【三一四《急転直下》】:一
【急転直下】
目の前で、コップに入ったビールをグッと飲んだ萌夏さんは、小さく息を吐いてから俺に両手を合わせた。
「ごめん! こっちの道全然分からなくて……」
「いや、別に良いよ。それより、急に帰ってくるなんてびっくりするだろ。前もって言ってくれれば良かったのに」
「急にバカンスが取れるようになって。それで、出来るだけ日本に居たいからすぐに飛行機のチケット買って飛び乗ったの」
「だったら、地元の空港に――」
「だって、凡人くんに会いたかったんだもん」
明るい笑顔でそう言う萌夏さんから、俺は萌夏さんの前にある料理に視線を向ける。
「何も食べてないんだろ? とりあえず食べて」
「ありがとう。もうお腹ペコペコで死にそうだったの。いただきます!」
ニコニコ笑って料理を食べている萌夏さんを見て小さく笑うと、萌夏さんが俺を見てクスッと笑った。
「やっぱりすぐ来て良かった。まさか、凡人くんが泊まり込みなしの日に帰れるなんて」
「明日も昼出社の予定だから、少し遅くなっても大丈夫だ」
「良かった。少しでも顔を見られたら良いなとは思ってたけど、長く会えるのはめちゃくちゃ嬉しい」
「本当に急に休みが取れたんだな」
「うん。バカンスの予定を変えてほしいって他のパティシエールに頼まれて。私は別にバカンスはいつでも良いからオーケーしたの」
「どのくらい日本に居るんだ?」
「五週間」
「へぇ、五週間も……――ッ!? 五週間!?」
あまりにも自然に言われてスッと飲み込み掛けたが、五週間という長さは流石にスッと入ってこなかった。
「長くない?」
「勤続年数が長くなると有給もあるし、日頃使えない分ババっと使おうかなって思って」
「有給か。俺にも使える日は来るのかなぁ~」
「日本人は世界的に見ても働き者って言うか働き過ぎだからね。毎日泊まり込みはキツいでしょ?」
「もう体は慣れたよ。でも、今週は凛恋のところに行けないから精神的に参った」
「仕事終わらなそうなの?」
「いや、凛恋の方に用事があって会えないって」
「そうなんだ。でも、良い機会だからゆっくりすれば良いんじゃない?」
「ああ。だから、仕事の消化ペースを落とそうと思って。無理に週末を空ける必要がなくなったし」
既に夕飯を終えている俺は、何も食べず麦茶を一口飲む。
「泊まる場所は決めてるのか?」
「飛行機の中でホテルはとったよ。流石にそこまで無計画じゃないって」
「それなら良かった。何日かこっちに居るのか?」
「うん。希と理緒にも会いたいし。凡人くんは最近二人と会ってる?」
「希さんとは全然会える機会がないけど、理緒さんには今日会ったぞ。誘われて一緒に夕飯を食べた」
「理緒とご飯行ったんだ。理緒に会ったら詳しく聞こ~」
何やらクスクス笑って含みを持たせた萌夏さんは、ちょっと唇を尖らせる。
「じゃあ、今日は一緒に飲めないんだ……」
「少し付き合うよ」
拗ねた様子の萌夏さんに笑いながら答えると、パッと明るい笑顔を浮かべてメニューを手に取る。
「ビールで良い?」
「ありがとう」
俺の分のビールを萌夏さんが追加注文してくれて、俺は運ばれて来たジョッキを軽く持ち上げる。
「じゃあ、改めて乾杯」
「乾杯~! やっぱり親友と一緒に飲むビールが一番美味しい!」
すっかり気分良く酔った萌夏さんは、ニコニコ笑って首を傾げる。
「やっぱり格好良い」
「え?」
「やっぱり凡人くんは格好良いなって。出会った時はここまで格好良いと思ってなかったんだけどな~」
じっと見られてしみじみと言われるが、俺の方は言われても反応に困る。
「そりゃ、俺と萌夏さんが会った時は――」
出会った当時、萌夏さんに彼氏が居たことを言おうとした。でも、その彼氏のことを思い出して言葉を止めた。
萌夏さんの当時付き合っていた彼氏は、高二の歩こう会前に別の女子から告白されて、一方的に萌夏さんと別れた。その酷い元彼の行いに萌夏さんはもの凄く傷付いていた。だから、その嫌な出来事を思い出させるようなことは言いたくなかった。
「別に良いのに。もう高二の頃の話だし、凡人くんのこと好きになってから思い出したことないから。凡人くんのことは最初のカラオケの時からちゃんと良い人だとは思ってたよ。すっごい気が利く良い人だし、凛恋はめちゃくちゃ良い彼氏を見付けたなって」
「めちゃくちゃ良い彼女を見付けたのは俺の方だよ。俺は凛恋に人生を変えてもらったんだ」
少し思い出話をして懐かしさを感じる。その懐かしさを萌夏さんも感じたのか気恥ずかしそうにはにかむ。
「私は凡人くんに人生を変えてもらったよ。今の私があるのは凡人くんが居たから」
