第一章改定 彼岸の乙女、流れる水となることver.1.3-1

ちょっと加筆、修正したバージョン。

完全なアッパーコンパチなので、こちらを読んで頂ければ旧版はあまり必要ありません。



1944年9月半ば。

 世は太平洋戦争の最中。

 北関東の山中に、帝国陸軍一個中隊の姿あり。

 季節は秋に移り変わり、細い山道の脇には曼珠沙華の花ずぼつぼつと咲いていた。

涼しげな緑の合間からは虫の鳴き声がする。

 何の変哲もない初秋の山だった。

 しかしながら一個中隊の内、半数は重装備。小銃、機関銃、手榴弾、擲弾筒を携行している。

 更に半数は工兵であり、スコップやツルハシといった作業具を担ぐ一方、異様なタンクと放水器めいた装備の者もいる。

 火焔発射機を担いでいるのだ。

 やがて山道は消えて中隊は草を掻き分け、中隊は山中深くに進んでいく。

虫を払い、道なき道を進み――30分もすると山頂に達した。

一見すると点在する樹木と背の低い草に覆われた、ごく普通の500メートル級低山の頂きであった。

 見渡せば周囲の山脈も似たようなものであり、特筆すべき点は彼岸花が群生していること。

それと、もう一つ――慎重に注視しなければ、分からなかった。

 山頂にはとうの昔に倒れて、苔にまみれ、ほとんど地面に一体化しつつある石碑があった。

 石碑の表面には文字の刻まれた痕跡もあるが、長い年月で風化して読むことは出来ない。

「ああーーっ! あったあったあああああああっ!」

 静寂を無遠慮に突き破る大声。

 眼鏡をかけた軍人が、まるで子供がはしゃぐかのように走り出して、草に埋まった何かを地面から引き抜いた。

「これだよこれええええええっ! やっぱりあったでしょおおおおおおおっ!」

 軍人は、それを掲げて見せつけた。

 土と苔に塗れて半ば朽ちかけたそれは、人の腕の形をしていた。

 狂喜する軍人の階級章は、三本線に星一つの陸軍少佐。

 名は、東(あずま)隆輝(りゅうき)。年齢は34歳。一応はこの中隊を任されている。

 そして中隊の中に、東の様子を忌々しげに睨みつける別の軍人が一人。

「冗談じゃねぇ……」

 階級章は赤線二つに星三つの陸軍大尉。

 名は、北宮(きたみや)仁(じん)。29歳だった。副官扱いで任命されたが、実質的にこの中隊の指揮官である。

 程なく、工兵隊による発掘作業が始まった。

 といっても、部隊の兵卒たちは自分が何を掘り起こすのか具体的に知らされていない。

「これなに? ゴミ?」

「そりゃ石っコロだろ。人形の? 部品? ……っぽいのだけ取っときゃ良いんだ。多分」

 事前に通知された発掘品を選別し、無造作に積み上げていく。

 東はその発掘品の山から、眼鏡にかなった物をより分けて木箱に入れていった。

 一方、北宮は軍刀の鞘を杖にしながら、作業を不機嫌な顔で眺めていた。

「なあ東さんよ」

 一応は上官相手ではあるが、北宮は不承の態度を隠さずに話しかけた。

「登戸研究所……だっけ? あんたのいるそこ。こんなモン発掘して、マジで戦争に勝てると思ってんの?」

「その是非を私に問われても答には困っちゃうかなあああああ、北宮大尉ぃ?」

 東はやたら大きな声で答えながら、土まみれの人形の脚部を木箱に放り入れた。

「だってさあああああ? 私らは言われた通りに仕事してるだけだしいいいいいい?」

「の割には楽しそうだな」

「そりゃそうさあああああ? 楽しくなかったら私、軍人なんかやってませんしいいいいい?」

「つーか声でかいんたけど……」

「ごめんねええぇえええぇ! 声大きくないと上司に企画提出しても無視されちゃうからさあああああ!」

 北宮は東と話すのに嫌気がさしたので、それ以上何かを問う気はなくなった。

(こいつマジでうるせえ……)

 間違っても仕事以外で近づきたくない類の人間だ。

 帝国陸軍登戸研究所――常日頃から怪しげな新兵器を開発していると噂で聞いている。電波で生物を焼き殺す兵器だの、巨大な風船に爆弾を括り付けて太平洋の向こう側の敵国を攻撃するだのと、与太話としか思えない内容ばかり聞こえてくるが実態は北宮も知らないし、知ろうとも思わない。

 東隆輝は登戸研究所、その第五科の研究員だそうだ。

 第五科では具体的にどんな兵器を研究開発しているのか? 北宮は特に興味もなかったが、不本意ながらも命令で副官に任命されてしまった手前、ある程度は通達されていた。

 故に、今の任務も軍隊自体にも嫌気がさしていた。

「こんなモンで一発逆転狙いかよ……完全に終わってるぜ」

 南方の島々で陸軍は大敗を喫し、三ヶ月前の海戦で帝国海軍の空母機動部隊は壊滅。今更の戦況を顧みるまでもない。とうの昔に戦争の結果は見えている。

 呟くような独り言だったが――

「でもねえええええ? 博打って打ち始めたら中々止められないからねえええええ? お財布が空っぽになっても借金してもさああああ?」

 東に聞こえていたらしい。

 東は選別作業を続けながら、背中越しに大声で応えた。

「いつか負け分を少しでも取り返せると思っちゃうもんだからねえええええ! 次こそは、この次こそはーーーって、おあああああああ!」

 更にうるさい。

東にいい加減に文句でも言ってやろうかと北宮が立ち上がると、発掘現場に奇妙な光景が広がっていた。

 掘り下げられた土の中から、少女の首が文字通り顔を出している。

 土に塗れてはいるが黒髪は艶やかで肌も白く透き通り、血の通った人間が眠ったまま埋められているようにしか見えない。

 今まで発掘された、朽ちかけた部品とはあまりにも異質だった。

「あーあ、あああああああ! 当たりヒイッチャッ――」

 ぽかんと口を開いたままの東が喋っている最中、土中の少女の瞼が開いた。

「は、ぁ」

 少女が小さく呼吸をする。

 作業をしていた兵卒たちに動揺と恐怖が走った。何を掘らされているのかロクに知らされてもいない無知な彼らにしてみれば、鬼か幽霊に出くわしたようなものだ。

 事実、その少女に生命はなく、人ではなく。

「ぁは」

 ニタリと笑って、自らを掘り起こした手近な兵士に土中から掴みかかった。

「うっあ――ッッッッッッ……」

 恐怖に固まる兵士は抵抗する間もなく、覆いかぶさってきた少女に組み伏せられた。

「ンンーーーーーっっっ!」

 少女のまとう土に汚れた平安装束と長い黒髪に兵士は包み込まれ、僅かにもがく声が聞こえたものの、すぐに何の動きも音も聞こえなくなった。

「はぁぁぁぁぁ……っ。おいしいぃぃぃ……っ」

 聞こえてきたのは、恍惚とした少女の声。

 乱れた装束から胸元がはだけ、黒髪の奥で空を仰ぐ顔は凄絶に美しく、見る者に畏怖畏敬の念を刻むのに十二分が過ぎた。

 尤も、北宮はそんな感情とは無縁だった。

「なんだぁテメェ……」

 敵意と殺意を剥き出しにして本能的に軍刀に手をかけた。

 北宮の目は少女の足元に転がる部下の死体に向けられていた。一人の若い兵卒は干からびた木乃伊と化していた。

 少女は北宮に向かって妖艶に嗤う。

「いまよのやまとのことのは……1000年もの間に随分と様変わりしたようでございますねえ。この殿方の、のうみそいのちをちゅうちゅう吸ってあげましたから、もう大分憶えたと思いますが……わたくしのことのは、通じてますかぁ?」

 人間の言葉を話す、この人間ではない何かと話す気は北宮にはもう無かった。

「総員さがれェ! 発掘対象は攻撃対象に変更ォ!」

 しかし、この中隊は内地に残っていた予備役と二線級の部隊をかき集めて編成された寄せ集めに過ぎない。

 常識を超えた超常現象を目の当たりにした兵士たちは恐慌状態に陥り、腰を抜かして転倒する者、反撃するどころか怯えて逃走する者が続出。もはやまともな兵隊の体を成してはいなかった。

「なんだこりゃああああああ!」

「冗談じゃねぇよバケモノの相手なんてええええええ!」

 蜘蛛の子を散らすようにバラけていく100人もの人の群れ。

 少女はケラケラと嗤っていた。

「ほほほほ……今世でもわたくし、やっぱり怪物扱いされちゃいますかあ? でもでも、わたくしを怪物にしたのは皆さまがた、大和の防人でございましょう? 乙女をこんな体にしたのですから、ちゃあんと責任取って頂かないとぉ……?」

 少女の長い黒髪がわさわさと揺れて、バッと地面に広がり伸びていく。

 急速に樹木の根のように枝分かれした髪の毛は逃げ遅れた兵士に接触すると、その全身に食い込んで浸食していった。

「あぎぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!」

「助けてぇぇぇぇぇぇぇ! 痛っ痛ぁぁぁっ痛っ……痛いいいいいいいい!」

精気を吸い取られ、兵士たちは瞬く間に木乃伊と化していく。

 地獄の中心にて、生命を蹂躙する支配者と化した少女は愉悦の表情を浮かべていた。

「あぁぁぁぁっ……たまりませんわねぇ、大の大人が苦痛に喘いで命乞いして、無残無念に果てていくのは。1000年経っても甘美甘露でございます」

 草に倒れる無数の木乃伊の中を、少女は悠々と歩む。

 そして、まだ髪の毛に侵されていない若い兵士を見つけた。徴兵されて間もないのか顔立ちにはあどけなさが残り、丸坊主にした頭もどこか可愛げがある。

 ほとんど少年同然のその兵士は尻餅をつき、恐怖と絶望に震えた涙目で少女から目を逸らそうとしていた。

「ああっ! いやだ……いやだあああああ……っ!」

 絶対的な強者たる人外の少女は、少年兵の頬へと愛おしげに手を伸ばした。

「ねえ……どぉんな気持ちですかあ?」

 赤子をあやすように、だけどどこまでも冷たく昏い水底のように、少女は囁きかける。

「あなたの人生、十年とちょっと……ですか? 短く儚い花すら咲かぬその命、わたくしに殺されるために生まれて生きてきたんですねぇぇぇぇぇぇ? ねぇ? ねぇ? ねぇねぇねぇねぇねぇ? どんな気持ちですかぁ? 答えてくださいまし! ねぇねぇねぇねぇねぇ! わたくしが楽しい楽しいお答えしてくれたら、もしかしたら助かるかも知れませんわよぉぉぉぉぉぉぉ?」

 狂喜する人外の狂気が乱れ咲く。

 声もなく泣き叫ぶ少年兵が答えることなど出来るわけもなく、また一つ、呆気なく命が刈り取られていく――

 その瞬間、横合いから少女の顔面に拳骨が叩きこまれた。

「ゴチャゴチャうるせえなバケモノの分際でよ……ッ!」

 北宮だった。部下の救出のために単身突入したのだ。

 人外の少女は空中を一回転し、後頭部から地面に落下。

 その隙を突いて、北宮は少年兵の首根っこを掴んで後退した。

 発掘中の穴を塹壕代わりにして、生存者を退避させている。とはいえ、正気を失い発狂する者や怯えて全く動けない者が半数を超えており、残存戦力として数えられるのは……せいぜい5人。

 北宮は舌打ち、忌々しくも生き残っていた東に掴みかかった。

「あのバケモノ……なんか弱点あるのか。教えろ」

「だから火焔発射機持ってきたんじゃないのおおおおおお! アレも結局は木で出来た人形、原初の空繰(からくり)だからああああああ!」

「ならなんで大昔の連中はアレを燃やさずに埋めた!」

「いいや砕いて燃やして埋めたって文献にはあったねええええ! つまり燃やしてもそれは一時的なもの。アレは灰からでも黄泉返る完全な呪いの人形なんだよねえええええええ。だから参謀本部は――」

「アレを爆弾に詰めてアメリカに落とすつもり……なんだな」

 核心を突いた北宮の一言に、東の口調が一転して落ち着いた。

「そう。それが参謀本部の立案した〈の号作戦〉。完成の間に合わない新型爆弾の代わりに、アレを使う。多分、アメリカが先に完成させちゃうから。使われる前にこっちが、ね」

 今回の発掘任務は、1000年以上も昔に廃棄された呪術兵器を回収するのが目的だった。

 それを修復、複製、大量生産し、今次大戦に投入するのが東たち登戸研究所第五科の仕事であると、そこまでは北宮も知らされていた。

 だが当の呪術兵器の実態は想像を斜め上に超越していた。あんな怪物を制御する術があるとは思えない。そもそも、制御できる兵器ならば1000年前の人間はどうして廃棄したのか。

 つまるところは――

「最初っからあのバケモノを制御する気なんてねぇな……。お前らはアレを――」

「毒ガスや細菌と同じ。ただ自動的に人間だけを殺す原初の空繰。それを風船に乗せてアメリカに降ろしたら、どうなると思う?」

「冗談じゃねぇ……」

 北宮は舌打ち、東から手を放した。

 無差別に暴走する殺人機械は軍人も民間人も、女子供老人の区別もなく殺戮を繰り返すだろう。

 そんな作戦、反吐が出る。

(反吐が出る!)

 北宮が怒り、嫌悪するのは安易なヒューマニズムなどに由来するものではない。

 国家としての地力、経済、資源、工業力、軍事力、全ておいて上回るアメリカの一般市民を殺戮すれば、後に待っているのは果てしない報復だ。どう転んでもロクな未来は待っていない。

 北宮は、そういう視点でこの戦争を見ている。普通の兵卒や士官とは違う。そういう訓練を受けてきたから、否が応にも分かってしまう。

 故に、軍人として最善の行動を取る。

「戦える奴……死にたくなかったら俺についてこい。武装は擲弾、火焔発射機。俺を後から援護しろ」

 軍刀を手に塹壕を出ていこうとする北宮を見て、僅か5人の残存戦力は震えあがった。

「大尉……何を考えておられるのですか……」

「無理です。止めてください。隙を見て我々だけでも逃げましょう」

「たった5人で何が出来るのですか。みんな死んでしまったのに、みんな……」

「あんなバケモノに銃が効くんですか? 人間が勝てるんですか?」

「勝てるわけがありませんよ!」

 弱腰な発言が乱れ飛ぶ背後の空間に一瞥もくれず、北宮は軍刀を抜いた。

「1000年前の人間が出来たこと、どうして俺達が出来ないと思う! 道理が通らねぇんだよそんなのはよーーッ! あーーーーーっ!」

 最早一心不乱。

 北宮は雄叫び上げて吶喊、突撃、強行す。

 5人の部下はわけも分からず、かといって逃げるに逃げられもせず、上官の異様な空気に呑まれたように

「ああーーーーっ!」

 と叫びながら、武器を持って後に続いた。

 対する人外の少女は、無謀にも真正面から突っ込んでくる北宮を見て懐かしさを覚えた。

「今世にもいらっしゃるのですねえ。わたくしが最後に相まみえた坂東武者のような殿方が。ですが所詮は人の身。はかなくぅ……もろいぃぃ……っ」

 少女が口を三日月の形に人外の笑みを浮かべるや、周囲の地面に根を張った長大な髪の毛が地中から何かを引き摺り出した。

 1000年前に少女と共に廃棄された各種呪術兵器、空繰と呼ばれた傀儡の残骸であった。

 それらを髪の毛で繋ぎ合わせ、人形の手足の生えた巨大な百足の傀儡を形成。少女は自らの下半身を百足傀儡に取り込ませ、一体の蟲人形と化した。

「ヒャハ! ヒャハハハハ! ニンゲン! ニンゲン! モットタベタイィィィィィ! ニンゲンオイシイ! オイシイカラァァァァァァッ!」

 傀儡の残骸に残留していた多量の瘴気、呪詛の類に汚染され、もはや少女だったその蟲人形の言動に知性はなかった。眼球も汚泥の黒と血の赤に染まり切り、狂った欲望のままに牙を剥く。

 塹壕までたどり着けなかった僅かな逃げ遅れ、食い残しの兵士たちが狂気と絶望の中で蟲人形の異様に慄いた。

「ひぃぃぃぃぃぃぃっ!」

「畜生! 畜生!」

 小銃を発砲する者もいたが狙いは粗く、運よく当たった銃弾も所詮は人を殺すための武器。痛覚も存在しない人形には何の効果も無かった。

 嗤う蟲人形が腕を一振りするや、目に見えぬ濃厚な呪いが風に乗って兵士たちを襲う。

「ぶ!」

「は、ぁー……」

 短い悲鳴と共に、兵士たちは目、鼻、耳、口の全てから赤黒い血を吹いて絶命した。

 人間は触れただけで脳の血管が千切れ、顔面の穴という穴から血を吹き出して呪殺確定の魔風である。

それを、今度は真正面から向かってくる北宮に向けて放った。

空を捻じ曲げる魔風が吹いた。

そして――直撃。風圧で土煙が吹き上がり、一瞬で姿は見えなくなった。

「フヘッ……フヘヘヘへ……シンダシンダ。ニンゲンシンダァァァァァ……」

 蟲人形は白濁した涎を垂れ流し、勝利を確信してヘラヘラと嗤った。

「ヤマモカワモ、ワタクシデイッパイ……イッパイニスルノォォォォ……。セカイノゼンブガワタクシニナッテ、ワタクシガミンナヲタベチャッテェェェェェ……」

恍惚に浸る蟲人形だったが不意に、視界の片隅に動く物を捉えた。

信じがたい光景があった。

あり得ない現実があった。

 土煙を破り、軍刀を構えた北宮が突っ込んでくる。軍服が薄汚れただけの、無傷の姿で。

「エッ……?」

「死ぃねや互羅ァァァァァァァァァァッ!」

 呆気取られる蟲人形を気圧す、強大な殺気を込めた雄叫び。

 続いて、後方からひゅぅっという飛翔音。直後、擲弾砲弾が百足の胴体に当たって粉塵混じりの爆炎を上げた。地面に設置し、曲射を行う八九式重擲弾筒の四発斉射。三発が直撃し、一発が至近弾。

「ナァァァァァニィィィィィィィィ!」

 木製の傀儡は呆気なく体表を抉られ、巨体は大きく揺らいだ。

 その隙を突いて一気に距離を詰める北宮。突撃に一切の躊躇がない。己の命すら顧みない無我無心の切り込み。

「ギ、ィッ!」

 蟲人形が金切り声と共に呪いの息吹を吹きかける。回避不能の近距離から不可視の呪殺攻撃が北宮を襲う。

 北宮はその呪いを大気ごと横一閃。切り払った。

 真空を生じるほどの物理的な威力と、圧倒的精神力が呪いを完全に跳ね除けているッッッ。

 呪いとて、物質世界に在る以上は空気を伝わって対象に到達する。その指向性を阻害してしまえば妨害は容易い。そして、呪いが精神に由来し精神に作用する攻撃手段であるならば、精神力でそれを上回れば勝てぬ道理はない!

 ここに至り、蟲人形は再びの懐かしさを覚えた。

(アアそういえばわたくし、1000年前もこんな殿方に――こわされたんでしたっけ)

走り走り、駆けて駆けて、一命と全霊を賭けて、北宮は跳んだ。

1000年前の遠き日のごとく、ただの人間が魔に挑む。

鋼の刃を大きくかぶり、今という瞬間の生を捨て、垣間見える十万億土の死線の彼岸めがけて、オオ魔に堕ちたる荒神を叩き込まんとしていた。

「こォのヤロァァァァァァァァァッッッッ!」

 人間相手の刀法ではない。もちろん怪物相手を想定した刀法など知らぬ。知ったことか! 兎にも角にも斬り殺す。その一念だけが北宮の全身を駆動させていた。

 空中にて、袈裟がけに振り下ろす重力紫電落とし。

 迷いなき一刀の打ち込みが、少女の形をした蟲人形の中枢を袈裟切りに切断す。

「死んどけぇぇぇぇぇぇぇッッ!」

 限界を超えた力で叩きつけられた刀身は、本来想定していない対象を切ったことで折れ飛んで果てた。

 宙を舞い、どさりと自分の体が斜めに斬られて地表に落ちたことを少女が自覚した時、残った蟲人形の体躯に火焔が浴びせられた。

 九三式火焔発射機から吐き出されたゲル状のガソリンが木製の巨体に燃えながら付着し、全てが焼け落ちていく。

 力を失い、少女の意識は急速に暗闇とまどろみに飲み込まれていった。

「あぁ……お強い人……。また……負けてしまいましたね」

 何の口惜しさも感慨もないのだろう。死ぬも何も最初から生きてすらいない。少女は、元々そういう風に作られたのだから――。

「今度は何年……眠るのでしょうねぇ……」

 少女の顔から血の気が失せ、それはただの木の人形に、命を真似ることもない虚無の骸と化した。

 戦いの終結と勝利を自覚できた者は、この場にはまだ二人しかいない。

「はぁ、はぁ、はぁ……」

 汗と泥にまみれ、息を切らす北宮と

「お見事おおおおおおお! やったねええええええ北宮大尉いいいいいいい!」

 人形の機能停止を確認して舞い上がる東の二人だけだった。

「はぁ、はぁ、はぁぁぁぁ……」

「任務達成だよ! 流石は中野学校出身だぁねあえええええ! あとはこの人形を回収してええええええ!」

「はぁ、はぁ……ああああああああ!」

 殺意と苛立ちを剥き出しにした北宮の飛び蹴りが、東の延髄に決まった。

 この発掘作戦の結果、死傷者計78名。精神に異常をきたした者10名。行方不明者7名。

 東隆輝少佐、首の打撲により全治二か月。

 北宮仁大尉、軽傷。

 参謀本部は作戦の報告書を吟味の末、〈の号作戦〉は廃案となった。

 北宮大尉曰く

「だって俺の方がアレより強ぇし……」

 つまる所、いち兵士と現代兵器に容易に制圧される程度の呪術人形なぞ決戦兵器たりえない、ということであった。結果だけを見れば確かにそういう答になるだろう。

 それから一年と経たず、太平洋戦争は終わった。

〈の号作戦〉とそれに関する一切の資料は終戦時に焼却され、現存せず。

 一応は回収されたと伝えられる少女の形をした人形の残骸もまた、その行方はようとして知れなかった。

  

 先の大戦は春夏秋冬、70余の年月を経て歴史となり、今の世の人は事もなく日々を過ごしていた。

 北関東の片田舎。小さな山脈の麓に位置する小さな街。十数年前の市町村合併で市となったものの規模としては相変わらず町の域であり、特に大きくもなければ目立った産業もない。見渡せば大体田んぼと畑ばかり。

 強いて挙げれば採石場の山があるので古くから石材店が多いということくらいだが、それもバブル崩壊を境に斜陽になって久しい。

 そんな街の片隅に住む一人の少年もまた、教科書の中でしか知らない歴史とは無関係に生きている。

 少年の名は、東景(あずまけい)。

 年齢は14歳。二学期に入ってから学校には行っていない。

 今は、9月の半ば。まだまだ蒸し暑いが、エアコンの効いた二階の自室に篭る景には関係のないことだ。

 朝7時は、まだ寝ている。

 だけど毎日、頼んでもいないのに起こしに来る人がいる。

「おはようございッまぁ――――ッす! 景ちゃ~~~んッ!」

 女の大声が窓ガラスをビリビリと震わせ、山間に響き渡った。

 外には荷台にトートバッグを括り付けたママチャリと、その持ち主の女性の姿。

 東ゆかり。24歳。

 景の従姉であり、一学期まで通っていた学校の体育教師である。特徴、声がでかい。

「ゆかりお姉ちゃんがむゥかえにきぃましたぁ―――ッ! 今日こそ学校行ッこうッねえ~~ッ!」

 ここは田舎なので近所迷惑はあまり気にする必要がない。それでも世間体はあるが、ゆかりは全く気にしない。

 ゆかりを無視して景はタオルケットを頭に被った。

 常識とインターホンを無視してゆかりが家のドアを叩く。

 ドンドンドンドンドンドンと、遠慮なく太鼓のように。

「中学くらい出とかないとォ~ねェ~~ッ! 大人になった時苦労するんですッよお~~! だから開けてくださぁああぁあああい! お姉ちゃんを中にぃ入ぃぃぃれてくださぁーーーい!」

 入れたらどういうことになるのか想像するだけ恐ろしいので、景は毎日ゆかりが帰るまで息を殺して耐え忍ぶ。締め切りに追われて居留守を使う漫画家の気持ちが何となく分かる気がした。

 学校の始まる8時になると、ようやくゆかりの音響攻撃は止まる。

「じゃあお姉ちゃん学校いくからねェ――ッ! 明日こそ一緒に行こうねェーーェ!」

 ママチャリに跨り、全速力で田舎道を駆けていく。電動自転車でもないのにギュインとギアが鳴り、タイヤがキィーと悲鳴を上げるほどの脚力だった。

 東ゆかりの特徴、声もでかけりゃパワーもでかい。

 嫌いではないし、悪い人ではないと分かっている。それでも、あまり生活に介入してほしくない。

 ようやく静寂が戻り、景は二度寝に入る。

 起こしにくる親は、もういない。

 次に起きると、時計は午後3時を回っていた。

 顔を洗って、野菜ジュースとカロリーバーで食事を摂る。

 毎日午後4時になると、朝とは真逆の来客がある。

 ガタン、と郵便受けに投函される音がした。客はそれだけを済ませると、景に一声かけることもなく帰っていく。

 景が外に出て郵便受けを覗くと、今日の学校のHRで配付されたプリントが入っていた。

 田舎道には、制服姿の女子の背中が見えた。土日を除いて毎日やってくるが、いかにも教師に言われたから嫌々持ってきているだけの感があるので、今まで顔も見たことがない。

 景は彼女に興味はないし、きっと彼女も同じ気持ちだろう。

 日が傾いて、外の空気も涼しくなってきた。

 景は今日も、家の敷地内にある土蔵に向かった。

 重い漆喰の扉を、体重をかけてぐっと開く。中に電気は通っておらず、LEDライトを片手に入る。

 古びた紙と埃の臭い。いかにも体に悪いこの空気は、馴れるということはない。

「ケホッケホッ! ……病気になりそ」

 実際、寝不足や空腹のまま入った時は風邪をひいたこともある。

 この土蔵に入るのは、ちょっとした宝探しが目的だ。

 景の家は歴史が古く、この土蔵も元は京都にあったものを150年前に移転したものらしい。

 収蔵物は下手をすると1000年前の物もあるそうだが、そこまで古い物は求めていない。

 景が探しているのは、せいぜい祖父の代までの物だ。

 劣化した大きなダンボール箱を引っ張り出して、一つずつ中身を確認していく。

 衣類や本はハズレ。アルバムや日記にも興味はない。

 何個目かのダンボール箱を奥の奥から引き抜いて、蓋を開くと漸くアタリ――。

「みぃつけた」

 今日になって初めて、景は上機嫌に笑った。

 中にあったのは、祖父の時代のプラモデル。1960年代、オイルショック以前の日本全国に模型メーカーが林立していた時代の遺物だ。

 遺物とは、とっくの昔に消滅してしまった名前も知らない模型メーカー製の、レトロフューチャー感溢れるSFメカのプラモデルである。

「しかもモーターで動く! 未組み立て!」

 今や失われて久しいモータライズドプラモデルであった。心躍る一品であった。

 祖父も父もこういったプラモや玩具の収集癖があった。手に入れた時点で満足する気質だったようで、プラモは組み立てず、玩具は未開封で残っている。

 更なる成果を求めて、景は蔵の奥へと体を突っ込んだ。

「今日の収穫がこれだけじゃ寂しいしね……っと」

 景は同年代の少年と比べても華奢な体型なので、小さな隙間にも入っていける。

 ふと、妙なことに気が付いた。

 目の前に漆喰の壁がある。

 土蔵の奥行を考えると、こんな所に壁があるのは不自然だ。

 ライトで照らすと、漆喰の作りは比較的新しい。父の代まで度々整備されていたとはいえ、150年前に基礎が作られた外側とは根本の設計が違うように見える。

 なにより、表面の塗りが……粗い。

 まるで急いでここだけを増設したような感すらある。

「おかしい……気がする」

 それとなく、LEDライトで目の前の壁をトントン、と小突いてみた。

 特に変わった感じはしない。中に隠し部屋があるような気配もなく、みっちりと壁が詰まっている。

「死体でも入ってたり? まさか……」

 冗談めかして、景は壁の中に呼びかけてみた。

「中に誰かいますか? いたら返事してくださーい」

 サスペンスドラマじゃあるまいし、自分の家にそんなことがあるわけがない。ほんの戯れの気分で壁に耳を当てると

『ここに……います……よ』

 小さな声がした。

「えっ……?」

 辺りを見渡してみるが、周囲はダンボールで囲まれている。土蔵の中に景以外の人間がいるわけがない。

「ねえ……ゆかり姉? きてるの……?」

 声が震えていた。

 ゆかりが夕方にもやってきて自分をからかっているのではないか、そうであった欲しいと願いながら呼びかけてみたが、何の反応も人の気配もない。

 きっと自分の空耳なんだろうと……確信を得るために、景はもう一度壁に手を当て、耳を当て、その中の闇に問うた。

「中に……誰かいますか」

『い・ま・す・よ』

 はっきりとした少女の声が聞こえた。相手も壁に口を当てて喋っているのが分かる。漆喰の一枚向こうに、いるわけのない何かが、いる。

「ううっっ……っ!」

 背筋を悪寒が駆け抜け、景が本能的に身を引こうとした矢先、壁が――崩れた。

ばらり砕ける破片、粉塵の向こう側から白い手が伸びてきた。その手が景の手と掴み合うような形で絡まり、LEDライトが落ちた。

「うあああああああああああ!」

 景の絶叫が土蔵に反響する。周囲は大声を出しても近所迷惑にならないほどの閑散地帯だ。森と山と田畑ばかり。誰に届くわけもない。

 崩壊した漆喰と土壁の混ざり合った煙を撒いて、壁から這い出た何かに圧し掛かられた形で、景は土蔵の床に放り出された。

 入口からの僅かな光と、後に落ちたLEDライトからの後光が、景に圧し掛かるそれを俄かに映し出した。

 長い黒髪の裸の少女――そういう風に見える。

 しかし景と組み合う少女の指に体温はない。冷たい。無機物の温度。それが生きている人間ではないと、自分にとって危険な存在であると、本能が悲鳴を上げていた。

「なんだお前! なんだなんなんっ――」

「おなかが……すきましたぁあああ……」

 黒髪と闇に覆われた少女の顔は口だけしか見えない。

 その口から甘く冷たい吐息が景の顔にかかる。すると不思議と抵抗する気が失せて、頭の中に靄がかかった。

 少女が顔を近づけてくる。

 全く現実味のない光景。夢でも見ている気分で。成すがままで。

 少女の冷たく柔らかい唇が、景の唇に触れた。

 それからは、甘美な捕食行為が始まった。

 少女は獣めいた喘ぎ声を吐き、景の口内を貪る。

「はぁ、はぁ、はぁぁぁぁぁぁっ……!」

 少女の舌が景の舌を螺旋運動で嘗めとり、すすり、その度に景は自分の体の中から熱が奪われていくのを感じた。

 でも、食べられるのが、心地いい。

 この少女は圧倒的に美しく、力強く、自分が到底及ばない上位の存在だと、熱を奪われるごとに本能に刻み込まれる。

 そんな素晴らしい存在に血肉と魂の一切合切を捧げて糧にしてもらえるのは、なんて光栄なことなのだろうか。

 自分の心が、得体の知れない存在に噛みつかれ、中身を吸い取られて、代わりに毒を注ぎ込まれて、人間から食い物に変化させられていくのが、とても幸せに感じられた。

 景は、食われながら笑っていた。歓喜の表情で、自分を食べてくれている至高の存在を見上げていた。

 相変わらず少女の顔は闇に覆われ、口元しか伺えない。その口元が、景に微笑みかけている。

(あぁ……こんな僕でも役に立てたんだ!)

 景の中で赤い光明が彼岸の花を咲かせた。虚ろで当てのない生、迷い始めた矢先に、齢14にして人生の意義を見つけられたと思った。

「そう。あなたは、わたくしに食べられるために生きてきたんですよ」

 少女が景の気持ちを肯定してくれた。

 偉大な存在に認められて、景は悦びの絶頂の只中で人生を終えて――

 いかなかった。

「それはないわー……」

 女の呆れ声と共に、少女は髪の毛を引っ張られて景の上から引き摺り降ろされた。

ブンッ……という空裂音がした。何かが土蔵の外へと放り投げられたようだ。

 床に倒れた景の頭上に、スーツ姿の女性が見えた。長い髪を後ろ手に一本で束ねた、引き締まった体躯の誰か……知っている人のような気がする。少なくともゆかりではない。

 薄れていく意識の片隅、土蔵の外で何かが砕ける音と

「ぎぃあああああああああああああっっっっ!」

少女の壮絶な悲鳴が聞こえたような気がしたが、景の意識はそこで途絶えた。


 翌、午前7時。

 東ゆかりがいつも通りに景の家に押しかけると、門の前に知らない車が停まっていた。

 新車価格は割と高めのステップワゴン。ナンバーは隣の市、つくし市のものが付けられている。

 車の持ち主は、門の前でゆかりを待ち受けていた。

「ゆかり先生……だったな。今は」

 スーツ姿の長身の女性。ゆかりは彼女に見覚えがあった。

「あら園衛(そのえ)様! じゃなくて理事長じゃあないですかァ!」

 女性は宮元園衛。29歳、独身。

 ゆかりの務めている私立の中高一貫校、宮元学院の理事長であり、遠縁の親戚でもあった。

 親戚とはいえ家系図の格付けで最上位に位置するとかで、昔から〈様〉と敬称を付けるように親から命じられ、半ば慣習としてゆかり含め全親族がそうしている。

「ちゃんとお会いするのはお正月のご本家以来ですねぇええええええ!」

「うむ。学校で見かけてもわざわざ話すこともないしな」

「確かぁ! 園衛様のご父母がぁ! 景ちゃんの身元引受人でしたよねぇ! じゃあ園衛様がいても別に不思議じゃないかあーーッ!」

 ゆかり、声がでかい。でかすぎる。

 園衛は「ンンッ……」とそれとなく咳払いをしてみせた。

「まあそれはそうとして……もっと静かに頼む。景は今、体調がちょっとな」

 園衛が景のいる二階部屋に目配せすると、ゆかりはハッとして口を抑えた。その状態で口をもごもご動かして話す。

「ごめんなさい。配慮がたりなくて……。だから私、景ちゃん一人ぼっちなのが心配で毎日来てたんですけどぉ……」

「両親が亡くなって半年か。私の家で暮らせとは勧めたのだが、難しい年頃だ。親戚とはいえ他人の家で暮らすのは嫌なのだろう」

「ご飯もちゃんと食べてるか、私ずっと心配してるんですぅ。その上、急に学校に来なくなっちゃったから……」

「ああ。私が今日ここに来たのは、その辺の問題を解決するためでな」

 園衛がぽん、と手を叩き合わせるとステップワゴンの後部座席の扉が開いた。出てこい、という合図だったのだろう。

 中から現れたのは、宮元学院高等部の制服を着た一人の少女。長い黒髪を結えて、整い過ぎた顔立ちは浮世離れした平安貴族の子女めいている。

 すたりとローファーを地面につけ、流れるような動きで会釈をする。その全てが、あまりにも様になっていて、同性のゆかりですら見とれてしまった。

(うわやっべ……超キレイなんだけどォ?)

 見慣れた高等部のブレザータイプの制服も、この少女が着こなすと次元が違う。スカートから覗くほっそりとした足と、それを包む紺のハイソックスも絶妙な美のコントラストを醸し出していた。

「というわけでな、今日の所は私に任せておけ」

 園衛がそう言うので、ゆかりは大人しく退散することにした。

 しかしママチャリに跨り漕ぎ出す寸前、どうにも先程の少女に違和感を覚えて首を傾げた。

「あんな子、うちの学校にいたっけ……?」

 振り返ると、園衛と並んだ例の少女はにこり、と良く出来た笑顔で微笑み返してきた。


 景は、妙な息苦しさを覚えて目を覚ました。

 半覚醒状態の体はやけに重く、倦怠感に支配されていた。

 起きたくない。だけども、起きないと不味い気がする。本能的に危機感を覚える疲労の仕方だった。何か口にしないと渇いて、飢えて、二度と起き上がれないダメージを負う予感さえした。

(なんでこんなに疲れてるんだ。意味わかんないし……)

 気を入れて腕を上げようとしたが、動かない。

 金縛りではない。明らかに何者かに物理的に抑えつけられている。

 その上、なんだか甘い吐息が顔の近くにかかっている。

「おはようございます、景くん」

 少女の声がした。鈴を鳴らすような心地の良い、それでいて優しさに満ちた声だった。

「は……?」

 意を決して目を開けると、制服を着た知らない女の子が自分に圧し掛かっていた。

「はぁぁ……っ?」

 驚きのあまり悲鳴を上げるが、喉が痺れてほとんど声が出ない。

 長い黒髪の少女。甘い香りの髪の毛も景の体の下にまで入り込んで、その一本一本が自分を抱いているような錯覚すら覚えた。

 少女の着ている制服には見覚えがある。自分の通っていた学校の高等部の女子制服。だがそれだけだ。こんな人物は知らない。そもそも高等部の学生に接点なぞないのだ。

「だっ……誰。おまえ誰……っ!」

「初めまして……ということになりますかぁ一応? だからこそふぁーすといんぱくと? が大事だと思ったのですけどぉ。景くんみたいな思春期まっさかりのオトコノコだと、わたくしみたいな乙女がお肌に触れて急接近したらドキドキワクワク止まりませんものねぇ」

少女はお嬢様めいた口調だが、なぜか横文字のイントネーションに不慣れな言語を扱うような独特の訛りがあった。

「だからっ、誰だよお前!」

 精神を振り絞って、景はようやくまともに声を出した。

「ドキドキ以前に怖いんだよ! マジで誰なのお前さぁ!」

 正論であった。

 見ず知らずの異性が理由もなく擦り寄ってくるなぞ恐怖体験でしかない。

 なるほど、言われてみればそうであると得心した様子で、少女は景の布団から出ると、制服の乱れを直し、カッチリと整った正座をして、三つ指を突いて一礼した。

「わたくし、東(あずま)瀬織(せおり)と申します。宮元園衛様より、景くんのお世話をするよう賜って参りました」

「は? あずま……?」

「そうですよ。景くんと同じ苗字ですので、親戚ということになっておりますね」

 瀬織が小首を傾げて、にこりと微笑んだ。

 妙な言い方をするのが引っかかるが、それ以上に勝手に話が進んでいることに景は狼狽した。

「お世話って、ちょ、えっ、どういうこと!」

 疑問がどこかに届いたのか、急に充電コードに繋いだままの景のスマホに着信が入った。

 登録済みの着信名は〈園衛おばさん〉。

 即座に電話に出る景。

「も、もしもし……」

『私だ。景よ、起きたなら状況は分かっているな』

「分からないんだけど……」

『鈍い奴め。お前のためにお手伝いさんを呼んだ。お前の知らない遠くからきた親戚だ。京都あたりの出身と思っておけ。理解しろ。それとスマホに私をおばさん扱いで登録してるな? 私はまだギリギリ20代のお姉さんだ。修正しておくように』

 園衛は一方的にズラズラと言葉を並べ立てて電話を切った。宮元園衛とはこういう人間だ。

 景は窓の外、階下を見下ろした。

 スマホ片手に園衛が軽く手を振っていた。

「あの人!」

 直に文句を言ってやろうと思った矢先、すぐに車に乗り込んで転回。ハイブリッドカー特有の静穏駆動。そのまま走り去ってしまった。

 家には、景と瀬織と名乗る少女だけが残った。

「それでは景くん、あさげにいたしましょう」

 見ず知らずの相手とどう接して良いのか困惑する景に構わず、瀬織は手を引っ張って先導。強引に部屋から連れ出した。

 一階の食堂は暫く使っていないはずだが綺麗に掃除されていた。

 加えて、食事も用意してある。

 具は少な目、わかめとネギのシンプルな味噌汁。ほかほかの焼きサバ、大根おろし付き。小鉢にはほうれん草ときのこの白和え。焼き海苔は軽く炙って香りが出ている。白米はしっかりと一粒一粒が立ち、それこそ電気釜のTVCFに出てくるお手本通りの出来上がりだった。

「うわぁ……」

 思わず感嘆の溜息が出た。

 何か月ぶりかのまともな食事ということもあるが、それ以上に景の好みを的確に突いた献立に感動していた。

「さあ、遠慮なく召し上がってくださいまし」

 瀬織に言われるがまま、料理を口に運ぶ。

 味噌汁、美味い。焼きサバ、美味い。白和え、美味い。焼き海苔は軽く醤油をつけて、美味い。白米を一口、噛み締めて美味い。

「どうですか、景くん。お口に合いましたか?」

「うん……美味しい」

 食べながらぶっきらぼうに感想を述べると、瀬織は何故か首を傾げた。

「美味しい……感謝の言葉。こういう感情をぶつけて頂けるの、幾歳(いくとせ)ぶりでしょうか」

 それまで微笑んでいた瀬織が急に無表情に変わった。それも一瞬のことだ。

 景は食事に没頭していたので、瀬織の表情の変化には気付かなかった。

 極度に疲労し、栄養を求めていた景の体は満たされ、思考も落ち着いた。

 それを見計らってか、瀬織は唐突に話題を切り出した。

「ところで景くん。わたくし、明日から学び舎に行けと下知されております。ですので、一緒に登校しましょう!」

「え」

「お厭ですかぁ?」

 瀬織は景よりも頭二つ分背が高い。身長は170CM近く、女子高生としてはかなり発育もスタイルも良い部類だろう。それが小首を傾げて、悪戯っぽい視線を向けるのは何ともあざとい。

 景は照れ隠しに顔を背けた。

「い、いやだよ……」

「わたくしと一緒なのがお恥ずかしいので?」

「そうじゃなくて学校行くのが……」

「どうしてですか?」

「……行っても意味がないから」

 景は思春期の悩みを言葉足らずに伝えた。

 実際、いじめられたとか、授業についていけないとか、そういう安直な理由ではないのだ。言葉にするのも曖昧な漠然とした理由で急に不登校になったので、ゆかりに話しても理解されなかった。

 学校に行く意味がない、という言葉だけ聞けば普通の大人なら甘ったれるなと叱責するか、意味が分からないと問い詰めるものだが、瀬織は「うーん?」と少し考える素振りをしてから

「ああ、つまり目標もなくただただ教科書を読み、お出しされた課題をこなして試験に挑み、先生から採点評価される。その繰り返しの毎日が空虚で無意味に感じられた、というわけですか」

 一撃で核心を撃ち抜いてきた。

 景自身も上手く言葉に出来ない迷いを完全簡潔に言い表されてしまったので、一種恐怖すら覚えて愕然とした。

「えっ、まあ、そういうことかも……」

「分かる話です。明確な目的もなく言われるがまま毎日穴を掘るというのは人間にとってはこの上ない苦痛でございましょう。我思う故に我あり。我を自覚してしまったら、もう人形ではいられませんもの」

「なにそれ……」

「哲学でございます。ともかく、若き景くんのお悩みは理解できました。先生方って『お前たちの進路希望を提出するよーに』とか言っといて実際は生徒に丸投げですものね。本当に無責任なものです。でも学校には行きましょう」

「だから厭なんだって……」

「二学期から……つまり夏休みを除けば半月ほど行ってないのですよね。行き難いですか? 同級生から奇異の目で見られるのが恐ろしいですか? でも時を空ければ空けるほど、恐怖はどんどん増していきますよぉ? うふふふふ」

 これまた普通なら言い難いことをズバズバと切り込んでくる。これが人当りの良い美少女の本質なのか。

 景は、そこまで自分を露わにできる瀬織に軽い恐怖と少しの興味を抱いた。

「行き難いって気持ちはあるよ。何回か、クラスのみんなが全員で家に来たこともあるし」

「ああ、なるほどぉ。担任の先生にけしかけられて同級一同勢揃いして『景くーん学校きてー! 

待ってるよー!』の大合唱ですか。ほほほほ……きっついですわねー。それやらせた先生は人の心が分かっておられないご様子」

 何故か、瀬織は実に愉快そうに話す。当時の景の苦しむ様を想像して悦に入っているかのようだ。

「で、もちろん景くんはそれを無視した~。いいですのよ別に。景くんってアレでしょう? 小学生の頃とか、地域の子供会のお誘いもするーして一人で家でげぇむやってたクチでございますわよね? 『お菓子あるよ~子供会たのしいよ~?』とか余計なお世話でございますものね~? ほほほほ……」

「普通そこまで言う? ひどすぎだって!」

「あら~? でも事実じゃないんですかぁ?」

「うぅ……」

 反論できず、景は俯いた。瀬織の言った内容は大体合っている。子供会のお誘いの件もだ。

 景の過去の体験談を読心術でも使ったようにズラズラと見事に言い当てていた。

 瀬織は、俯く景の頬に手を伸ばして、優しく触れた。

「でもだいじょうぶ。学校には、わたくしがお供しますもの」

「お、お供って……」

「今世のわたくしのお役目は、景くんのお世話でございますゆえ。もし明日になって厭だ厭だと駄々をこねても、強引にお連れしますからねぇ。うふふふふふ……」

 瀬織は従者のようでいて、目的のためなら景を屈服させてでも遂行する強者の迫力があった。

 朝の時点で、景は瀬織との力関係を明確にされた。

 この上位存在が家にいる以上、景は二度寝を許されなかった。

 特段監視されているわけではないはずだが、いつもの癖でベッドに入ろうとすると、即座に部屋のドアがノックされて

「まだ日が高いですのに寝てしまうのは勿体ないでございますねぇ~。人の生は駿馬の駆けるがごとく儚い瞬きでございますゆえ~」

 などと妙な言い回しを呪文のように唱えてくるので、景は緩んだ生活習慣を強制的に矯正されていった。

 観念して、景は自分の趣味を昼間にやることにした。

 太陽光の良く入る縁側にて、土蔵から発掘した祖父の代のプラモの写真をスマホで撮って、解説も添えてSNS上にアップするのだ。瞬く間に好評を示すハートマークのカウントが上がり、フォロワー数も増加する。

 瀬織は後から景のスマホを興味深そうに覗き込んだ。

「なるほどぉ~。今世の方々は、こうして自己顕示欲を満たすわけですねぇ~」

「変な言い方するなよ……」

「でも景くんは皆さまの羨望嫉妬を一身に受けるのが気持ち良いのでございますのよね~? 同時に無力な有象無象が自分の行動で喜怒哀楽の右往左往しているのを見るのが楽しい。世に影響を及ぼす、何かを成すというのは人生の命題。それをお手軽に達成したような気分になれるのですから、良い慰みでございます。でも結局は手慰みに過ぎませんから。あまり依存しちゃダメですよぉ~?」

