【二七三《あともう少し、あとほんの一瞬、踏み止まれれば》】:一

【あともう少し、あとほんの一瞬、踏み止まれれば】


 先週、凛恋はアルバイトで泊まれなかった。だから今日、凛恋はその埋め合わせにデートをすると言ってくれた。

 待ち合わせ場所はよく使う駅前広場で、俺は凛恋がくる駅の改札の方を向いて待つ。


「凡人! お待たせ! ごめんね、遅れちゃって」

「五分くらいどうってことないって」


 息を切らした凛恋を見て、俺は横へ首を振って凛恋の手を握る。その凛恋の手を握った瞬間、俺は違和感を抱いた。


「凛恋」

「どうしたの?」

「今日は家デートにしよう」

「えっ? でも今日は私の奢りで水族館に」

「俺が家でゆっくりしたいんだ」


 凛恋の手を引いて、俺は駅前に停まっていたタクシーに乗って俺のアパートに向かう。


「凡人……」


 タクシーに乗る間、凛恋は俯いて涙目になっている。

 タクシーが俺のアパート前に着き、運賃を払ってから凛恋と一緒に部屋へ入る。そして、凛恋に寝巻き用のハーフパンツとTシャツを差し出す。


「凛恋、それに着替えてベッドでゆっくりしてろ」

「凡人……ごめん」

「女の子の日なら仕方ないだろ」


 凛恋の手を触った瞬間、凛恋の手がむくんでいるのが分かった。

 俺はこれでも、凛恋と付き合って七年目だ。その間に俺は凛恋に女の子の日――生理が来るのを何度も見てる。だから、むくんだ凛恋の手の感触と辛そうで顔色の悪い凛恋を見れば、今が女の子の日なのが分かった。


「ナプキンとか買ってくる。凛恋はゆっくり休んでろ」

「ごめんね……本当にごめんね……」

「謝るな」


 凛恋の頭に手を置いて、俺は入ったばかりの部屋を出て玄関の鍵を掛ける。

 アパートから近くのドラッグストアに走って、買い物かごを持って店内に入る。そして、真っ直ぐ生理用品の置いてある場所に行く。すると、丁度ナプキンを手に取った田畠さんと目が合った。


「す、すみません」


 俺と目が合った瞬間、田畠さんは顔から腕の先まで真っ赤にして、体の後ろに手に取ったナプキンを隠す。


「う、うん……」


 気まずいが、凛恋のためにナプキンを買って帰らなければいけない。だから、俺は気まずさを抑えてナプキンの前に立つ。


「もしかして、八戸さん、生理?」

「はい。今部屋で寝てて、その間に必要なものを買わないといけなくて」

「だったらそれじゃなくてこっちが良いよ。これなら多くても安心だし、動いても横漏れしないから」

「すみません。ありがとうございます」


 俺が手を伸ばした物ではないナプキンを選んでくれた田畠さんに頭を下げる。俺より凛恋と同じ女性の田畠さんのアドバイスは心強かった。


「あと、症状が辛そうなら痛み止めを買っていってあげた方が良い。それとデリケートゾーン用のウエットティッシュがあると助かると思う」

「すみません。何から何まで……」


 田畠さんは凛恋のために、凛恋が少しでも楽になれるように俺へ色々と教えてくれる。俺一人だったらナプキンと痛み止めくらいしか買えなかった。ウエットティッシュがあると便利なんて知りもしなかった。

 田畠さんと一緒にドラッグストアを出ると、俺は改めて田畠さんに頭を下げた。


「田畠さん、本当にありがとうございました」

「ううん。私は大丈夫。八戸さんが生理だって知ってすぐにナプキン買いに来る多野くんは優しいね。男の子はあんまりトイレに行く度に変えないといけないって知らないはずだけど」

「今までに何度も生理で辛そうにしてる凛恋を見てたので」

「そっか。八戸さんが羨ましいな、こんなに一生懸命になってくれる彼氏が居て」


 田畠さんは顔の赤みが残ったまま微笑んで言う。


「多野くん、一人で大丈夫?」

「はい。痛み止め飲ませて今日ゆっくりさせます」

「うん。それが良い。始まったばっかりの時は凄く辛いから。多野くんは偉い」


 そう言った田畠さんは、俺の頭に手を載せて撫でた。すると、田畠さんはハッとした表情をして、すぐに手を俺の頭から外した。


「ごめんね。頑張ってる多野くんを見たら、つい」

「いえ。励ましてくれてありがとうございます」

「ううん。本当に多野くんは偉い」


 何度も何度も褒めてくれる田畠さんに感謝し、俺は部屋の前で田畠さんと別れて自分の部屋に戻る。


「凡人……」

「起きなくて良いから」


 ベッドから出ようとした凛恋の肩を押さえてから電気ケトルでお湯を沸かし、少し冷ましてから痛み止めと一緒に凛恋に差し出す。


「これで辛さも楽になるはずだ」

「ありがとう……」


 凛恋が薬を飲むのを見ながら、凛恋の背中を擦る。すると、凛恋がむくんだ手で俺の空いている手を握った。


「ごめんね……本当にごめん……今朝急になって……先週泊まれなかったのに」

「仕方ないだろ。凛恋が悪いわけじゃない」

「うん……」


 凛恋は凄く弱っている。そんな凛恋に責める言葉なんて浮かばなかった。ただ、残念だと思った。

 凛恋は悪くない。ただ神様に、なんでよりによってこのタイミングなんだと思ってしまう。

 先週も凛恋は泊まれなかった。先週も俺と凛恋はエッチ出来なかった。

 生理は誰が悪いことじゃない。女性はそういう体の仕組みで、一番辛いのは当の本人である凛恋だ。

 それは分かっているのに、俺はどうしようもない辛さを感じた。


 きっと、俺がどうしようもなく辛いと思っていることを理解してくれるのは男しか居ないんだと思う。

 俺が女性の生理について理解しようと努めているからと言って、同じことを誰かに、女性に理解して欲しいと言うのはきっと傲慢なんだ。でも……それでも思ってほしい。分かって欲しいと。


 男が、エッチ出来ると期待させられて何度も期待を裏切られる辛さを分かってほしい。それに、俺は凛恋を裏切れないから、エッチな動画やビデオも見られない。だから、どうしようもなく辛くて堪らなくて苦しい。

 それを、今俺を絶望の淵に落としている空の上に居るはずの神様に分かって欲しい。もし、そんな存在が居るのなら、今すぐ凛恋の生理を終わらせて、笑顔で凛恋と一つになりたい。そして……もう何日も確かめていない、俺の彼女の存在を確かめさせてほしい。


「凡人……来週は、来週は絶対に埋め合わせするから。本当に、絶対」

「凛恋、気にするな。もう横になって休んでろ。丁度袋のうどんがあるからそれを作る」

「うん……ありがとう」


 俺はせめて、凛恋とキスをしたかった。でも、体をゆっくりとベッドに横たえて休む凛恋の姿を見たら、そんなわがままは言えなかった。




 凛恋の生理が来て泊まれなくなってから六日後。やっと、明日俺はもう三週間振りに凛恋の存在を確かめられる。


「多野くん、大丈夫?」

「はい? 何か仕事忘れてましたっけ?」


 前から田畠さんに話し掛けられて、俺は顔を上げて自分の仕事の進捗状況を確認する。でも、どの仕事も遅れてなんていないはずだ。


「仕事は全く問題ないよ。でも……多野くん疲れてる」

「まあ、ちょっと頑張りすぎた感はありますかね」


 心配して言ってくれる田畠さんに、おどけて笑って返す。

 先週も今週も、俺は必死に企画書を書き続けた。毎週毎週古跡さんに突き返されるが、それでも諦める気はなかった。絶対に何とかして企画を通して、俺はちゃんと凛恋の隣を歩きたい。ただ……辛さが限界に来ているのも、何となく自分で分かっていた。でも、明日になれば俺は凛恋にその辛さを全部癒やしてもらえる。


「あんまり無理しちゃダメよ。よく寝ないと身長伸びなくなるよ~」

「もうこれ以上要らないですよ」


 明るく冗談を言う平池さんに返すと、平池さんと帆仮さん、そして近くを通り掛かった巽さんがクスクス笑った。


「多野」

「はい」

「ちょっと良い?」

「えっ? はい」


 突然後ろから古跡さんに呼び出され、俺は不安に思いながら立ち上がって会議室に入っていく古跡さんに付いていく。すると、古跡さんは隣り合わせになった椅子を引いて、片方を俺に手で示した。


「座って」

「はい。失礼します」


 俺が椅子に座ると古跡さんが後から座って、横から俺の顔を真っ直ぐ見詰める。


「何があったの。言いなさい」

「え? 何がって、何ですか?」

「なんで、そこまで必死に企画を上げてくるの」

「必死に企画を上げてるのは、他の編集さんと同じ――」

「同じ? 同じなわけないでしょ。多野、あんた自分が何やってるか分かってるの? 先週までは頑張ってるんだ、本気でうちの仕事に取り組んでくれてるんだって目を瞑ったけど、それが私の間違いだったわ。……何してんのよ」


 古跡さんはそう言って、持っていた紙の束を俺の目の前に放り投げた。それは、俺が最初に出した企画書から一番新しい企画書全てだった。


「大体、平均して一つの企画は四日で考えて一日で書くものよ。込み入った企画のものだともっと長くなる。それを社員の編集はやってるけど、それはその企画書作りが社員の“通常業務”だからよ。その通常業務の負担を減らすために、うちには多野と巽さんに居てもらってる。二人が居るから、社員は企画を練る時間を作れてるの」


 俺に語り掛ける古跡さんの声は震えていた。そして、俺が最初に出した企画書を持ち上げる。


「初週に四つ、次週に四つ……それで今週は五つ? 通常業務で企画書作ってる編集が残業して二つか三つよ。それを、昼間は大学に行って、アルバイトの時には編集補佐の業務をやって、それでその上に週五つの企画書? ……なんでそんな無茶苦茶なこと……してるのよ」


 テーブルの上で拳を握り締めた古跡さんが拳を振るわせながら言って、目から涙を流した。


「何があったの! 何で多野がこんな追い詰められてるの! 話して!」

「古跡さん、俺は何も――」

「何もなかったら、そんな顔しないわよッ! 何かあったか言いなさいッ! 私は多野をここで潰したくないのッ! こんなことで……多野を潰すわけにはいかないのよ……」


 声を荒らげた古跡さんは、拳でテーブルを強く打つ。その古跡さんの行動に驚いた。いつも冷静な古跡さんらしくない。


「……もう、企画書を書いてきても読まずに捨てるわ。だから、もう書くのは止めなさい」

「えっ……ま、待って下さいッ! すみませんでした! 本当に、ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした! だから――」

「二度は言わないわ。もう二度と、企画書は書いて来ないで。それと、今日はもう帰って休みなさい。丁度終わりの時間でしょ」


 古跡さんはそれだけ言って立ち上がり会議室を出て行く。そして、静かになった会議室で、テーブルの上に残された企画書を見て呆然とする。

 やってしまった。俺が無理をして企画を上げ続けたせいで、古跡さんを変に心配させてしまった。だから、古跡さんは俺にもう無理をさせないために、無理をして企画を書いても読まないと言った。だけど……それは古跡さんの優しさだと分かるけど、それ以外にも分かってしまったことが、察してしまったことがあった。

 俺は……古跡さんの期待と信頼を裏切った、裏切ってしまった。


「そんな……じゃあ、俺はどうすれば凛恋の隣を歩けるんだ……」


 俺は企画作りに懸けていた。それが、俺の思い付く凛恋の隣を堂々と歩ける唯一の手段だと思った。その唯一の手段が、凛恋の隣に行ける道が閉ざされた。


「多野さん……あの、古跡さんがもう帰りなさいって」

「巽さん、先に帰ってて」

「でも……」

「ごめん。今は、誰かと一緒に帰る気分じゃないんだ」

「…………分かりました。お先に失礼します」


 会議室のドアを開けて声を掛けてくれた巽さんは、そう言ってゆっくり音を立てないようにドアを閉める。後輩の女の子に気を遣わせてしまうなんて、先輩として最低だ。

 ゆっくり椅子から立ち上がって、机の上に散らばったゴミを拾い上げる。そして、纏めて、会議室の隅にあったゴミ箱へ放り込んだ。


「多野くん、あの――」

「すみません。お先に失礼します」


 会議室のドアの前に立っていた田畠さんと出くわし、俺は田畠さんの顔を見ないように頭を下げて編集部を出た。そして、エレベーターで下りてビルの外に出た時、目の前に人影が立ち塞がる。

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