「今の萌夏さんは、萌夏さん自身の努力の賜物だろ」
「好きな人に美味しいケーキを作って食べてもらいたいって頑張った成果かな?」
萌夏さんは首を傾げて微笑み、手で口を隠しながらクスッと笑う。
「最近、うちの店に私の作ったケーキが食べたいって言って来てくれる人が増えたの」
「コンテストにも結構出て入賞も多いし、パティシエールとして名前が売れたのかもな」
「素直に嬉しいんだ。私の作ったケーキだから食べたいって言われるの。なんか、私にしか出来ないことが出来てる気がする」
「気がするんじゃなくて出来てる。萌夏さんの作るケーキは最高に美味しいからな。萌夏さんのケーキを求めて足を運ぶ価値はあるよ」
「ありがと。やっぱり凡人くんに褒められると嬉しいしやる気が出る」
「いつかまた、萌夏さんのケーキを食べに行きたいな」
「凡人くんが食べたいなら全然作るよ?」
「バカンスの時くらいゆっくりしてくれ」
萌夏さんのことだから、仕事で作るのと同じくらい労力を使って作ってくれるに決まってる。そんなことをせっかくの休みにさせる訳にはいかない。日頃忙しい毎日を過ごしているのだから、休みは休みらしく休むべきだ。
「もしかしたら、クロンヌ・ガトーの日本店が出来るかもしれないけどね。そんな話があるって聞いたから」
「でも、萌夏さんはフランスから店が離さないんじゃないか? いくつものコンテストで入賞してるパティシエールは宣伝になるだろ」
「それを言うなら、新店舗には名のあるパティシエールを置くべきだと思うけど。マルセイユ店の立ち上げの時にレティシアさんが呼ばれたのはそれだし」
「そっか。なら萌夏さんも日本店が出来たら日本に帰って来られるかもな」
もし萌夏さんが帰って来られるとしたら、今よりも会える機会は格段に増える。それでも、お互いに仕事があるから頻繁にとはいかないだろうが。
「凛恋は元気そう?」
「ああ。まだ通院は必要だけど体の方は問題ないみたいだ。今週は俺と会う時間がないくらい元気だよ」
「あっ、凡人くんが愚痴った」
俺を見て萌夏さんがからかうように笑う。でもすぐに、温かいホッとしたような表情をした。
「凛恋とは病院で会った時以来あんまり連絡取ってなくて……。やっぱり、全然知らない人から連絡が来ても困ると思うし」
「気にしなくても良いんじゃないか? 萌夏さんと凛恋ならきっとまた仲良くなれる」
「うん。私は仲良くなりたいって思ってる。でも、それには凛恋と接する時間がまだ少な過ぎる。それにね、まだ結構辛いんだ……凛恋が私を全然知らない人を見るような目で見て、私と話す時に凄く無理して気を遣われるのが」
「凛恋も自分の状況に戸惑ってるんだ。まあ、そんなこと萌夏さんが分からない訳ないけど」
「うん。分かってる。分かってるんだ。でも、笑ってバカみたいな話をしてた思い出があるから……。もう、あんな風に笑い合えないのかって――」
「凛恋は凛恋だよ。記憶を失っても凛恋の本質は変わってない。だから、萌夏さんだったら絶対に笑ってバカみたいな話が出来る仲になれる。萌夏さんが優しくて良い人だってのは、記憶を失ったからって分からないことじゃない。話をしてれば凛恋は絶対に萌夏さんと仲良くなる」
「そっか……そうだよね。ありがとう、凡人くん」
少し恥ずかしそうに笑った萌夏さんは、頬を赤くしてそれをジョッキで隠すようにビールを飲んだ。
「バカンス中、凛恋に会ってくる。本当は凡人くんも一緒だと助かるんだけど、凡人くんは仕事だし里奈に声掛けてみる」
「俺も凛恋に会いたい……」
「ごめんごめん。凛恋に、凡人くんが可愛い子犬みたいな顔してたよって話しとくね」
俺をからかってから、萌夏さんは美味しそうに料理を食べ始める。
萌夏さんの住むフランスにはバカンスという長期間の休みを取る習慣がある。多分、全ての人が等しく取れる訳ではないとは思う。でも、実際に五週間も休みを取っている萌夏さんを見ると羨ましくなる。
学生時代なら夏休みがあった。でも、今は五週間も連続で休めることはない。
今もし俺が五週間も休めたら、速攻で地元に帰ってずっと凛恋と居る。ずっと一緒に居て、凛恋と一緒に楽しいことを時間の許す限りやり尽くしたい。
月ノ輪出版には大型連休は存在するが、それでも五週間なんて長い休みにはならない。
凛恋とは今まで沢山の時間を過ごして来た。でも、今みたいになかなか会えない状況になると、途端にもっと一緒に過ごしていれば……と考えてしまう。
大学時代にもこんなことがあった。凛恋がアルバイトを始めて、凛恋となかなか会えなくなった。
あの時は俺にも余裕がなくて、会う時間を作ってくれない凛恋に当たってしまった。