 言うだけ言って瀬織は家事に戻っていった。

(ここまでハッキリ言われると何も言い返す気になれない……)

 別に趣味を否定されたわけでもないので怒る道理はないし、割と事実を言い当てている気がしたので、景は複雑な気分だった。

 夕方、午後3時を回る頃、景がスマホを弄っていると瀬織が肩を叩いてきた。

「お散歩に参りましょう」

「散歩って……僕は犬じゃないぞ」

「景くんみたいな可愛いワンワンなら大歓迎ですよ~? というのは半分冗談で、若いからと体を動かさないと鈍ってしまいます。いざという時に体が動かないと大恥をかいてしまいますので、わたくしの方からお散歩にぃ――」

「分かった! 分かったよ!」

 口論で瀬織に勝てる気がしないので、景は素直に散歩に出かけることにした。

 この半年、ずっと家にいたのでパジャマのままだった。まともな服を着るのも久しく、そういう面のリハビリも瀬織は考えていたのかも知れない。

(あいつ、気が利きすぎる。怖いくらいに……)

 ずけずけと人の心に踏み込んでくるのも全て結果を踏まえた計算づくだとしたら――と考えると背筋に冷たいものが走る。

 一方で。瀬織は無遠慮に景と手を繋いで前に前にと田舎道を引っ張っていく。その手は柔らかくて、温かくて、これが作為的な行動だとしても別に溺れてしまって良いのではないか、小賢しさは捨てて甘えてしまった方が楽なのではないかと、そんな考えもよぎった。

「あら~おっきい岩ですね~?」

 瀬織が道の脇の巨岩を見つけた。周囲は畑と田んぼしかないので、唐突に視界に出現する岩は否が応にも目立つ。

 直径6メートル、高さ3メートルはあろうかという岩にはしめ縄が巻かれ、信仰の対象であることを伺わせた。

 景も、この岩のことは子供の頃から知っている。

「この岩、ずっと昔からここにあるんだ。悪い鬼を岩の下に封じ込めたって昔話も聞いたことある」

「ふぅん……。ああ、この岩。今ではそんな風に伝承されているのですねえ」

「え?」

 まるで岩が置かれた当時のことを知っているかのような口ぶりだった。

そして、瀬織の解説が始まった。

「むかしむかしある所に、肥料作りの名人がおりました。その名人は日の元の歴史上、初めて野壷の原型を作った人です。ああ野壷というのは――」

「知ってるよ。その、あの、肥料を作る穴だろ……」

「そうですね。そういうことで良いです。ある時、名人は変わった野壷を作りました。魚の骨、野菜のクズや食べ残しをその野壷に入れて蓋をしておくと上等な肥料が出来上がるのです~」

 今で言うコンポスト容器のようなものか。農家や家庭菜園の片隅に置いてある、巨大なポリバケツめいた肥料製造器のことだ。

「ゴミ捨て場にもなるし肥料も作れて一石二鳥。住民は大喜びでボイボイゴミを捨てました。取れた肥料で田畑も豊かになり、名人は大いに感謝されました」

「良い話じゃない」

「ここまでならメデタシメデタシ……なんですが、そうはいかなかったんですよね~。名人は歳を取って死んで、野壷は息子に引き継がれました。でも息子は自分の土地がゴミ捨て場になっているのが気に入らない。だから野壷を閉めてしまったんですが、他の住民は構わず昔のようにポイポイ捨てるのを止めなかった」

「止めてと言えば良いじゃないか」

「言って素直に止まるようなら誰も苦労しないんですよね~。で、ついに堪忍袋の尾が切れた息子は山から岩を運ばせて――」

 瀬織が山の方向を指差す。あの辺りの山は昔から採石が盛んで、今でも町中に石材店があるほどだ。そして瀬織は指先を山の方から、件の岩の方へと移動させた。

「――ドーーンと野壷の上に置いて封印してしまったんですよね。鬼を封じたというのも言葉のアヤでございましょう。自分勝手な欲という心の中の鬼、ですね」

「寓話的……っていうのかな。今考えたにしては凄く良く出来てるよ。口が回るだけのことはあるや」

「いえいえ、今考えたのではなく1000年くらい前にあった事実のお話でございますよ」

「博識だなあ……」

 景は素直に関心した。

 頭も良くて、口も料理も上手で、器量が良い女性とは瀬織のことを指すのだと思う。

 なにより――瀬織は、とても綺麗だった。

 また景の手を引いて道を歩く。もう午後4時近いのか、日は傾いて夕暮れ刻。薄暗い空から挿す夕日の中の瀬織は、あまりにも美しすぎた。

制服姿のただの女子高生のはずなのに……浮世離れしていて、直視できない。

 景は照れ隠しに俯いて、瀬織に引かれるがまま帰路についた。

 田舎の道の脇には、彼岸花が赤く咲いていた。

「ねえ景くん」

 静寂の夕刻、秋風に吹かれ、景は瀬織の背中を見上げた。

「わたくし、今みたいな時間。逢魔が刻ってとても好きなんです」

 瀬織の口調が違う。圧倒するほどの饒舌さはない。

 冷たく淡々と自己を語り始める雰囲気そのものが異質だった。

「夕暮れ刻は魔と出会う時間。昼と夜、太陽と月が入れ替わる境界の時間。ふっっと真っ暗な森の中に入ってしまったら向こう側、こことは違う幽(かくり)世(よ)が覗けそうで……ワクワクしませんか?」

「なにそれ。中二病って……やつ?」

「うふふふふ……中学生の景くんにそんなこと言われちゃうのは心外ですねえ」

 景は茶化そうとしたが、瀬織のまとう空気は崩せなかった。

 少し歩いて家が見えてくると、門の前に中等部の制服を着た眼鏡の少女がいた。

 毎日、景の家にプリントを届けにくる同級生のようだ。顔を見たのは初めてだったが、彼女は景の良く知る相手だった。

「あっ……」

 景が声をかける間もなく、こちら気付いた少女はずかずかと向かってきて、景の胸にクリアファイルに入ったプリントの束をドンと押し付けた。険しい表情の少女だった。

「はい、今日の分のプリント」

「あ、ありが……とう」

 少女は景と手を繋いだままの瀬織を一瞥すると「フン」と鼻を鳴らして、不機嫌というより侮蔑に近い表情を見せた。

「東くん、元気そうで何より。その様子なら明日には学校に来れるわよね」

「元気そうって……。これはそういうワケじゃ……」

「なにそれ。ラブコメ漫画の言い訳じゃあるまいし。理事長にもちゃんと報告しておきますから。じゃ、さようなら」

 少女は踵を返すと、一度も振り返ることなく帰ってしまった。

 瀬織は繋いでいる景の手を一瞥して察したようだが、クスリと笑って放すことはしなかった。

「あらあら、随分とツンツンした女の子ですねえ。お知り合いですか?」

「うん。あの子は氷川朱音ちゃんっていうんだ。幼稚園の頃からの腐れ縁で、今は学級委員。中学になってからは、あんまり話さなくなったけど……」

「幼馴染ですかあ。まあ色々と難しいお年頃ですからねぇ~」

 瀬織は朱音のことは特に興味もなさげに流そうとしたが、ふと思い当たったように視線を泳がせた。

「理事長に報告、ね……」

 それは独り言の小さな呟きだったので、景は気づきもしなかった。

 日が落ちて、景が小腹が空いてきたと思った頃、まるで心を見透かしていたように丁度良く、瀬織が夕食を用意していた。

「ゆうげが出来ましたわ」

 献立はデミグラスソースのハンバーグにサラダ、コンソメスープ。

 瀬織は見た目や口調からして純和風のお嬢様といった感が強いので、景は夕食も茶色い色彩の煮物とか焼き魚を作りそうだと思っていたが、これは意外な結果だった。

「こういうのも作れるんだ」

「本で読みましたので。その通りに作っただけでございますわ」

 言われてみれば、まるで料理の教本に載っている初歩的な洋食の写真をそのまま三次元プリントアウトしたような出来映えにも見える。

 尤も、そんな些細なことは一口食べてしまえばどうでも良くなった。

 実際美味しいので、景は久方ぶりのまともな夕食を夢中で食べた。

 卓上の食事は二人分。瀬織自身の分も用意されている。

 瀬織は手元のナイフとフォークを一瞥して、おもむろに手に取って使い始めた。何ら粗相のない、教本通りのテーブルマナーの食事だった。

 その途中、景は瀬織がじっと自分を見ていることに気付いた。

「えっ、なに? 僕の食べ方、なんかおかしい?」

「いえ、そうではありません。なんだか……不思議な気持ちなのです」

 瀬織はナイフを置いて、ふっと息を吐いた。

「同じ屋根の下、同じ時に寝食を共にすること。その意味を考えていました」

「なにそれ? 瀬織は家族と一緒にご飯食べたことないの?」

「家族? ああ……」

 瀬織はくすりと笑って

「家族。なるほど。そういうことで御座いますか。うふふ……」

 やけに嬉しそうな顔をして、ぽんと一回拍手をした。

 景としては意味が分からないので、特に気にせずそのまま食事を続けた。

 食事が済む頃には、時計が午後8時を回っていたが、瀬織は帰る気配がなかった。

「なあ……そろそろ帰らなくて良いの?」

 洗い物をしている瀬織に、景が声をかけた。

 外は真っ暗で、女の子が一人で出歩くのは不安だ。田舎なので街灯も少ない。この付近に瀬織が住めそうなアパートの類はないし、家は遠いのだろうと推測していたのだが、当の瀬織からは予想外の答が返ってきた。

「帰るも何も、わたくし今日から景くんの身の周りのお世話を仰せつかっておりますゆえ。それこそ朝から晩まで、ずーーっとです」

「つまり……どういうこと」

厭な予感がした。

不安げな景とは対照的に、瀬織はニコニコと笑っている。

「言った通りでございますよ~。景くんと同じ屋根の下で寝起きするということですが~?」

「えっ、住み込みとか聞いてないんだけど……」

「園衛様からは、そうせよと仰せつかっておりますので~」

 景は複雑な表情だった。

 自分にもプライバシーというものがある。加えて園衛の家は家系図だか何だかで東家の上位にあるそうで、そんな人と一緒に暮らしてああしろこうしろと強制されるのが厭だから一人暮らしをさせてもらっている。

 しかも園衛は景が成人するまで財産を管理している。なんとも反抗し難い相手だった。

 一方で、園衛の命令とはいえ自分に良くしてくれる瀬織を無碍にするのは心苦しい。

 ありがた迷惑だと切り捨ててしまって良いものか……。

 ここで瀬織を拒絶したら、また自分は一人になってしまうわけで――。

「でもでもぉ、景くんがどうしてもイヤと申しますなら、わたくし帰ってしまうのも吝(やぶさ)かではございませんよぉ~?」

 景の逡巡を見透かしているのか、瀬織は悪戯っぽく笑って身を捩った。

「で、どういたしますか景くん? わたくしに出ていってほしいですか? それともいてほしいですか?」

 答に困る問いを真正面から撃ち込まれて、景は「う」と小さく呻いて顔を逸らした。

 そんなこと、中学二年生の男子が面と向かって言えるわけがない。

 景の戸惑いを見透かしたように、瀬織は耳元に息を吹きかけた。

「ね……こたえてくださいな」

瀬織は景の耳元でねっとりと囁いた。

こんな妖しい振る舞い、中学生の男子には刺激的すぎる。

「あっ……あーーーっ! もうっ!」

 景は顔を真っ赤にして椅子から立ち上がった。

「いても良い! それで良いから!」

 初々しい景の反応を見て、瀬織は唇に指を当てて妖しく笑った。

「ウブいですわねぇ。うふふふふ……」

「なんだよ! 文句あるのかよぉ!」

「いえいえ滅相もございません」

 瀬織は自分より背の低い景へと、腰をくいっと曲げて視線を合わせ、吐息がかかるほどの至近距離まで顔を寄せて、再び囁いた。

「上出来、ですわ」

 大の男でも溶かされてしまいそうな甘く生温い毒の篭った言葉に、景は耐え切れずにぶるっと震えた。

 何も知らない無垢な精神を未知の快楽で支配することの愉悦に酔い痴れているのか、瀬織は笑っていた。思わず本性が顔に出てしまっていたので、景には見えないように顎を思い切り上げて、天井を見ながら、くつくつと嗤っていた。

「あは、あはははは……すみませんすみません。からかい過ぎてしまいましたぁ。どうかご容赦くださいませぇ。くふっ、ふふふふふふっ」

 こんな時にどう反応しろというのか。異性と交際したこともない少年に分かるはずもなく、しどろもどろに狼狽していた。

「せおっ、瀬織……おま、おま、おまっ……」

「お詫びというわけではございませんが、同居のお許しを得ましたので、今宵は共に湯浴みをいたしましょう」

「湯浴み、風呂? ふぇぇぇぇっ?」

「それから一緒のお布団で同衾するのも吝かではございませんよ」

「あばっ、あばばばばばばばば……」

 誘惑の乱れ打ちに蜂の巣にされ、景の精神が崩壊を始めた。

「うふふ、冗談ですわよ」

 最後の最後で瀬織が助け舟を出した。その一言で気が楽になって、景は深い溜息と共にその場にへたり込んだ。

「はぁぁぁぁぁ……。冗談じゃない……」

 瀬織は微笑みの表情を浮かべているが、その奥に含まれた真意、本当に冗談だったのか否かということを察するのは、今の景には出来なかった。


 夜は深く深夜0時を回った。

 瀬織は一階の、もう使われていない空き部屋を当てがわれた。

 だが電灯は点いていない。不要なのだ。布団も敷いていない。不要だからだ。

 瀬織は畳の上に着の身着のままで横たわっていた。

 闇の中で、園衛から与えられたスマホを起動する。その画面の明かりだけが、瀬織の部屋の唯一の光だった。

「ええと、電話電話……。確かここをこう触って、こう……ですわよね?」

 馴れない手つきではあったが、電話帳を展開して〈宮元園衛〉と登録された番号にかける。

 何度かのコールの後、相手が電話に出た。

「もしもし園衛様でしょうか? わたくし、瀬織でございます」

『ああ私だ。スマホは問題なく使えるようだな?』

「あら~? もしかして『こっこんな小さな機械で遠くの人間と会話できるというのか~! 信じられ~ん!』みたいな反応を期待されてましたか~? どれほど時が経とうが人間の道具。理解するのは問題ございません」

『ふむ……その様子なら景の世話も出来ているようだな』

「もちろんでございます」

 画面の光に照らされた瀬織の顔の半分が、穏やかに目を閉じた。今日の記憶を反芻し、噛み締めるように、自らの胸に手を当てた。

「何もかも新鮮でございます。人のような意識を得て永き年月を経ましたが、赤心にて人と過ごすのは初めてでございます。それもこれも、わたくしに名と役目を与えてくださった園衛様のおかげです」

『そうか。して、お前は景をどう思う』

「寂しく、未熟な幼子に思えます。有り体に言えば、ごく普通の少年で――」

『そういう話をしているのではない。好きか嫌いか、ということだ』

「あぁ……」

 そんな風に人間関係について聞かれるのは、この世に存在を得てから初めてだった。

 一瞬、瀬織は無表情に固まった。感情も魂も命すら感じさせぬ静止の中、思考を巡らせた。

「そういった感情はまだ良く分かりません。でも、わたくしは自分を受け入れてくださる相手を好ましく存じます」

『私はお前と景に欠けた物を……共に暮らすことで埋められると思っている』

「でも景くんは、わたくしを受け入れてくださるでしょうか。園衛様ほど広い度量を持てる人間は多くはありません。かつての多くの方々も、真を知った時には……」

『少なくとも、お前は自分の意思で景の所にいる。その行動に偽りはなかろう』

 暫し、瀬織は沈黙した。

 自分が景に拒絶される未来を想像すると、胸の奥に鈍痛が走った気がした。痛みなぞ感じない体だというのに。それに近い感覚を覚えるのは不具合の警告でしかない。

「なんでしょうね……。不思議な気持ちにございます。ここで暮らすことで、わたくしは、わたくしではない別の何かに変わっていく……」

『それが学ぶ――ということだ。明日は景と一緒に学校に来い』

「はい。今宵はわたくしなぞのために貴重なお時間を割いていただき、ありがとうございました」

 瀬織が報告のための通話を切ると、部屋は再びの闇に回帰した。

 積極的に睡眠を取る必要もないが、瞼を閉じてより深い闇の奥に堕ちていく感覚は嫌いではなかった。

「でも、わたくし……今でもこの闇が好きなのですよ。このずっと奥に、わたくしの半分がまだいるんです……」

 胸に当てていた手を、瀬織は暗黒の虚空にそっと伸ばした。


 景の住む街の背後は小さな山脈がある。

 標高800メートルほどの筑紫山を最高峰とした、500~600メートル程度の低山地だった。

 そのうちの山の一つも、特筆すべき点はないごく普通の山だ。

 ただ、山頂付近は前の戦争の後から個人の所有する土地となっており、今はフェンスで覆われ立ち入り禁止となっている。

 野生動物が僅かな隙間や沢づたいに出入りする以外に生命の気配はない。特に今は深夜2時。明かり一つない、こんな場所に訪れる人間などいるわけがない。

 なのに、闇の中で声がする。

『タリナィ……タリナィ……』

 呻くような女の声だった。

『ホシィ……ホシィィィィ……』

 何かが地面を這いずり、体を擦りながら高速で移動している。

 その異様な気配に気づいたのは、山に住む猪。野生の本能が危険を感じ、一目散に逃走を開始した。

 草をかきわけ、暗闇の中で体を木々にぶつけても、猪は構わずに走った。

 狼なき現代日本の山野において、猪のヒエラルキーは高い。毛皮は鎧のように硬く、その下には分厚い筋肉と脂肪の重装甲を備えたこの生物を捕食できるのは、今や人類以外に存在しない。

 成体で100kgを超える質量と鋭い牙、時速50kmの速力での突進は、掠めただけでも命に関わる。性格も獰猛であり、武器を持った人間でも対峙するには多大なリスクが生じる。

 それほどの野生動物が自らに迫る何かに怯え、一方的な弱者として逃走していた。

 やがて、その逃走劇にも幕が降りた。

 猪は何かに追いつかれ、悲痛な叫びを上げた。

 己が死を嘆く断末魔の悲鳴を掻き消すように、明らかに天然自然と異なる音が響き渡る。

 ごり五里、ゾり削リゾりゾり、と何か鋭利な物体が皮を剥ぎ、肉を削ぎ取るような音。

 その異音が止まって暫くすると、猪の荒い呼吸が再開された。

 ふぅ、ふぅ、ふ、フォォォォォ……と不規則な呼吸は次第に収束し、猪の喉では不可能な音を発する。

『チィ……ガァ……ウゥゥゥゥゥゥ……』

 猪の喉が、人語を発声した。

 直後、ブッ……という音と共に猪だった肉塊が吐き出された。

 再び、女の呻き声がする。

『チガウ、チガウ、チガウゥゥゥ……。コレジャナイィィィィィ……』

 闇の中で何かが地を這う。渇きと飢えと喪失を満たすために、ひたすらに夜の山を徘徊する。

『アタマガホシィ……カラダガホシィ……ホシィイイイイイイ……ホシイノォォォォォ……』

 無明の奥底にて、自分に足りない部分を求めて、なくしてしまった自分の半分を求めて、巨大な蟲の影が這っていた。


 翌朝――宮元園衛の実家。

 そこは屋敷といって差し支えない広さと大きさの日本家屋だった。その母屋の一角に園衛の部屋はある。

 時刻は午前五時。普段なら園衛もまだ眠っている時間帯だが、部屋に近づく気配を感じて覚醒した。

 布団から身を起こすと、外から静かに戸が叩かれた。

「お休みのところ失礼いたします、園衛様……」

 馴染みの女中の声だ。

 園衛は布団を除けて上体を起こした。

「何事か」

 こんな時間に起こされるのは久々のことだった。今日び余程のことがない限り園衛を起こしにくる者などいない。

 女中は僅かに戸を開けると、低い姿勢で報告した。

「蔵の方に異常が……」

「蔵だと?」

 園衛の屋敷も歴史は古く、敷地内には複数の蔵がある。

 収蔵物は様々だが、普通ではない物品も保管されていた。

 寝間着のまま当該の蔵を見に行くと、確かに異常があった。一目で分かるほどの異常が。

 蔵の横の地面が異様に盛り上がり、まるで巨大なミミズかモグラでも這ったかのような痕跡が塀の方まで続いていた。痕跡の主は地中深くまで打ち込まれた塀の基礎にぶち当たったようで、それが破壊されたと思しき亀裂が地上部分にも生じていた。

 園衛の周囲には、不安げな顔の女中と使用人が集まってきている。その中の一人、冷や汗をかきながらも何故かにやけている女中に園衛は気付いた。

「篝(かがり)、お前なにか知っているな」

「うひっ?」

 篝、と呼ばれた女中は素っ頓狂な声を上げた。

 西本庄篝。25歳。年齢の割には小柄かつ童顔で中学生と良く間違われるほどの容姿だが、園衛との付き合いは十年以上もある。

「わっ、わぁ……わたしは知りませんよぉ……? アレ、アレ、アレ……アレが今になって動くなんてぇ……」

篝は困ったように笑いながら、園衛に目を合わせず答えた。

「アレとはなんだ。分かるように言え」

「むぅ、昔の試作機ですよぉ。作ったは良いけど動かなくて、お屋敷の蔵に放り込んでそれっきりの奴ですぅ」

「試作機ぃ……?」

「はいぃ。軽量級の戦闘? 機械傀儡ぅ……。武装運搬用の奴です。確か」

 戦闘機械傀儡。エンジンや人工筋肉を搭載した、現代の戦闘用空繰人形のことだ。園衛にとっては、久方ぶりに聞く名詞である。

 そういえば、そんな試作品が蔵にあったような気がした。それは兎も角として、篝の表情が気になる。

篝は、ニタニタと口元を歪めていた。

「お前、やけに嬉しそうだな」

「そ、そりゃあ……わたしとしては嬉しいかも。うふふ。だって動くワケないモノが動いたんですよ? エンジニア崩れとしちゃ興味が惹かれるっていうかあ……」

 動くはずのない試作機。そこまで言われて、園衛は蔵の中から這い出た物の正体に思い当たった。

「起動不能の失敗作。マガツチ……か」

 園衛は腕を組み、目を細めた。土の盛り上がった痕跡は敷地の外の竹藪に続き、そこから先の行方は知れなかった、


 朝、起きると景は久しぶりに学校の制服に袖を通した。

 夏休み前から数えると、およそ二か月ぶりの制服。しかも冬服に衣替えしたので、実質的には一年ぶりに着る服だった。

(ただ学校に行く。それだけだろ)

 と何度も自分に言い聞かせた。この程度、大したことではないと。

 なのに、首のあたりがガクガクと意識は無関係に震えて、気を抜くと歯がガチガチと音を立てる。

 こんな無様な姿は瀬織に見られたくない。いっそ、制服なぞ脱いでベッドに潜り込んでしまえば楽だろうな……と学校を休む口実を考え始めた矢先、ノックもなしに部屋のドアが開いた。

「おはようございます、景くん」

 既にカッチリと高等部の制服に身を包んだ瀬織が、景の背後から迫ってきた。

「うわああああああ! なんで入ってくるんだよぉ!」

「戸を叩いたら入れてくれなさそうな雰囲気でしたので。強行突入でございます」

 狼狽える景の後に瀬織がぴったりと張り付く。身長差の関係で、瀬織の胸の部分が景の頭の後にある。僅かに触れている。制服に包まれているが――目に見えて胸部が盛り上がっているので、かなりサイズがあるのか?

(いやいやなに考えてんだよ僕! そうじゃなくてなんでこんなに距離が近いんだよう!)

 煩悩と興奮に支配されかける景に対して、意外にも瀬織は真面目な顔をしていた。

「震えておいでですね、景くん」

 すっ、と瀬織の指が景の首筋に触れた。

「でも恥じることはございません。それは武者震いというもの。緊張すると人間誰しもが起こす生理現象でございますわ」

「武者震いって……変な言い方するなよ」

「心が怯えているわけではありません。それでも足がすくんで動かないというのでしたら――」

 突然、瀬織が景の足を払い、重心を崩して体を倒した。それは柔術の動作であり、素人の景には対応不可能だった。

 かといって投げ飛ばすわけではなく、瀬織は宙に浮いた景の腰と背中を持って抱き上げた。

「――こうして、わたくし自ら力づくにてお連れいたします!」

「ちょっ、ちょっと待って! これは流石に!」

「お姫様だっこならぬ王子様だっこですね! これは昂ぶりますわ! いざ、参りましょう!」

 勝手に士気の上がった瀬織は景を抱きかかえたまま二階から駆け下り、靴を履いて玄関から出ると、後手でドアに施錠。更に二人分の鞄のスリング部に両手を通して走り始めた。

 男子中学生と鞄、総重量約50kgの荷重をものともせず、ジョギング程度の速さで田舎道を走る制服の美少女――異様な光景であった。

「やめろバカ! こんなところ誰かに見られたらぁ!」

「あっはははははは! わたくし、別に構いませんよぉ~? 景くんと素敵な関係だと思われるのも悪くありませんもの~」

「違う! 普通に恥ずかしいんだって!」

 景が危惧する未来が、間髪入れず田舎の車道を走ってきた。それはこちらに向かって凄まじい速度で接近。東ゆかりの乗ったママチャリとのニアミスという最悪の事態が起きてしまった。

「うおおおおはよぉおおおおおおお景ちゃあああああああん!」

 挨拶と驚きを混同した妙な叫びを発しながら、ゆかりのママチャリが急ブレーキをかける。ゆかりの顔が景と瀬織に向いていたせいでママチャリはバランスを崩し転倒。土手を滑って収穫後の田んぼへと落ちていった。

「学校がんばってねぇぇええええええええっとうぉおおおおおおおおおお!」

 ガシャアン! という派手な破壊音がして、ゆかりのでかい声は聞こえなくなった。

「あわわ、ゆかり姉……」

「ほほほほほ、大丈夫ですよ景くん。人間って意外と頑丈ですからねぇ~。死にはしませんよ、たぶん~」

 その後、瀬織はテンションに任せて学校の目前まで景を抱いたまま疾走した。早朝かつ田舎のおかげで、ほとんど人目に付かなかったのは不幸中の幸いだった。

 瀬織は人気のないゴミ捨て場の裏手で景を降ろして、鞄の中に入れていた靴を履かせた。

「ほほほほ……流石にわたくし、あのまま校内に突入するほど無神経ではございません。わたくしも景くんも、妙な噂が立ったら面倒ですもの。ちゃんと考えて行動しておりますゆえ、ご安心ください」

 景は久々の、瀬織は初めての登校なわけで、そんな派手な登校をしたらどうなるかはお察しである。

(なら最初っから普通に行けば良いだろ!)

 と景は口に出して抗議するつもりだったが

「うふふふ。景くんと一緒に学び舎に行けるのが、なんだか嬉しくて。わたくし舞い上がってしまいましたわ。ご容赦を」

 嬉しそうな瀬織の顔を見て、言葉は喉につっかえて外に出てこなかった。

 二人は別々に校内に入って、景は教室に、瀬織は職員室に向かった。

 景に対するクラスメートの反応は概ね予想通りで、気を使ってくれたのか担任からの指導なのか、不登校の理由については特に詮索はされなかった。ぎこちなさは感じるものの普通に挨拶をして、以前と同様に受け入れてくれた。

 担任の教師もHRで「東は久々の登校だけど皆もあまり気にしないようにな」と一言触れるだけだった。

 休み時間には興味本位で「家で何してたのー?」と聞かれたが

「ゲームとかネットとか……」

 と当たり障りなく事実だけを答えて、それで終わりだった。

 そして、気が付けば下校時刻になっていた。

「はぁぁぁぁ……」

 疲労のこもった溜息を吐いて、景は下駄箱に上履きを押し込んだ。

「お疲れみたいね」

 淡白な少女の声。氷川朱音だった。

 これから部活でもあるのか、上履きは履いたままで鞄も持っていない。尤も、景は朱音がどこの部に入っているかすら知らないのだが。

 疎遠な間柄だったのに声をかけてくるなんて意外だったが、とりあえず平静を装って普通に対応する。

「久しぶりに人の集まる場所に来たから、ちょっと息苦しくって」

「そうなんだ」

 自分から声をかけてきた癖に、朱音はそれ以上話題を膨らませようとしない。

 なら、どうして話しかけてきたのか。

「ところで、何か用?」

 やや不機嫌に景が尋ねると、朱音は表情も変えず

「私、学級委員だから」

 と事務的に答えた。

 つまり、教師に様子を見てこいと言われたから声をかけた。それだけのことなのだ。

 話すにしても饒舌な瀬織と比べると話相手として朱音は面白みに欠けるし、やっぱり自分は距離を置かれているような気がして、景は会話を打ち切って靴を履いた。

「じゃ朱音ちゃん、さよなら」

「さようなら、東くん。また明日」

 朱音は事務的に挨拶を交わして、景が校門を出るのを眺めていた。

 スマホを取り出し、既読メールをもう一度チェックする。

 差し出し人は〈園衛様〉。内容は「戦闘機械傀儡の試作機、マガツチが徘徊している。景と瀬織に注意しろ」。

 朱音は素早くメールを閉じ、誰にも気づかれないようにスマホをしまった。

 そして景が瀬織と合流するのを遠目に確認すると、まだ部活で人の多い放課後の校内に消えていった。

 学校からの帰り道は、途中までは下校する中等部と高等部の生徒達でごった返すが、すぐに人は分散してまばらになる。

 この街の電車は私鉄が廃線になって40年以上も経過しているため、遠方からの生徒はスクールバスで送迎されている。

 景の家からは直線距離にして1km弱。バスを使うかは微妙な距離なので、以前から徒歩で登下校していた。

 見慣れた田舎の狭い道路だったが、瀬織が隣で歩いているのが新鮮な気分だった。

 景の隣で瀬織はクスクスと笑いながら、学校での出来事を話している。

「いつの世も女子の皆さんはお変わりないのですねぇ~と。ニコニコとお友達になりましょー的に話しかけてくるんですが、その実は上下関係を確認するための腹の探り合い。今風に言うとまうんと合戦という奴ですね~。やれ両親は何の仕事をしてるのだの、どこに住んでるだの、好きな芸能人は誰かだの、あぷりげぇむ? とかいうのやってるぅだのと、あなたたち尋問ゴッコでもしてるんですかぁ? という感じですわね~」

「お、おう……」

 にこやかに強烈な毒を吐く瀬織に、景の表情は引きつっていた。

 瀬織は横文字を話す時に妙なイントネーションになるので間抜けな物言いにも聞こえるが、言っている内容はドロドロとした腹の探り合いそのものだった。

「女子っていつもそんな面倒臭いこと考えて生きてんの……?」

「うーん、皆さん序列作りに夢中ですからね~。彼女たちが人間関係を生きる上で最も重要だと思ってる内は、自分達の滑稽さに気付くことは永遠にないと思いますわよ」

「瀬織だって女の子じゃんかよ」

「そんな価値観は他人事でございますゆえ。尤も、已む無く序列に組み込まれるとしても、わたくしがそこらの子女に負けるわけがないじゃないですか。うふふふ……」

 強い。あらゆる意味で強い。

 事実、瀬織には自信を裏付ける容姿、才覚、話術力、その全てが備わっている。女子内のマウント合戦で容易に最上位に立ったことは想像に難くない。

 そもそも、瀬織には普通の人間ではどう逆立ちしても勝てないような、そんな雰囲気がある。面と向かったら教師や他の大人でも逆らえない。いや政治家や一国の主ですらも屈服し、言いなりにされてしまう……そんな魔性すら感じるのだ。

 と、そこで景はあることに気が付いた。

「そういえばさ、瀬織って今までどこで、どんな暮らしをしてきたんだ?」

 マウントなど関係なしに、同居人に対してごく当たり前に抱く疑問だ。もっと相手のことを知って、理解と親交を深めたいと思うのは当然のことだろう。

 瀬織は「うーん……」と、上を向いて考えるような素振りをした。この程度のことを即決しないのは、なんだか不自然に思う。

 歩きながら少し間を空けて、瀬織は口を開いた。

「わたくしは遠い所で、ずーーーっと悪いことをしていました。わたくしが望んだことではありません。でも、拒みもしませんでした。いつの頃からか、悪いことをむしろ楽しいとさえ思い始めました」

「なにそれ……」

 思いがけず不穏な内容に景の顔色が変わった。

 触れてはならないデリケートな話題に踏み込んでしまったのかも知れない、後悔の色が浮かび始めた。中学生の景でも、それくらいの空気は読める。

 いつの間にか、景の家が見えてきた。

 瀬織は無言で景の手を引く。

 もう日が傾いてた。東の空は薄暗く、西の空は燃えるように赤い。

 話の続きは家でするつもりなのだろうか。景自身にも心の準備がある。瀬織はきっと、そういう配慮をしてくれている。

 そう思っていたのに、瀬織は景の手を引いたまま、家の前を素通りした。

「えっ、ちょっと、瀬織」

 景は足を止めようと踏ん張るが、瀬織は構わず歩いていく。何かがおかしい。

 瀬織の向かう先は、夕闇の山。緩い坂道をぐいぐいと登っていく。

「夜の山は……人の世界ではございません」

 瀬織が話を再開したが、口調がどこかおかしい。冷たく、全く感情のない声だった。

「その静寂と湿った空気が……わたくしはとても好きなんです。あそこに行けば、わたくしは元のわたくしに戻れるような気がするんです。景くんも……一緒に参りませんか」

「なに言ってるのさ……。ちょっと、怖いよ瀬織!」

「失った物を取り戻そうとすること。欠けてしまった自分を元に戻そうとすること。それは人の性(さが)でありましょう? あそこに行けば、景くんも無くした大切な何かに逢えるかも知れませんよ。故に、逢魔が刻というのでございます」

 景は足を止められない。瀬織の歩みを止められない。その場に停止しようとしても、瀬織は少女とは思えない力で景を山に連れていこうとしている。

 後から見える瀬織の横顔を見て、景は背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 逢魔が刻の薄闇の中に浮かぶ瀬織の顔は薄氷のように鋭く、冷たく、嗤っている。

「お前は……なんなんだよ……っ」

「わたくし……? なんなんでしょうねえ。お山に行けば、何もかも分かると思いますがぁ……」

 明確に恐怖を示す景だが、瀬織は止まってくれなかった。

 第三者の鋭い一声がなければ、景はそのまま山中に連れ去られていただろう。

「そこの貴方! なにやってるのッ!」

 瀬織の歩みが、漸く止まった。

 後方50メートル、景の家の前の辺りに氷川朱音がいた。

「朱音……ちゃん?」

 今日は学校に行ったのだからプリントを届ける必要はないし、帰る方向自体が違う朱音がどうしてここにいるのか。

 朱音は、景が見たことがないほどに険しい表情で更に叫ぶ。

「下がりなさいッ!」

「えっ?」

 呆然と立ち尽くす景、未だ正気を失ったままの瀬織。

 誰に対して発した叫びだったのか、判然とするよりも早く、車道両側の茂みが爆ぜた。

 土と雑草と彼岸花を散らして、地中から巨大な二つの物体が出現した。

 片方は、全長3メートルはあろうかという蜘蛛。だが表面の質感は節足動物のそれではない。木と骨で構成された、蜘蛛型の傀儡だった。

 しかも蜘蛛としては異様な部分がある。人間を模した人形の上半身が蜘蛛の頭部から生えていた。

 それも右腕を切り落とされ、袈裟切りにされたような傷跡で胸を半分以上斬り裂かれているという、異様すぎる意匠だった。

 もう片方は、全長2メートルほどの紫色のサソリだった。こちらも体表はキチン質ではない。金属と木で構成された、サソリ型の傀儡だ。

 全体の意匠はオーソドックスなサソリに近いが、頭部には緋色の勾玉が埋め込まれていた。

 景と瀬織を挟むような形で現れた、二体の傀儡。

 蜘蛛型傀儡の人形部分が瀬織を興味ありげに覗き込んだ。相変わらず瀬織に手を握られたままの景は、悲鳴すら上げられずに喉を引きつらせた。

「~~っっ!」

 片や、サソリ型傀儡は重低音の呻りを上げて、

 轟ォ、と蜘蛛型傀儡へと飛びかかった。

 骨と鉄がぶつかり合って、青白い鬼火花が飛び散った。

 どうやら二体は敵対関係にあるらしい。が、それ以外は全く持って理解できない。

 景が腰を抜かして倒れかけると、瀬織が景の体を持ち上げて跳躍した。

 最中、瀬織は右手を振って風を起こして蜘蛛傀儡に叩きつけたが、何の効果もないことに目を細めた。

「――やはり、呪いに呪いは効きませんか」

 瀬織は少女とは思えない脚力で、景と共に一気に5メートル後方の車道へと離脱した。

「瀬織! 元に戻ったの?」

「申し訳ございません。わたくし、些か気をやってしまったようです……」

 瀬織の顔には明らかに気後れがあった。

 景を怯えさせた行動は本意ではなかったということだ。

「詳しくは後でちゃんと説明いたします。この場は……わたくしに任せてお下がりを」

「説明って……。アレはなに!」

「アレは――」

「アレは、その女の体の一部よ」

 景を退避させながら話す瀬織に、朱音が割り込んできた。

 わけも分からず二人を交互に見る景を無視し、朱音は訳知り顔で瀬織に話しかけた。

「不始末ね、東瀬織。自分の手足も制御できないなんて」

「切り取られた尻尾のことなぞ知ったことではございませぬゆえ……。ていうか……あなた何様ですの。あなたごとき小娘に呼び捨てにされる謂れはありませんことよ」

「理事長から、あなたの監視も任されたの。あのサソリの傀儡……マガツチもね。本当に面倒事を増やしてくれるわね」

〈マガツチ〉と呼ばれたサソリ型傀儡は、力任せにハサミと尾を蜘蛛型傀儡に叩きつけていた。だがパワー負けしている。相手の体当たりに跳ね飛ばされ、電柱に衝突して薙ぎ倒した。

 間近で電線が火花を上げて断線する様子に景は「うわぁ!」と悲鳴を上げたが、瀬織は微塵も気に留めていない。

「あなたが使ってるんですの? あのマガツチというの。戦い方、まるで素人ですわね」

「アレは人間が使える空繰じゃない。勝手に動いてるの。正確には、あなたが目覚めてから初めて動き出した。これ、どういうことか分かる」

 朱音の発言を理解したのか、瀬織は唐突に笑い始めた。

「くふつ、ははっ、ははははははは! なるほど、あのマガツチも元はわたくしの眷族。ならばアレも呪いの塊。人に扱えないのは当然。でも――」

 瀬織は前髪をかき上げ、オー狂喜に身を震わせた。

「――当然、わたくしなら使えるということでございますねえええええええっ!」

 見たことのない瀬織の姿に、景はぶるっと身を震わせた。無意識に体が後ずさった。

 瀬織はもはや景にも朱音にも一瞥くれず、首の筋を伸ばし、手足の関節をガチっと鳴らして整えて、呼吸と共に舞の手を挙げた。

「いざ! 祇園の神楽! マガァ……ツチィ!」


 瀬織に呼ばれた〈マガツチ〉は目を赤く光らせ、素早く立ち上がった。闇雲に暴れていた先程までと反応が違う。

『上意 拝命』

〈マガツチ〉が、金属部を震動させて空洞を利用した発声法による、くぐもった音声で応えた。

 眷族たる〈マガツチ〉にとって、瀬織は自らのオリジンにして絶対の上位存在。己が全てを委ねるに相応しき主人である。

 故に、〈マガツチ〉は己が体躯を分解して差し出した。

 サソリを模した体躯がバキバキと音を立てて割れ、内部から駆動体である人工筋肉の繊維が糸のように、いやむしろ線虫のように蠢いて瀬織の体に絡みついた。

「ふふふ……あなたの全てを捧げなさい。我が愛しき眷族‥‥」

 禍々しい紫の瘴気が充満し、その中に取り込まれる瀬織は胎内回帰さながらの仕合わせに悦楽の笑みを浮かべた。

 景を後に下がらせながら、瀬織と〈マガツチ〉を見て朱音は眉をひそめた。

「なんなの、あの使い方は……」

 戦闘機械傀儡を分解して一体化するなど、完全に想定外の使用法であった。そもそも〈マガツチ〉にそんな機能は組み込まれていないはずだった。

 だが事情を深く知る者からすれば、さして不思議なことはない。瀬織が自らの眷族と連結し、機能を拡張するのは、つい70年前にも披露したことだ。理屈の上では、それと全く同じことをしている。

 瀬織は〈マガツチ〉の体躯に食われながら、それを甲冑として身にまとう。否、正確には部品のパッチワークに近い。大昔に作られた車のフレームに、後世に製造された社外品のアップデートパーツを取り付ける工程と考えるべきだろう。

 重なり、連なり、合一する体。すなわち、これ重連合体。

 やがて〈マガツチ〉だった昏い紫の甲冑は赤と黒の小袖と袴に覆われて、祇園の神楽の舞装束と相成った。

「あぁ……滾りますわぁ」

 全身に満ちる濃厚な瘴気に酔い痴れ、昂ぶり、瀬織は我が身を抱いた。

 敵対していた〈マガツチ〉と、自らが求める個体との合一を見て、蜘蛛型傀儡は困惑したように頭部を傾げた。

『アァ……? アタマァ……ワタシノ……アタマァ……?』

 そして僅かな逡巡の後、対象の破壊を決定して攻撃に移った。

 蜘蛛型傀儡の牙が開き、空裂音と共に何かが射出された。動物の骨を加工した毒針であった。

 瀬織は袖から取り出した鉄扇にて、その毒針を容易に弾いた。鉄扇は、本来武装運搬用として製作された〈マガツチ〉の体内に遺されていた装備である。

 更に毒針が連射されるも、その全てを鉄扇にて弾き、叩き落す。その度に青白いリンの火花が散った。

「フ……容易いですわねぇ。その程度の芸では、わたくしを食べるにはお代不足」

 総重量100kgを超える外骨格装甲は、人間以上の身体能力を持つ瀬織とて膂力のみで満足に扱えるものではない。だが〈マガツチ〉は現代のテクノロジーによってアップデートされた空繰、戦闘機械傀儡。内蔵された人工筋肉により軽快に駆動する。

 それに瀬織の人外の反応速度が合わされば、なまじの攻撃なぞ止まっているも同然。

 蜘蛛型傀儡は苛立つように奇声を上げた。

『ア――アァァァァァァァァァァ!』

 理性のない赤子の泣き声にも似た女の叫びだった。

 鳴き喚きながら蜘蛛型傀儡は瀬織へと突進した。

 中型トラックが突っ込んでくるも同然のそれを、瀬織は嘲笑いながら横へ跳んで回避した。

「ほほほほ……脆弱惰弱でございますねぇ。脳筋さんは本当に扱い易くて助かりますわあ」

 蜘蛛型傀儡は急制動をかけ、逃げる瀬織を追いかける。明らかに景たちから引き離すための動きに誘われ、耕作放棄された畑の跡の草むらに達した。

 瀬織は手甲で覆われた指と爪で唇をなぞり、気だるげに息を吐いた。

「ふぅ……飛んだり跳ねたりするのは、もうウンザリです。脳ミソのない下等傀儡ごとき、ここでサクッと始末してあげましょう~」

 そんな言葉なぞ理解する知能も持ち合わせていない蜘蛛型傀儡は胴体部を180°転回させ、瀬織に向けて糸を放った。

 高速で打ち出される糸は捕縛ではなく破壊用の武器だった。暴徒鎮圧用の放水が威力を持つように、それを更に引き搾って発射された糸は流体カッターも同然。直撃すれば、瀬織は装甲ごと切削される。

 当たれば――の話であるが。

「回れ、天(てん)鬼(き)輪(りん)」

 瀬織の背中に二分割されて折りたたまれていた〈マガツチ〉の尾が展開し、輪形に再結合した。

 背中から分離した輪は瀬織の右手に誘導されて浮遊。回転を始めるや、周囲の大気を歪めて流体カッターを大きく逸らした。

 逸れた流体カッターは指向性をぐちゃぐちゃに曲げられ、のたうつ糸となって地面を削った。

 天鬼輪――それは気象操作の力を局所的に収束させることで様々な事象を生み出す呪方具だった。

「重連合体方術‥‥山風」

 瀬織の言霊を受け、天鬼輪がゴトリと回った。

 直後、一帯の大気が激しく流動。空気が渦巻き、山から吹き下ろす風となって蜘蛛型傀儡を衝撃と共に空中に打ち上げた。

 重連合体方術其の壱〈山風〉。突風を起こし、対象を空中に吹き飛ばす。一見して地味な攻撃だが、これによって回避行動を取れない無防備状態となる。

 地上10メートルの高さまで飛ばされた蜘蛛型傀儡の更に上空には、季節に不釣り合いな黒雲が立ち込めていた。気圧変動を利用して発生させた小規模な雷雲であった。

 瀬織は右腕を掲げ、黒雲に向けた。

「重連合体方術‥‥雷電」

 再び、天鬼輪が動いた。

 黒雲が明滅し、稲妻が一閃。電光が空中の蜘蛛型傀儡を貫いた。

 重連合体方術其の弐〈雷電〉。天鬼輪により稲妻を誘導し、秒速200kmの運動エネルギーで対象を撃ち抜き、続いて発生する秒速10万kmの放電が葉脈状に対象の物理構造を破壊するのだ。

 空中に浮かされた蜘蛛型傀儡は地面への放電も行えず、十全の雷撃をまともに受け、電光に遅れて響く雷音と共に、文字通り微塵に粉砕された。

 炭化した残骸がボトボトと地表に降り注ぐ。中でも一際原型を留めていた人形部分の頭部が、焼け焦げた状態で瀬織の間近に落下した。

『ァ、ァァァ、ァ、アーーー……』

「目障りですわね。消えなさい」

 意味のない声を発する残骸を、瀬織は冷めた目で見下ろした。

 残骸の人形が、悲しげに呻く。

『モ、ド、リ、タ……ィィィィィ……』

「お断りですわ」

 一片の情けもなく、瀬織は人形の頭部を踏み潰した。

 荒事が終わった。

〈マガツチ〉は瀬織との合一を解除して元のサソリ型傀儡に戻った。そして主の邪魔にならぬよう、再び土中へと消えていった。

 既に暗雲は霧散し、黄昏の空は夜に変わりつつある。

「藍色の‥‥禍時の空。今でも‥‥嫌いではないのですよ」

 遮蔽物のない草むらには山からの風が下りてくる。その風が瀬織の髪を名残推しそうに揺らす。

 山に背を向け帰路に着く瀬織の足元には、彼岸の花が咲いていた。

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