第5話 三池工業の優勝と特急「みどり」~奇跡の邂逅
炭鉱町に咲いた原貢野球 三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡
(集英社文庫版2018年)
澤宮 優 著
こちらのアマゾンレビューは、どういうわけか今も生きております。
幾分の加筆修正を加えております。
巨人軍監督原辰徳氏とその甥である巨人軍投手・菅野智之氏にとって、それぞれ父であり祖父でもあるアマチュア野球指導者・原貢氏の半生記である。
三池工業は、1965年の夏の甲子園大会で初出場にして初優勝した。
三池工業高校の最寄りの国鉄(現JR九州)最寄駅は、大牟田である。
この駅を朝9時過ぎに出る80系気動車による特別急行「みどり」は、その前年の新幹線開業に伴うダイヤ改正により、大阪ー博多間の運転を熊本に延長されていた(付属編成は大分行)。
しかしこの後、「ヨンマルトウ」こと1965年10月のダイヤ改正で佐世保に行く列車となり、熊本には来なくなった(付属編成はそのまま大分行)。
そしてその後、特急「みどり」は、再び大牟田駅に来ることはなくなった。
なぜなら、「みどり」は、戦後初の山陽線特急「かもめ」の補完列車として「サンロクトウ」こと1961年10月のダイヤ改正で登場した特急列車であり、「かもめ」の及ばないところに行くための列車としての役割を、最初から今に至るまで負わされているからである。
なお1967年10月、世界初の寝台座席兼用の581系電車が落成したとき、この「みどり」は、夜行列車の「月光」とともに、昼行列車として、この新鋭電車に置き換えられた初の列車となったが、その1年後、いわゆる「ヨンサントウ」改正によって、すぐに座席車の481・485系電車に置き換えられてしまった。
それはともかく、三池工業の原監督以下ナインは、大牟田から「みどり」に乗り、夕方に関西入りした。
そこから、彼らの快進撃は始まった。
その詳細は、本書をお読みください。
彼らは優勝し、福岡県内をパレードし、故郷に錦を飾った。
その背景には、斜陽産業たる炭鉱町の悲喜劇が、否応なく影を落としていた。
彼らは、その影を、見事に払しょくしてのけた。
それをもって、炭鉱町としての活気が再び戻ることは、なかったけれど。
原貢氏はその後、対戦した東海大学の総長・松前重義氏に見いだされ、東海大相模の監督となり、再び甲子園優勝を飾った。
それも含めて、後の親子鷹だの、巨人軍4番原辰徳の活躍だの、現在の菅野智之投手の活躍だの・・・。
それらは三池工業の優勝のエピソードの前には、もはや、その余興に過ぎない。
それほどにも、原貢という人物のもたらした三池工業の優勝は、日本の野球界にとって、一大エポックだったということである。
かくも大きなエポックは、巨人V9のごとく、長続きしなかったのは、必然かもしれない。
だがそのエポックは、後の世代に、ボディーブローのように影響を与えてきた。
そして今も、与え続けている。貢氏の息子・辰徳氏は、三度、巨人軍監督に就任し、今年もなお指揮をとり続けている。
アマチュアとプロの差は大きいが、野球の監督という点においてまったく同一の立場で、彼はこれから再び、戦いの場に挑むのである。
特急「みどり」という、たった1年間だけ大牟田駅を通り、停車していた特急列車に乗って甲子園へと旅立った彼らの栄光は、翌年に引き継がれることはなかった。
「みどり」は、その年の秋、大分と佐世保へと去っていった。
三池工業は、その後甲子園には出場していない。
三池工業ナインと特急「みどり」。
半世紀以上前の、たった1年の間の、つかの間の邂逅。
しかしその邂逅は、今も、野球界を動かす一つの力となっている。
特急「みどり」は、新幹線博多開業後、福岡から佐世保への特急列車として、いまも、長崎発着の「かもめ」の行かない佐世保方面への特急列車として、いまも九州の鉄道に彩を添えている。
~余談だが、「新大阪ー佐世保」の、特急「みどり」であることが明らかなサボ(行先表示板)は、神戸のその筋の店で、15万円の値段がついていた。
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