俺達はその時に気付いたんだ。俺達は離れるべきじゃないと。ずっと一緒に居るべきなんだとお互いに確信し合った。それでも、俺達は今離れてしまった。
きっと今の状況だって良くない。でも、今は凛恋の体を治す方が先決で、俺の寂しさなんてどうだっていいんだ。
どうだっていい。どうだっていいのに……どうしても寂しさが心の中に棲み着いて離れない。
地元に帰る必要がなくなった土曜。俺は編集部の自分の席で一息吐く。
流石に明日も出勤することを考えると、今日泊まり込みをする必要はない。ただもう少し残ってやれば明日以降は楽になる。でも、明日も出てくることにはなるから、今日無理する必要がある訳でもない。
「凡人さん」
この後どうするかを考えていると、俺の隣にスツールを持って来て百合亞さんが座った。
「お仕事終わりですか?」
「ああ。どうしようかなって、このまま残ろうかどうか迷ってて」
「えー。凡人さん、ずっと働きっぱなしじゃないですか。少しは楽した方が良いですよ~」
「まあ、無理してやる必要もないんだけどね」
俺が笑いながら話をしていると、百合亞さんが俺の机の上を片付け始める。
「私、つい最近二〇歳になったんですよ~。だから、お酒が飲めるようになったんです」
「そうなんだ。大学の友達と飲み会した?」
「まだしてないんですよ。それで、凡人さんに飲みに連れて行ってほしいな~って」
横から顔を覗き込まれてそう言われるが、百合亞さんと二人で飲みに行くのは躊躇ってしまう。
「ごめん。彼女が居るから二人では無理かな」
ストレートに断れば諦めるだろう。そう思って言ったが、視線の先に見える百合亞さんの顔は一切変わらずニコニコと笑っていた。
「二人っきりじゃなければ良いんですよね? 帆仮さん、帰りに凡人さんと三人で飲みに行きませんか?」
俺から視線を外した百合亞さんが、俺の席に座る木ノ実さんを誘う。
「良いね~。久しぶりに私も凡人くんと飲みたいな~」
基本的に飲みに行くのが好きな木ノ実さんはかなり乗り気だ。
今、木ノ実さんも仕事には平常時よりも余裕はある。だから、今日はこれで切り上げて飲みに行こうと考えても不思議じゃない。
「じゃあ、三人で――」
「木ノ実さん、その飲み会、私達も行って良いですか?」
斜め前の席から腰を浮かせた絵里香さんが木ノ実さんにそう声を掛けた。その絵里香さんの横では、美優さんが絵里香さんを見ていた。その美優さんが俺に目を向けてすぐに俯いて視線を逸らした。
「最近、若手で飲み会出来てないじゃないですか。凡人くんの入社祝いの部署のみだけで」
「確かに凡人くんがアルバイトの時はそれなりに若手で飲んでたけど、最近はそういう機会もなくなっちゃったしね。巽さんが良ければみんなで飲まない?」
木ノ実さんはそう百合亞さんに声を掛けるが、百合亞さんと絵里香さんは以前揉めている。その揉め事が解決したとは聞いていない。それに日頃の職場での雰囲気を見て、百合亞さんも絵里香さんもお互いにお互いと必要以上に接しないようにしているのが分かる。そんな状況で百合亞さんが絵里香さんが一緒を受け入れるとは――。
「良いですよ。みんなで飲んだ方が楽しいですもんね」
ニコッと明るく笑った百合亞さんは、俺の予想とは違い、絵里香さん達が一緒に行くことを承諾した。
「凡人さん、皆さんと一緒なら連れて行ってくれますよね?」
「まあ、後輩の誕生日をみんなで祝うってことなら良いか」
二人はダメと言った手前、みんなで行くことになったら断るのもおかしい。
「分かった。じゃあ、片付け終わったらみんなで飲みに行こうか。店は俺が決めて良い?」
「はい。凡人さんに連れて行ってほしかったんで嬉しいですっ! 片付け、私がやっちゃいますね!」
「俺の机はいいから、中央のテーブルを片付けてくれる?」
「はい!」
見るからにテンションを上げた百合亞さんが中央のテーブルに駆けていくのを見送って、片付けをする百合亞さんの後ろ姿を見る。
俺への好意を抜きに考えれば、百合亞さんは仕事を一生懸命やるし、凡人さんと言って俺を頼ってくれるのは後輩として可愛い。
百合亞さんは積極的過ぎるが、百合亞さん自身は良い子だと思う。だから、百合亞さんは彼女の居る俺に拘るではない。
世の中にはいくらでも男は居る。そんなことは言ってはいけない。
もしかしたら俺に凛恋しか居ないと思うように、今の百合亞さんもそう思ってくれているのかもしれない。もしそうだとしたら、本当に申し訳ないと思う。
俺は机の片付けをしてから、みんなの片付けが終わる前に店の予約をするために席を立った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます