【二八二《紡ぐ想いは変わらず》】:一

【紡ぐ想いは変わらず】


 巽さんにキスされた次の日、巽さんは何事もなかったようにインターンに来た。

 俺は普通にしようとした。でも、流石に好きだと言われてキスをされて、それまでと同じただの後輩として見ろというのは無理だ。ただ、意識としては無理でも、行動では普通に出来ていた。

 普通に挨拶して、普通に仕事をして、助けを求められたら普通に助ける。その流れだけはいつも通りだった。ただ、いつも通り、今まで通りなのは俺だけだった。


「すみません、凡人さん。資料室に用事があるんですけど、この資料ってどの辺にあるんですか?」


 自分の席で仕事をしていたら、巽さんが俺の隣に立って声を掛けてくる。その声を掛けてくる用事は今までとは変わらない。でも、巽さんの立つ位置は今までよりも近く感じる。それに、俺への呼び方が変わった。


「これは、資料室の奥から数えて二番目の棚の――」

「ちょっと分かり辛そうなので、一緒に行ってもらえませんか? それに、あそこ時々蜘蛛とか出てくるし怖くって」

「分かった」


 巽さんに言われて立ち上がると、前の席に座っている田畠さんが立ち上がる。すると、田畠さんは俺ではなく巽さんに視線を向けた。


「巽さん、私が教えるから来て」

「えっ、良いですよ。凡人さんに来てもらいますから」

「多野くんは見ての通り忙しいの」

「でも、この前凡人さんに迷惑ですかって聞いたら、気にせずどんどん聞いて良いよって言ってくれましたよ? ね? 凡人さん」

「うん」


 巽さんの言う通り、確かに俺はそう言った。だから、事実を確認されたんだから頷いて肯定するしかない。


「凡人さん、よろしくお願いします」


 歩き出した巽さんの後ろを歩き出して田畠さんの横をすれ違う時、田畠さんと目が合った。でも、すぐに田畠さんは視線を逸らして自分の席に座る。


「取ってきて欲しいって頼まれた資料は?」

「リストはこれなんですけど」


 必要書類のリストを受け取って、俺は棚の前に立つ。巽さんの受け取ったリストを見て、俺は眉をひそめた。

 うちの編集部では、大抵の資料はデータ化されている。ただ、それは資料のデータ化が始まって以降に作られた資料と、データ化以前に作られた資料でも使用頻度の高い資料のみ。その他の資料は、ファイルで分けられて紙の資料として資料室に保管されている。ただ、それでもデータ化されていない資料でも、資料室に置かれた棚に割り振られた番号とファイル自体に割り振られた番号はデータベースから確認出来る。だから、完全にデータ化されていない過去資料を探す時でも、資料を探す手間はほとんどない。でも、巽さんから受け取ったリストには、棚番号とファイルの番号が書かれておらず、ファイルのタイトルしか書かれていなかった。


 俺はこの編集部に入って一年以上頻繁に資料探しをしてきた。だから、もう何となくファイルのタイトルからジャンルを想像して、どの辺りの棚にあるか予測出来る。でも、巽さんはそこまで資料探しを頻繁にやってきたわけじゃない。

 編集さんの中では、棚番号やファイルの番号を書くのを省く人も居る。正直、俺はちょっとその編集さんはどうかと思う。せっかく探しやすいように作られたシステムをあえて使わないというのは意味が分からない。でも、それをあえて言うのは角が立つし、探すのに時間が掛かって効率は悪くなるが、それ以上にトラブルを避ける方が重要だ。


 気になるのは、リストを作った人が平池さんだったことだ。平池さんは新人の頃から、俺と一緒に資料探しをする時に、リストに棚番号やファイル番号を書いていない人に対して愚痴を言っていた。それで、自分が資料探しを依頼する時は、絶対に棚番号やファイル番号を忘れないようにしていた。でも、俺が持っているリストに棚番号もファイル番号もない。


 もし、これが必要資料が一つか二つ記載漏れがあったとかなら、ミスで抜けていたとも考えられる。でも、全資料の棚番号とファイル番号を書き漏らすなんてあり得ない。そもそも、資料リストのテンプレートには棚番号とファイル番号を記載する枠が存在する。その枠があるのに、あえて書いていない。


「凡人さん?」

「ごめん。ちょっと資料探しは中断。これ後回しにして、他の仕事してて」

「一緒に探してくれないんですか?」

「その前に、ちょっと平池さんに話をしてくる」


 資料室を出て一旦巽さんと別れて、俺は真っ直ぐ平池さんの席に行く。


「平池さん、ちょっと良いですか?」

「何? …………ちょっと向こうで話そうか」


 俺の方を向いて首を傾げた平池さんは、俺が手に持っているリストを見てから一瞬視線を逸らした。その方向には巽さんが立っていて、その巽さんを確認してから椅子から立ち上がる。

 俺と平池さんは編集部を出て、通路の中程まで行ってから立ち止まる。そして、俺は平池さんにリストを差し出した。


「平池さんらしくないですよ。こんないやがらせ」

「…………」

「この前、巽さんと揉めてたことが原因ですか?」

「多野くんには関係ないって言ったでしょ?」

「巽さんから聞きました。俺にあまり仕事で聞くなって言ったんですよね?」

「あいつ、そんなことまで言ったんだ」


 壁に背中を付けて両腕を組んだ平池さんは、心底ムカついたように顔をしかめる。その顔を俺は真っ直ぐ見返しながら小さく息を吐いた。


「俺は別に、巽さんから仕事について質問されたり助けを求められたりすることを、迷惑だとも思ってませんし負担とも思ってません。やってることは平池さんや田畠さんが新人の頃にやってたことと変わりませんし、俺も帆仮さんに同じことをしてもらってます」

「でも、あいつのやってることは仕事が目的じゃない。仕事にかこつけて多野くんと話したいだけよ。あいつ、絶対に多野くんのこと狙ってる」

「たとえそうだとしても、仕事に私情を挟んではダメです。……正直、見損ないました。俺、平池さんがこんなことする人だと思ってませんでしたから」


「…………大人げないことしたって思ってる」

「じゃあ、巽さんに謝って――」

「それだけは無理。多野くんに迷惑を掛けたことは謝る。それに、もう二度とこんなガキっぽいことはしない。約束する」

「…………平池さん、どうしてそんなに巽さんを目の敵にするんですか」


 自分のやったことが悪いとは思っていると思う。でも、平池さんの表情からは、巽さんに対する嫌悪感が消えてはいないように見えた。


「それこそ、多野くんには関係ない話よ。仕事に私情を挟んじゃダメなんでしょ。だから、これ以上仕事中に私情を話すのは良くないから。迷惑掛けてごめん。私、仕事に戻るから」

「あっ……なんなんだよ、いったい」


 編集部に戻っていった平池さんの姿が見えなくなって、俺は右手に持ったリストを下ろしてため息を吐く。

 平池さんの後から編集部へ戻って、俺は再び資料室に入って平池さんの作ったリストに書かれている資料を探す。すると、後ろから軽い衝撃を感じて、俺の胴に細い二本の腕が回る。


「なんで一人で探しちゃうんですか?」

「巽さん、別の仕事してたから代わりにやっておこうと思って」

「それじゃあ、私が凡人さんに仕事を押し付けたみたいじゃないですか。それに……せっかく二人っきりになれるチャンスだったのに」

「巽さん。俺には彼女が居る。だから、この前も言ったけど、俺は巽さんの気持ちには応えられない」

「良いですよ? だったら、会える時間にいっぱいアピールしますから」


 俺の胴から手を外した巽さんは、隣に並んでニコッと笑って俺の顔を見る。そして、唇に人さし指を当ててニヤッと笑った。


「キャラメル味のキス」


 その言葉を聞いて、巽さんからされたキスの感触が唇と舌に蘇る。すると、巽さんはクスクス笑った。


「凡人さん、可愛い。顔真っ赤。でも……意識してもらえるようになって良かった」

「あの時のことはなかったことにして」

「え~、嫌です。私が悪いからショックだとか傷付くとか不満は言えないですけど、私にとっては好きな人とのキスだったんです。私、キス経験ってそんなに多くないんですけど、一番ドキドキして気持ち良かったです」

「そういう話はしなくて良いから」

「そういう話をしないと、凡人さんは私のこと考えてくれないでしょ?」


 巽さんは両手にスマートフォンを持って首を傾げる。


「私に連絡先教えてくれる気になりました?」

「ごめん。俺には彼女が居るから」

「ですよね。まだ私のアピールが弱いって分かってますから。でも、絶対に連絡先教えてもらって、デートしてもらって、それで私のこと好きになってもらいますから」

「はい。リストに載ってた資料。それと、俺は彼女以外の人は好きにならないから」


 リストと一緒にファイルを手渡すと、それを受け取った巽さんはまた唇に指先を触れて笑った。


「そう言われると、余計燃えちゃいます。私、負けず嫌いなんで」




 いつも通りの残業が終わって、俺は凛恋の待っている家に帰ろうと片付けを済ませて椅子から立ち上がる。すると、その俺の目の前に家基さんが立ち塞がった。


「多野。今から飲み会ね」

「飲み会ですか? でも、彼女が家で夕飯作って待ってるんですけど」

「彼女には一本電話入れといて。二次会三次会まである飲み会じゃないから。一時間くらい多野と話をしたいだけよ」


 一時間って結構長いなとは思うが、俺に話をする家基さんの顔は全く笑ってない。ということは、笑って話せる話ではないようだ。それか、お酒でも飲まないと話せない話か。


「分かりました。ちょっと電話します」


 一旦家基さんから離れてスマートフォンを取り出して凛恋に電話を掛けると、電話がすぐに繋がって凛恋が出る。


『凡人、今日遅くなりそうなの?』

「それが、仕事は終わったんだけど家基さんがちょっと話があるから飲みに付き合えって。なんか、雰囲気的に真面目な話っぽくて。時間は一時間くらいって言ってた」

『えぇ~……凡人とのせっかくのラブラブ時間が……』

「ごめん」

『……ううん、凡人は悪くないよ。それに、ちゃんと凡人の声からごめんって気持ちが伝わるから』

「ありがとう、凛恋。出来るだけ早く帰るから」


 凛恋と電話を終えて家基さんのところに戻ろうとすると、目の前に平池さんと田畠さんが立っていた。


「多野くん、仕事中に迷惑掛けてごめん。お詫びにご飯をおごらせてほしいんだけど――」

「悪いわね、平池。多野は私と用があるのよ」


 家基さんが平池さんの肩に手を置いて言うと、家基さんが俺に視線を向ける。


「多野、さっさと行くわよ。帰りが遅くなって、彼女のことを待たせたくないでしょ?」

「はい」


 家基さんと編集部を出て、俺は黙って歩く家基さんに連れて行かれるまま個室居酒屋に入った。そして、飲み物と軽いつまみが出揃った時、家基さんがグッとビールを飲んでため息を吐いた。


「はぁ~いつかこんな問題が起きるんじゃないかって思ってたけど、いざ起きると困ったものね」

「問題っていうのは、平池さんと巽さんのトラブルですか?」

「まあね。古跡さんの話だと、多野は大体の話くらいは聞いてるんだって?」

「平池さんが巽さんに俺へあまり仕事に対して質問するなって言ってたと聞きました」

「それは、巽さんから聞いたの?」

「はい」


「まあ、私も平池から同じことを昨日の昼に聞いたわ。でも、平池だって新人の頃は多野に色々聞いてた。まあ、巽さんほど多野にべったりではなかったけど」

「俺は巽さんから仕事について質問をされたり助けを求められたりするのは全く負担に思いません。それは、先輩としての仕事の内だと思ってるので」

「真面目な多野らしい答えね。それにこの考え方は何も間違ってない。ただ、多野がややこしい問題に巻き込まれたのは確か」

「ややこしい問題、ですか?」


 そう聞き返すと、家基さんは深いため息を吐いた。


「はぁ~……女の世界って言うのは、男の多野が見えてるものより遥かに恐ろしい世界よ。人畜無害そうに笑ってるやつが裏で特定の誰かへの陰口や嫌がらせをしてるなんて日常茶飯事。特に、男が絡むともっと怖く汚くなる」

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