のうちに動こうとしたミネルバに、ルーファスが「私が行く」と囁く。全速力で駆けていったルーファスの後を追うため、ミネルバはドレスの裾をつまんだ。

 小走りで通路に出る。迷路のように入り組んでいるが、順路はすべて覚えていた。

 息を切らせていくつかの角を曲がり、壁に擬態した扉を通り抜ける。長い直線の廊下に出た瞬間、ミネルバは息をのんだ。

 抵抗するジャスティンの肩を、ルーファスの力強い手が掴んでいた。

 ジャスティンはアシュラン王国いちの剣士だ。電光石火の剣さばきは他国の剣士でさえ恐れをなすほどで、ずば抜けて敏捷性が高いのだ。

 それでもルーファスは、全速力のジャスティンに追いつくという、マーカスにもコリンにもできないことをやってのけた。

 ミネルバは荒い息を吐きながら、二人の近くまで走った。体の向きを変えられたジャスティンの顔には、明らかに苦悩がにじんでいる。


「ジャスティン」


 ルーファスが両手でジャスティンの肩を掴み、名前で呼びかけることで相手の気持ちを静めようとしている。

 ジャスティンは声を低めて言った。


「すみませんルーファス殿下、私は──自分が何をしようとしているのか、ちゃんとわかっています。私の立場では、殿下のやり方に従わなければならないということも。私の任務はミネルバを見守ることで、自分の鬱憤を晴らすことではない」


 ジャスティンのすみれ色は潤んでいた。ミネルバによく似た顔に、さまざまな表情を宿している。悔しさ。心の痛み。深い悲しみ。


「それでも私はフィルバートに向かって、胸に抱えているものを吐き出したいのです。そうしなければ、私は次の一歩が踏み出せない……」


 ジャスティンの声がかすれた。


「わかっています。あの人は好きこのんで堕落したんだ。私が何を言ったって、踏みつけられるのが落ちだ。人生の大半を彼に捧げて、支えて……邪魔になったら捨てられた。それなのに私の中にはまだ、あの人への忠誠心の名残があるんです」


「ジャスティン兄様……」


 ミネルバは呆然と立ち尽くし、ジャスティンの顔を見つめることしかできなかった。

 フィルバートの側近の任を解かれたとき、ジャスティンには嘆き悲しむ様子がみられなかった。普段通りにふるまい、マーカスやコリンを励ましさえした。だからミネルバは、彼は大丈夫なんだと思い込んでしまった。

 婚約破棄されたミネルバに新たな幸せを与えようと、ありとあらゆる努力をしてくれた。

 自分の心の痛みは人知れず押し込めて、一度たりともミネルバを無防備な状況に置かなかった。毎日顔を見にきて、たくさんおしゃべりをしてくれた。それは善良で優しい長兄ならではのやり方だった。


「あの人に何かを期待するのは、とうの昔にあきらめています。何度も人生の選択を誤り、やってはならないことをして、信頼してはならない人間を信頼して……名誉も何もあったものではない。いまとなっては何もかも手遅れで、断罪されるしかない人間だ」


 ジャスティンは強く拳を握った。


「それでもどうか……許してください。私はどうしても彼と話したい。子どもじみた衝動ではありません。そうする資格があるかどうかはわかりませんが、私には彼を叱る義務があると思うんです」


 ひとつ息を吐き、ジャスティンは落ち着き払った態度でルーファスを見据えた。そして、ルーファスの背後にいるミネルバに視線を移す。


「ミネルバ。フィルバートをひざまずかせて鼻を明かす絶好の機会、断罪して意趣返しする最高のタイミングなのに、出しゃばる兄を許してくれるか?」


 ミネルバは手のひらが汗ばむのを感じた。

 断罪。意趣返し。おぞましくも魅惑的な言葉だ。たしかにジャスティンの言うとおり、酷く傷つけられた自尊心を回復するチャンスだろう。

 すべての状況がミネルバに有利だった。ルーファスの権威を利用することだってできる。

 辛辣な口調で「ひざまずきなさい」と命令して、皇族に準ずる存在となった自分の高い地位を見せつけて。笑いながら「私とあなたはもう、天と地以上にかけ離れた存在になったの」とあざけって──。


(そうしたいとは……思えない。私には大きな変化が起きたから……)


 ルーファスが首をめぐらせて、ミネルバを見つめている。思いやりのこもった視線を注がれて、自分は世界で一番幸せだと思った。彼に出会っていなかったら、強烈な復讐心が込み上げていたに違いない。

 ミネルバは語りかけるようなまなざしでルーファスを見た。ルーファスはすぐにその意味を理解してくれた。


「ジャスティン、行ってこい。ミネルバはもう、私と一緒に次の一歩を踏み出しているから、彼を痛めつけることで留飲を下げるつもりはないらしい。私自身も、フィルバートのところへ行くのは君こそが適役だと思う。私とミネルバは、後ろから見守っている」


「ありがとうございます殿下……ありがとうミネルバ……」


「ただし、私たちにも我慢の限界があるからな。特に私が爆発する前に、あのまぬけを一発殴っておいた方がいい。君の怒りを全力でぶつけても罰は当たるまい。やつには当然の報いだしな」


 ルーファスの言葉に、ジャスティンが泣き笑いのような表情になった。

 肩を掴んでいた手が離れると、ジャスティンは素早い動きで踵を返し、フィルバートがいる客間に向かって迷うことなく進んでいった。

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