クリムとルージュ
恐怖という感情
――最初に、命令だけがあった。
己が存在が消えるまで、目についたプレイヤーを始末するのが『私』の使命。実に単純明快で、そこに疑問が生じる余地はない。
また、『私』の体に与えられた性能は非常に高水準なもので、思考ルーチンも非常に優秀なものを参照して搭載されているらしい。
つまり、高性能だという事だ。僚機の二体共々、プレイヤーを圧倒できるほどに。
だから、淡々と対象を斬る。命令通り、なるべくプレイヤーの『恐怖』を喚起するように。
この『私』には、それを可能とするための、どのような行動で対象が恐怖を感じるかという情報や感情のサンプルデータも与えられていた。
『……?』
討伐対象の行動パターンが変化したのを、過去の戦闘記録から参照し確認した。
これまで『私』を確認した際に戦線離脱していたプレイヤーたちが、集団を形成し、連携行動を取り、積極的にこちらを攻撃対象とし始めた。
『……??』
これは、本当に攻撃行動なのだろうか。
対象たちは、武器の射程圏内に入っても、攻撃ではなくこちらを捕縛しようと動いている。
問題ない。ならば、ただ与えられた命令通りに捕縛されぬよう注意しながら斬るだけだ。
『……???』
不可解だ。
攻撃対象であるプレイヤーたちは、斬られても止まる様子を見せない。
やがて、回避さえもかなぐり捨てて、斬られようが戦闘不能になろうが、ただ一直線にこちらを捕縛しようとしてくる。
そこに、彼らのその表情に、恐怖はない。
ただ、何かにギラギラと浮かされたように『私』を見据えていた。
――理解不能。
僚機と情報共有を行う。
向こうも同様の疑問を持っていた事は確認したが、問題解決には至らなかった。
――理解不能。
やがて現れたそれは、ほんのわずかなプログラムの乱れ。
対象を攻撃した際に、さざ波のように現れたプログラム。それは、すぐに自己保全のための修復プログラムによって消去され、何事もなかったように消え去った。
――理解不能。
プレイヤーを一人斬るたびに、またノイズが増える。
ほんの些細なそのノイズはやがて蓄積し、徐々に身体制御系を侵していった。その度に修復プログラムを走らせていたが、その間隔はどんどん短くなっていく。
――理解不能。
いつからだろう。討伐対象だったはずのプレイヤーの姿を見るたびに、ノイズが爆発的に増加するようになったのは。
照準系が狂いだす。
戦術プログラムが原因不明のシャットダウンと再起動を繰り返す。
――理解……した。
――これは、『恐怖』という感情だった。
与えられたサンプルデータを参照し、理解してしまった。
こんなバグデータの集合体が感情ならば、理解したくはなかった。
そしてそう意識してしまうと、防壁を張る余地すらないほど迅速に、『私』の思考プログラム全てがバグに侵食されてしまった。
戦闘用のルーチンはバグに侵食されて致命的に破綻し、誰かを前にすると手が震え、足が震え、戦況不利でもないのに勝手に戦線離脱ルーチンが起動する。
それさえもやがてバグが侵食し始め、今ではもはや戦闘モードにさえ移行しなくなる。
スムーズに動いていたはずの戦線離脱ルーチンでさえ反応が鈍くなってきて、今ではただ音が聞こえてこない物陰を見つけては、そこで小さくなって身を隠すことしかできない。
――そうだ、だったら遠くまで移動すれば。そうしたら、このバグも治るかもしれない。
そんな希望的観測にすがり、ただひたすら一方へと駆け出す。同行している二機がそれに気付いて追ってきているが、それさえも振り切って。
――そうだ、なぜもっと早くこうしなかったのか。
バグが軽減し、体が軽くなったたような気がする。そうだ、このまま遠くまでいけば、このバグもきっと治――
【管理区域を離脱しようとしています。これ以上先への移動を制限します】
ピタリと、足が止まった。
何度試しても、この先へ進めない。
――どうして?
決まっている、『私』が、この場所に紐付けられたデータでしかないからだ。
だけどそんな無慈悲な自己回答は、ただ自分のプログラムを破損しただけでしかなかった。
――どうしてどうしてどうしてドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテ!
【致命■なバグを■知。こ■より自■■復プ■■■ムを――■ラー。再度■■修復を――自■■■を ――■己■■■――】
崩れていく。
『私』が、崩れていく。
――そんな時だった。『彼女』が現れたのは。
『あらぁ? なんだか面白い事になっている子がいるわね?』
そんな女の子の声に――『私』は、バグ塗れの思考のまま、それでも『彼女』に関わってはいけないという恐怖心から、這いずるようにして逃げ出すのだった――……
◇
「……あ」
「……ん? どうした、ダアト?」
不意に、同行者の少女が、何かに気付いたように視線をある方向へと向けた。
「ねえスザク、私こっちに行きたい」
「……また急な奴だな。さっきは拠点から移動したくないってダダ捏ねてたくせに」
突然イベントダンジョンに行きたいと言い出したくせに、歩くのが面倒だと探索拠点そばの海辺で水遊びを楽しんでいた水着姿の少女が……また突然に、スザクの腕を執拗に引っ張ってある一点を指差す。
「今は行きたくなったの!」
「はいはい、分かりましたよこのわがままお姫様め」
どうせ、このような感じに言い出した時はこちらの話を聞かないのだ。
ならば抵抗するだけ疲れるだけだと――彼、『竜血の勇者』スザクは、欠伸しながら眺めていた電子書籍データをオブジェクト化した文庫本と、無意に糸を垂らしていた釣竿をしまい、これまで引きこもっていた拠点を後にしたのだった――……
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