第5話 混乱と機転

「な、なぜあなたが──……」


 フィルバートは茫然自失の状態だった。その場にいる誰もが、彼の顔から血の気が失せているのに気付いただろう。

 謎の紳士は厳粛な面持ちで、フィルバートを見据える。


「なぜ? 私こそ聞きたい。どうして私が、この馬鹿騒ぎに案内されねばならなかったのか。このおぞましい、恐ろしく悪趣味な集まりに」


 紳士は尊大な態度で、扉を開いたままの姿勢で固まっている使用人に視線を向けた。

 真新しい制服姿の使用人が「ひ」と息をのんだ。金ボタンの付いた赤い服に金色の靴下、ベルトのバックルも金で、やはり恐ろしく悪趣味だった。ミネルバたちを出迎えてくれた使用人の、オーソドックスな制服とはまったく違う。

 ミネルバはすぐに察した。

 会場に数名いる同じ制服姿の使用人は、王太子妃となったセリカのために新しく雇われた人々なのだろう。そして恐らく、王太子夫妻が思ったほど役に立つ人材ではなかったのだ。

 背の高い堂々とした紳士が、フィルバートよりも高い身分であることは間違いない。不快なものと同じ部屋にいることは耐えられないと言わんばかりの表情が、ミネルバにはひどく好ましいものに思えた。

 彼の身分を推測することは難しくなかった。だからミネルバは床に膝がつくほど深くお辞儀をした。

 3人の兄たちも、ひざまずいて深々と頭を下げる。

 ふむ、という小さな声がしたあと、つかつかと歩み寄ってくる音がした。

 ミネルバの目の前に、黒い手袋に包まれた大きな手が差し出される。薄緑色の手袋をはめた自分の手を、ミネルバは礼儀正しく彼の手のひらにのせた。


「どうやらまともな淑女もいるらしい」


 紳士が絶妙な力加減でミネルバを立ち上がらせ、そっと手を離した。彼は3人の兄たちにも言葉をかけ、立ち上がることを許した。

 ようやくフィルバートが我に返り、玉座のある場所から3段ほどの高さを駆け下りてひざまずいた。間の抜けた感じがどうにも情けない。


「フィルバート、さっさと立つがいい。そのだらしない格好で挨拶をされても嫌悪感を催すだけだ」


「は、はい……申し訳、ございません……」


 立ち上がったフィルバートの顔は真っ赤に染まっていた。紳士はまるで汚いものを見るように、セリカとリリィに一瞥をくれる。


「お前の結婚式に参列してやれなかったので、所用を済ませるついでに立ち寄ってみたが……王太子から娼館の主人に鞍替えしていたとは、さすがの私も予想できなかった」


 痛烈な皮肉に、フィルバートがはっと息をのむ。

 この恥知らずなお茶会は、セリカにとっては秘密でもなんでもないのだろう。しかしフィルバートの顔からは、この紳士に「知られたくなかった」という感情が伝わってくる。どうやら彼の中にも、恥という概念は多少残っているらしい。

 ミネルバは慎ましく紳士を見上げ、複雑な形に美しく結ばれたクラバットに視線を向けた。グレイリング家の紋章が入っている。

 ミネルバがこれまで出会った誰よりも強い圧迫感、威圧感をその体から発散させているその人は、艶やかな黒髪を後ろに撫でつけていた。鋭い目も夜の闇のようで、上品な仕立てのジャケットも、絹のシャツもクラバットもズボンも黒づくめ。

 悪魔の申し子、暗黒の皇弟殿下──恐らく、そんな名前で呼ばれている人に違いない。

 ルーファス・ヴァレンタイン・グレイリング。超大国グレイリング帝国の第二皇子として生まれ、兄である皇太子が即位した後に、公爵として広大な領地を与えられているはず。年齢はフィルバートと同じ22歳。

 ルーファスの情報を、ミネルバは知識として持っていた。アシュラン王国は、隣国であるグレイリング帝国に従属している。つまり属国の王太子であるフィルバートにとって、宗主国の皇帝の弟であるルーファスは絶対的な存在だ。

 ルーファスからしてみれば、フィルバートは弱い相手にすぎない。兄であるグレイリング帝国皇帝トリスタンの意のままに操られる駒でしかない。


「な、なによ、なんなのよ、この無礼な男は──……」


 セリカの小さなつぶやきが、彼女の玉座の真下にいるミネルバの耳に届いた。

 お茶会の参加者たちは、困惑したようにきょろきょろと視線を彷徨わせている。王太子夫妻のお気に入りとなり、自分たちが無敵だと信じている若者たち。向こう見ずで軽薄な彼らにも、ルーファスの身分の高さが肌で感じられるらしい。

 ルーファスの権威や力に疑いを持つ者はいない──ただふたりだけ、セリカとリリィを除いては。

 セリカは戸惑いと恐怖に満ちた表情であたりを見回している。彼女の瞳に浮かぶ怒りにミネルバは気づいた。

 セリカにとっては訳の分からない状況に、我慢の限界に達しているらしい。たっぷりと酒の注がれたグラスを持つ右手が、わなわなと震えている。

 こうなったときのセリカがいかに危険かを、ミネルバは身をもって知っていた。だから自然に体が動いた。


「せっかく私が企画して、盛り上げて、みんなで楽しんでいたのに……どうして邪魔されなきゃいけないの──……っ!」


 セリカがグラスごと右手を振り上げた。人々が息をのむ声が伝わってくる。次の瞬間、ミネルバは彼女の手首を掴んでいた。

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